第41話 3618、別の番号と歩く彼女を見る
第41話 銀座ですれ違ったもの
銀座の夜は、いつもと変わらない顔をしていた。
ビルの灯りとネオンと、タクシーの列。金曜の夜ほどではないが、木曜の夜もそれなりに人が出ている。
取引先との会食を終え、山城は一人で並木通りを歩いていた。ネクタイを少し緩め、ジャケットのボタンを外す。
——少し、歩いてから帰るか。
タクシーを拾うには、まだこのざわめきが惜しかった。
ふと、反対側の歩道に目をやったときだった。
「あれ……」
見慣れた横顔が、視界の端に引っかかった。
淡いベージュのトレンチコート。
ヒールの高すぎないパンプス。
小柄な体に、よく通る声。村上祐未だった。
その隣を歩いている男を見て、山城は一瞬、目を疑った。
——佐伯。
少し猫背気味のスーツ姿。
笑うときに、肩から揺れる癖。
会社帰りのような格好で、祐未の隣を歩いている。
二人とも、楽しそうに喋っていた。
その距離は、近い。
恋人ほどではないが、ただの知人にしては、少し近い。
足が、止まった。
車の流れが途切れたタイミングで、信号が青に変わる。
渡るか、このままやり過ごすか——一瞬迷って、山城は足を前に出した。
「佐伯」
横から声をかけると、二人とも同時に振り向いた。
「社長?」
佐伯が、驚いたように目を丸くする。
祐未も、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を整えた。
「山城さん」
名前を呼ぶ声は、いつもと同じだった。
ただ、その目の奥に、一瞬だけ何かが走った気がした。
「珍しいな。二人で銀座か」
山城は、なるべく気楽そうな声で言った。
「いや、その……」
佐伯が頭をかく。
横で祐未が、軽く笑った。
「たまたま、ですよ」
「たまたま?」
「はい。この前のパーティーのとき、“今度飲もうよ”って話になってて」
「飲んでたのか」
「さっきまで、ここらへんで。ね?」
祐未が、佐伯の方を見る。
佐伯は、どこか気まずそうに頷いた。
「まあ……そういうことだ」
「そうか」
言葉としては、それしか出てこなかった。
飲み会の席で、佐伯から“あの後の女の話”は聞いている。
まつエクだの、銀座慣れした女だのと。
その中に、「祐未」の名前は、一度も出てこなかった。
——言わなかったのか。
——それとも、言えなかったのか。
胸の奥に、じわりとしたものが広がる。
「社長こそ、どうしたんですか。銀座なんて」
佐伯が、空気を変えようとするように言った。
「取引先との飯があってな。今、終わったところだ」
「さすが、忙しいですね」
「お前も、忙しい中、若い女と飲む余裕はあるようだ」
「いやいや、そんな……」
佐伯が笑いに逃げようとしたところで、祐未が口を開いた。
「ごめんなさい」
山城は、少し意外そうに彼女を見た。
「何に対してだ」
「言ってなかったから」
祐未は、まっすぐこちらを見た。
「佐伯さんと会ってること」
「……」
「別に、隠すつもりはなかったんですけど。わざわざ報告するのも、変かなって」
言い訳がましい調子は、一切なかった。
ただ、それが自分の選択だったと言うだけの声だ。
「そうか」
「山城さんが嫌なら、もう会わない方がいいのかもしれないですけど」
「俺が、嫌かどうかで決めることでもないだろう」
「そうですか?」
「お前の人生だ」
短いやり取りだったが、佐伯は二人の間の温度差に気づいたらしい。
どこか落ち着かない様子で、時計をちらりと見た。
「そろそろ時間だな。祐未ちゃん、タクシー拾うか」
「そうですね」
「山城社長も、どこかまで?」
「俺は、少し歩いてから帰る」
「そうですか。じゃあ、また」
佐伯が、いつもの調子で頭を下げようとしたとき、山城は口を開いた。
「佐伯」
「はい?」
「悪いのは、お前じゃない」
「え?」
「気にするな」
佐伯は、一瞬、何か言いかけて、結局何も言わなかった。
代わりに、少しだけ真面目な顔で頷いた。
「……分かりました」
「じゃあな」
「お疲れさまです」
佐伯と祐未が、並んでタクシー乗り場の方へ歩いていく。
二人の背中をしばらく見送ってから、山城は、逆方向に足を向けた。
***
銀座のネオンが、やけに平板に見えた。いつもは眩しく感じる光が、今日はどこか白々しい。
——隠し事をされていた。
その事実が、思った以上に重かった。
真理に裏切られたときのような、
みどりの金遣いに呆れたときのような、
恵美に「線」を引かれたときのような、
あの痛みとは、少し違う。
今回は、女だけの問題ではなかった。
「友人」が絡んでいる。
自分が連れて行った世界で、自分の知らないところで、自分の知らない関係が始まっていた。
——女は、怖いな。
胸の中で、そう呟いた。
祐未が悪い、という話ではない。少なくとも、彼女は嘘をついてはいない。問われていないことを、わざわざ言わなかっただけだ。
それでも。
飲み屋で肩を並べて「その後」の話をしたとき、佐伯は祐未の名前を一度も出さなかった。
“派手な美容系の女”のことだけ、冗談めかして話していた。
「社長見てると怖くなるんですよね」
「自分はそこまで抱え込む甲斐性があるかどうか」
あのときの佐伯の言葉が、妙に引っかかる。
——本音を言えない関係って、
いつの間にかこういうところに出るのかもしれないな。
足元を見ながら歩いていると、
ふと、ビルのガラスに自分の姿が映った。
五十八歳の男。
スーツ姿。
ネクタイが少し曲がっている。
「……何やってるんだか」
小さく吐き出した言葉は、夜の銀座のざわめきにあっさり飲み込まれた。
***
その夜、家に戻ってからも、
山城はしばらくスマホを手にしたまま、画面を見つめていた。
祐未からは、何のメッセージも来ていない。
佐伯からも、同じだ。
——こちらから、何か言うべきか。
「今日、銀座で会ったな」
「驚いたよ」
「佐伯のことは、先に言っておいてほしかった」
そんな言葉を打ちかけては、消した。
紗季の顔が浮かぶ。
——言葉で全部、整理しようとしないこと。
——重い気持ちを、相手の上に置かないこと。
画面を閉じ、スマホをテーブルに置いた。
「……いいか」
口に出してみると、少しだけ肩の力が抜けた。
今回の痛みは、深くは刺さっていない。
あの夜、湯気と闇の中で交わした言葉も、熱海の美術館で見た祐未の横顔も、全部「嘘」ではなかったはずだ。
ただ、そこに“友人”が絡んだことで、何か別の種類の怖さが顔を出した。
——俺は、そこまで踏み込みたくない。
そう思った瞬間、答えは決まっていた。
祐未との関係を、これ以上深くしないこと。佐伯に対しても、必要以上に詮索しないこと。
それは逃げかもしれない。だが、五十八歳の男なりの“線の引き方”でもあった。
翌朝、山城は祐未に、短いメッセージだけ送った。
「しばらく仕事が立て込む。落ち着いたら、また連絡する」
それに対する祐未の返信も、短かった。
「了解です。体調だけ気をつけてくださいね」
そこには、言い訳も、説明もなかった。軽く、あっさりとした文面。
——それでいい。
画面を閉じながら、山城は思った。
女は怖い。けれど、怖いからこそ、自分の中で守るべき距離とルールを、少しずつ覚えていくしかない。
その夜、銀座のネオンは、少しだけ違って見えた。




