第三BF:ステックソン 7
夫の眼差しが自分に注がれていると気が付いた瞬間、妻の気配が変わった。
ほんの数秒前まで、ただ崩れ落ちていたはずの人間が。
スイッチを入れ替えたみたいに別の顔になる。
テレビでよくある「ここからが本番です」みたいな合図。
でもこれ、カンペもリハーサルも無いやつだ。
自分を憐れんで、自分の悲しみだけを表していた春香さんが、達也さんに向けて問いかけた。
「行っちゃうの?」
凍り付いた声。
幽鬼の様な表情。
そのあまりに劇的な変化に、あの双滝さんですら思わず息を呑んでしまうほどに。
「春香……」
「たっちゃんは私を置いて行っちゃうの?」
平易な言葉ではあるが。
春香さんの言葉に籠る熱が、どんどんと剣呑さを帯びてゆく。
温度が上がる、っていうより圧が増していく感じ。
真夏のドームの熱気より、よっぽど息苦しい。
「番組の都合とか」
「他人の事なんて聞いてない! 私はたっちゃんの気持ちについて聞いてる!」
幽鬼は生成りを飛び越えて般若へと至る。
愁嘆場は一転、修羅場へと移り変わった。
いや、さっきまでも十分修羅場っぽかったけど。
ここからはもう完全にジャンルが違う。
音声さんを伴って春香さんにマイクを向けようとしていた黄石の足が止まる。
苦虫を噛みつぶしたような表情。
さっきまで「いい絵だねぇ」とか言いそうだった顔が、
完全に計算モードに入ってる。
この素材に対する扱いを頭の中で転がしている。
オンエアできるか、できないか。
したらどこまで切り取るか。
そもそもこの空気、番組として成立するのか。
そんな感じのことを、たぶん一瞬でやってる。
そこに。
ぽんと。
閑君が迷える黄石の肩を叩いた。
あの人、動きが静かすぎて怖いんだよな。
いつの間にそこにいたんだよっていう。
閑君は続けて宣言する。
「撮影中止!」
言葉を受けてカメラが一斉に他所を向く。
レンズが逸れる音が、妙に大きく聞こえた。
「英断だね」
大渓さんが呟く。
あの人の声って、なんでこんなに通るんだろう。
小さいのに、ちゃんと全員に届く。
彼が呟くと周囲が必ず反応する。
「落ち着くまで時間がかかりそうね」
椰子泉さんの言葉を、続く双滝さんが否定した。
「多分ダメ。時間かけて冷静になる子じゃないよ、あの子」
分析、早いな。
しかもたぶん当たってそう。
双滝さんの分析を裏付けるように、春香さんは達也さんを詰めてゆく。
距離が、じりじりと詰まる。
物理的にも、精神的にも。
「たっちゃんは私をずっと守ってくれるって誓ったでしょ」
「そうだけど、これは」
「私今、ひとりで寂しく泣いてるんだよ? 守れてないよね!?」
「でも番組の栞にも書いてあって」
「また他人を理由にして誤魔化す!」
「春香も納得したから合意書にサインしたんだろ?」
「昔のことは言ってない! 私が! 今! 泣いてることを言ってる!」
泣いてないじゃん。
怒ってるじゃん。
そうツッコミたかったのは俺だけじゃなかったはず。
でも実際は誰もあの二人に触れられない。
砂浜にいる全員が、微妙に距離を取ってる。
半径数メートル、見えない円ができてる感じ。
何が彼女の炎に火を注ぐことになるかわからない。
何が彼女の逆鱗に触れることになるかわからない。
でもはっきりと。
彼女の怒りを止ませるのは夫の決断ただ一つなのだと。
それ以外の選択肢は、横槍は、全部燃料になる。
閑君を中心としたスタッフ連は円陣を組んで何事かを相談中。
さっきまでの撮影って空気が消えて、完全にトラブル対応会議になってる。
そんな中、黄石はこっちにふらふらやってきて、俺たちにこう告げた。
「いやー、できれば僕もここで解散にしたいところだけど、バンザイも撮れてないし、敗者インタビューも出来てないんだよね。だからあなたたちにはホント、悪いんだけどさ。ここを動かないでいて欲しいんだ」
言い方が、やけに柔らかい。
いつものあの芝居がかった調子じゃない。
素の声に近い。
黄石の言葉にも顔つきにも演技の匂いはしない。
恐らく彼等も困っているのだろう。
規約を持ち出さずに、お願いという形で俺たちを制するのだから。
「大渓さん、荒火くん。悪いけどこっちの仕切りお願いな!僕はあっちの会議に参加してくるから」
黄石は二人にこちらサイドを託すと、小走りで閑君の下へ。
一応若手スタッフの二人ばかりがこちらについている。
でも正直、この状況で何ができるんだって話だ。
「ねえ、ちゃんと言わなきゃわかんない? 私が涙を止める言葉がわかんない?」
「……」
「なんで黙ってるのかな? 都合が悪くなるとそうやってやり過ごすのかな?」
「……」
達也さん、完全に詰んでる。
ここを支配しているのは理屈でも倫理でもなく感情だ。
春香のやつの感情を満たす答えを――
屈服し白旗を上げる様を見せねば、達也さんは決して解放されない。
や、解放はどうあってもされないね。
かわいそう。
「じゃあね。たっちゃんが困っちゃうことがわかってたけど。たっちゃんは私の事、全然分かってくれないから言っちゃうね。たっちゃんが悪いんだからね。これで私の事嫌いになっちゃダメだからね」
前置きが長い。
嫌な予感しかしないやつだ。
「春香、俺」
「たっちゃんはクイズと私、どっちが大切なの!?」
恐らく、ここまでのやり取りを聞いていた独身男どもはみんな。
こう、思っただろう。
『結婚、夢も希望も無いな』
俺もそう思った。
いや、思わざるを得ないだろこれは。
クイズより難易度高いってどういうことだよ。
「これだから女という生き物は」
キングが問題発言。
タイミングも内容も完璧にアウト。
でも今この場で止めるやつはいない。
「昔同じセリフ吐かれてクイズだって答えましたからね、我が王は」
「あの頃の俺はまだ王ではなかった」
ん~~、同情無罪。
そもそもキングに彼女いたことあるんだ。
あんな体格と態度なのに。
カリスマに当てられたんかね。
俺だったらどうする?
……いや、考えるだけ無駄だな。
そもそも今の俺には彼女とかいないし。
「何?」
なんか気づいたら衿衣に目線を映してたわ。
なんでだろうね?
まあいいや。
ちょっと衿衣の態度に苛めきを嗅ぎ取ってしまった俺は、
再び目線を彷徨わせた。
彷徨わせて。
その先に。
ぽつんと。
立ち尽くす穂積がいた。
これだけの騒ぎにも関わらず、穂積は微動だにせず、足元に目線をやっている。
まるで、今この場所にいる意味を見失ってしまったみたいに。
呆然自失。
あいつはぐるりウルティモに賭けていた。
その決断の重さを、俺は知っている。
俺とのジャンケンを通じてその想いを純化させた。
――軽い遊びじゃない。
あいつなりの、あいつだからこその、覚悟だった。
俺にとっては、その。
不本意なというか、淋しいことにというか。
そういう決断だったけど。
それでも、否定はできなかった。
俺はそれでも、あいつの意志を尊重しようと思ってた。
『旅の間は、全てを保留にしておきたい』
あの言葉の距離感。
拒絶じゃない。
でも、確かな線引き。
わざわざ他人を人除けに使ってまで、穂積は俺との接触を避けてた。
それだけ本気だった。
なのに。
今のあいつは、あんなにも、小さい。
肩が落ちている。
背中が、丸まっている。
世界に対して開いていたはずの姿勢が、閉じている。
いつも元気で、前向きで。
俺を助けてくれて。
背中を押してくれて。
就活で参っていた俺を気分転換に誘ってくれた。
あの時の、無理やりな明るさ。
それに救われたのは事実で。
それがあったからこそ異世界を満喫できてて。
逃げない決意を抱けた。
そんな、借りがいくつも積み重なってる相手なのに。
俺の親友なのに。
あそこで、一人で俯いている。
――見過ごせるわけ、ないだろ。
「私が港ヶ陸くんに足止めを頼まれたのは、勝負が終わるまで、でしたな」
李野くんが声をかけてきた。
いつもの飄々とした口調。
だけど、その言葉は妙に的確で。
「港ヶ陸、足元しか見てないよね」
垂須さん。
以前の大会で、負けて初めて異世界の空に気づいた男。
その言葉は、さっきまでの苛立ちとは違う温度を帯びていた。
穂積。
ウルティモが原点だと言っていた男は、
このままだと二つの太陽に気づかぬままに帰ってしまう。
「ともだち」
衿衣が穂積を指差して言う。
短く。
力強く。
確信を込めて。
……そうだな。
ここまで背中押されたら、動かなきゃウソだな!
胸の奥で、何かが決まる。
迷いじゃなく、行動の方へ。
「穂積!」
声を張り上げた。
空気が一瞬だけ止まる。
穂積がゆっくりと顔を上げた。
虚ろな瞳でこっちを見てる。
焦点が合っていない。
あんな瞳じゃダメだ!
「空をみろ!」
穂積は首を上に。
ぎこちない動き。
でも、確かに動いた。
「海をみろ!」
穂積は首を左に。
視界に広がる青。
波の反射。
「火山をみろ!」
穂積は首を右に。
黒い岩肌と、熱気。
幾筋にも分かれた噴煙。
「何が見えた?」
穂積は答えない。
でも、もう見ている。
「異世界が見えたろ! お前が憧れてた異世界だ!」
その言葉は、思っていたよりも強く出た。
胸の奥に溜まっていた何かが、そのまま声になったみたいに。
穂積の目が見開かれた。
空を、海を、火山を。
今度は自分の意志で見た。
さっきとは違う。
見るために見る目。
最後に、俺を見る。
その目には光!
宿るのは意志!
俺の大好きな穂積の目だ!
――戻ってきた。
「またいつか、来るぞ!」
自分でも、少しだけ恥ずかしいくらい真っ直ぐな言葉。
でも、それでいい。
「……ああ!」
だってあいつが答えてくれたから。
短い返事に。
とびっきり強い意志ととびっきり熱い想いを乗せてくれたから。
もう、あいつは大丈夫。
「「おおー」」
スタッフが拍手。
ちょ、やめっ、こっ恥ずかしいから。
カメラが回ってないからできた暴挙だから。
「感動した!」
ハナさん抱き着かないで。
汗まみれのボディを上下にすりすりしないで。
「にしし、男の子同士……」
白山さん、そこで言葉切らないで。
なんだか嗜虐的な目で八重歯をむき出しにしないで。
李野くんも垂須さんも大渓さんもグッドサインやめて。
あっちでは穂積がマッスルコンビにヘッドロック嚙まされてるな。
女子大生コンビもおずおずと絡んで来たぞ。
やっぱりあのチームはいいチームだ。
なあ穂積。
日本に帰るまでにちょっとでも異世界の空気を楽しめるといいな。
一時とは言え同じチームで戦った、仲間といっしょに。
と。
――いい感じにまとまった。
青春ロードムービならばここで爽やかに完!
で済んだところを。
忘れてた。
ここはぐるりウルティモだった。
空気を読む番組じゃない。
空気を壊してでも面白さを優先する場所だ。
「前言を撤回する! やるぞ! 敗者復活戦!」
会議を終えた黄石が宣言した。
てかてかした笑顔で。
穂積たちに手を振って。




