笑顔 2
ぶるるるるる!
一瞬で景色が流れた。
速い!
涼しい!
眩しい!
怖い!
なんだこれ!?
ヒッポカンポス――カンポス氏の背中にしがみついたまま、俺はただ振り回されてるだけだ。
なのに。
めちゃくちゃ楽しい。
海面。
さっきまで遠くから眺めてた乳白色のそれが、今はすぐ下を流れてる。
いや、流れてるっていうか―― 弾いてる。
カンポス氏の尾が水を叩くたびに、波が割れて、白い筋が一直線に伸びる。
水しぶきが両脇に広がって、まるで道を作ってるみたいだ。
回転もない。
捻りもない。
ただ、まっすぐ走ってるだけ。
それなのに。
無茶苦茶たのしい!
全力でアクセル踏んだゴーカートみたいだ!
そうだよ。
速いとか、怖いとか。
そういうのって、楽しいことだったじゃないか。
ハラハラドキドキって、
本来、いいやつだったはずだ。
なんで忘れてたんだろ。
いつからだ。
就活?
大学受験?
……いや。
もっと前な気がする。
気づいたらそういうの全部、「無駄」みたいに処理してた。
安全な方がいい。
損しない方がいい。
効率よく。
失敗しないように。
……。
まあいいや!
今それ考えても、なんの得もない。
むしろ邪魔だ。
余計なこと考えてたら、この「楽しい」が逃げる。
割合が減る。
どうせなら、100%だろ!
「うおっ!?」
カンポス氏が、急に首を上げた。
「ひひーーーーん!」
初めて豚っぽくではなく馬っぽく嘶いて、そのまま。
跳んだ。
「は!?」
大ジャンプ。
海面が一気に遠ざかる。
空が近い。
太陽の一つだけが、視界いっぱいに広がる。
怖……
下腹部が、すっと冷える。
内臓が置いていかれる感じ。
でも。
「あは」
笑ってる。
自分でも意味わかんないけど。
ジャボン!
着水。
いや。
着水っていうか、叩きつけ。
水面にぶつかった瞬間、爆発みたいに水が跳ねる。
凄い水量。
ほんとに。
俺が二人分くらい、上に持ち上げられてる感じ。
「うわっ、ぺっぺっぺ!」
顔面直撃。
しぶきとかいうレベルじゃない。
水の塊。
鼻にも、喉にも、目にも、耳にも、全部入ってくる。
ひでえ!
「あはは」
でも笑う。
なんでだろうな?
なんだっていいや!
「ぶひっ! ぶひっ!」
カンポス氏、調子に乗ってる。
さっきより明らかにテンション高い。
で。
うおっ、今度は――
ギャロップ。
水の上なのに、完全に走ってる。
前脚で水面を叩いて、その反動で進む。
リズムが変わる。
ドン、ドン、ドンって。
波を踏みつけながら進む感じ。
サービスいいな、お前!
「あはははははは!」
止まらない。
何だこれ?
なんも考えてないのに笑ってる。
いや。
考えてないから笑えてるのか。
そういえば。
最近、こんなふうに笑ったことなかったな。
楽しいこと、なかったし。
逃げないって決めたのはいいけど――
……って。
また考えてる!
もういいだろ、そういうの!
今はこれだ!
この時間だ!
このスピードだ!
この波だ!
カンポス氏の背中が、しなる。
尾が水を叩くたびに、波が砕けて、白い飛沫が空に舞う。
風が顔を叩く。
潮の匂いが強くなる。
全部、ぐちゃぐちゃに混ざってる。
でも、それがいい。
「もっとスピード出せるか!?」
叫ぶ。
「ひひひん!」
即答。
「いーい返事だ!」
なんで通じてるのか、もうどうでもいい。
異世界だし。
そういうもんだろ。
都合のいい不思議は、全部飲み込め。
考えるな、感じろ。
とか、そういうやつ。
今ならちょっと分かる気がする。
今の俺は。
ただのスピードだ。
波を切って、風を裂いて。
何も背負ってない。
ただ、前に進んでるだけだ。
おや、ちらほらと水面に人影が見えるな。
白く濁った海の上に、点々と影が浮かんでる。
最初は岩か何かかと思ったけど、よく見ると動いてる。
手が上がって、水が弾けて、また沈む。
ああ、人か。
だいぶビーチに近づいちゃったのかな。
さっきまで、あんなに何もなかったのに。
気づいたら、もう「遊泳エリア」って感じの空気になってる。
波も、少しだけ穏やかになってるし、水しぶきの上がり方も、さっきとは違う。
これじゃ、スピード出しすぎたら危険だな。
さすがに、突っ込んでいったら洒落にならない。
しょうがない。
コース変えるか。
「カンポス氏、人混み、危険。わかるな?」
「ぶひひ」
短く鳴いて、首を上下に振る。
……ほんとに分かってるっぽいな。
かしこいなー。
「だからコースを、もっと外より――」
言いかけて。
視界の端で、何かが動いた。
ばしゃばしゃと。
浮き輪に体を通しながら、ぎこちなく水面を蹴ってるやつ。
一生懸命、バタ足。
白い水が、妙に細かく跳ねる。
ビーチから、程よく離れた位置。
人混みからは外れてる。
ぽつんと一人。
……あれ。
見覚えあるな。
装備に。
ワンピースの水着に、ゴーグルに、シュノーケル。
浮き輪。
で、たぶんどこかにラバーダックもある。
間違いない。
「衿衣」
名前を呼ぶ。
カンポス氏のスピードが、少しだけ落ちる。
水面を叩く音が、柔らかくなる。
「……何」
「何やってるの?」
「楽しんでる」
眉間にしわを寄せて。
衿衣はそう、口にした。
「俺も今、楽しんでるんだけどさ」
カンポス氏の背中でバランス取りながら、声を投げる。
「見ればわかる」
即答。
相変わらず無駄がない。
バタ足は止まらないまま。
ばしゃ、ばしゃ、って、規則正しく水を蹴ってる。
「だいぶビーチから離れてるよ?」
周りを見れば、人影はもうほとんどない。
さっきまでちらほらあった浮き輪も、だいぶ遠くに小さくなってる。
代わりに、波の質が変わってきてる。
表面は穏やかに見えるのに、下から引っ張られる感じ。
なんか、嫌な流れ。
「楽しみの邪魔」
ぴしゃり。
取り付く島なし。
……と思ったけど。
よく見ると、呼吸がちょっと荒い。
肩も、微妙に上下してる。
衿衣はバタ足疲れの為か、ちょっと余裕なさそうだ。
いや、いつも張りつめてて余裕あるタイプじゃないけど。
今は、明らかに体力の方。
足の動きが、ほんの少しだけ重い。
「少し休んだら」
軽く言ってみる。
「離岸流に捕まる」
「えっ?」
思わず声が裏返る。
離岸流。
聞いたことある。
海水浴場の注意書きに書いてあるやつだ。
沖に引っ張られるやつ。
それって。
かなりまずいんじゃないか。
衿衣のバタ足は、止まらない。
体はちゃんとビーチの方を向いてる。
でも。
位置は、じわじわとズレてる。
気づかないレベルで、でも確実に。
こっち側へ。
沖の方へ。
白い海の奥へ。
「だめじゃん」
思わず声が出る。
「楽しんでるから大丈夫」
「だいじょばないじゃん」
噛む。
余裕ないのは、こっちもか。
「市籠はうるさい」
ぴしゃり。
あ。
名前、知ってたのね。
まあ、そりゃそうか。
一応同じ通過者だし。
……それにしても、今それ言うタイミングか?
「なあ、カンポス氏」
「ひひん」
横で、軽く鼻を鳴らす。
状況、分かってる顔してる。
「衿衣、乗っけてもいい?」
「は?」
即、反応。
ぶるるん。
カンポス氏が首を上下に振る。
いける、って顔だ。
「そんなこと頼んでない」
衿衣が睨む。
でも、その間も足は動いてる。
ばしゃ、ばしゃ。
少しだけ弱くなってる。
「でも危ないよ、実際」
正論っぽいことを言ってみる。
あんまり得意じゃないやつ。
「……」
返事がない。
その代わり、呼吸の音が少し大きくなる。
波が、足元で細かく崩れる。
水面が、妙に静かだ。
静かすぎて、逆に怖い。
「楽しいよ、馬に乗るの」
軽く言う。
実際、楽しかったし。
爽快って言葉の意味、思い出せたし。
「……うー!」
なんでか、威嚇された。
すっごい睨まれてる。
怖いけど、なんかぞくぞくする。
声、小さいのに圧あるな。
この小動物。
でも。
バタ足が、止まった。
ほんの一瞬。
で。
「ん」
手が、伸びてくる。
浮き輪の上から、こっちへ。
迷いがある動き。
でも、ちゃんと伸びてる。
要救助者確保。
カンポス氏に軽く合図。
すっと、位置を合わせる。
水面が揺れる。
「掴まれ」
短く言う。
衿衣の手が、手綱に触れる。
次の瞬間。
俺はぐいっと引っ張る。
「……!」
体が、ふっと浮く。
浮き輪ごと、少し持ち上がる。
水が弾ける。
で、すっぽり俺の胸の前に収まる。
小さいことは良いことだ。
「ぶひっ」
カンポス氏が、楽しそうに鳴く。
こいつ、絶対分かってやってる。
ゆっくり。
でも確実に。
カンポス小屋の方へ引いていく。
波を割りながら。
白い筋を残して。
「楽しんでやる」
ぽつりと、衿衣が言う。
息はまだ荒い。
体は冷えている。
でも、さっきより少しだけ余裕出て来た感じ。
そうそう。
その意気だ。
せっかく異世界まで来て、
バタ足だけで終わるのも、もったいないしな。
で。
衿衣の体温が戻ってきたあたりから。
カンポス氏はサービス精神を発揮してしまいました。
「「きゃーーーーー!」」
大ジャンプ!
「「うわーーーーー!」」
大回転!
「「ひーーーーーー!」」
大アクセル!
「思い出した」
衿衣が重力加速度に頬を震わせながら呟いた。
「私は、ジェットコースターが好きだった」
初めて見せた笑顔。
肩の力が抜けた笑顔。
年相応の、いや、外見相応の幼い笑顔。
なんというか、その。
たぶんしばらく忘れられない予感がする笑顔だった。




