第42話 最終話 3618は、線を引いて消える
交際クラブの女性との帰り道でもなく、女と別れた直後でもない、ただの平日の夜だった。
会社の仕事を一通り片づけ、
自宅のソファで缶ビールを開ける。
テレビはつけず、部屋は静かだ。
スマホの画面には、未読の通知がいくつか並んでいる。仕事関係のメッセージと、子どもからの「今度ご飯行こう」のLINE。
そして、その下に、祐未とのトークルーム。
最後のやり取りは、あのときの短いメッセージのままだ。
「しばらく仕事が立て込む。落ち着いたら、また連絡する」
「了解です。体調だけ気をつけてくださいね」
それきり、互いに何も送っていない。
——このまま、フェードアウトするんだろうな。
そう思いながらも、どこかでまだ、
「もう一度くらいは会えるかもしれない」と期待している自分もいる。
ビールを一口飲んだとき、ふと、紗季の顔が浮かんだ。
***
数日後。
山城は、久しぶりに紗季と会う約束をした。
場所は、以前と同じホテルのラウンジだった。
ガラス越しに夜景が広がり、低い音量のジャズが流れている。
「お久しぶりです、山城さん」
紗季は、相変わらずの笑顔で現れた。
シンプルなワンピースに、控えめなアクセサリー。
派手すぎず、それでいて場に負けない華やかさがある。
「忙しそうですね」
「お前ほどじゃない」
「女の子と遊ぶのも、立派な仕事ですよ?」
「それは、お前の仕事だろう」
軽口を交わしながら、二人は席についた。
グラスが運ばれ、氷の音がカランと鳴る。
「で、今日はどんなご相談で?」
紗季が、いつもの調子で切り出した。
「相談というほどでもないが……」
山城は、グラスを弄びながら言った。
「キャンパスクイーンの女がいたな」
「ああ、祐未ちゃん」
即答だった。
「終わったよ」
「終わった?」
「ああ」
「喧嘩したんですか」
「してない」
「振られた?」
「振られてもいない」
「じゃあ?」
「俺の方から、あまり連絡をしなくなった」
「それ、終わったって言わないですよ。“流れた”って言うんです」
紗季は、あっさりと言った。
「いつも、白黒はっきりさせたがる山城さんからすると、いい終わり方ですね」
「そうか?」
「そうですよ。山城さんにしては、上出来です」
からかうように笑いながらも、
その目は、どこか優しかった。
「女の子からしたら、“なんとなくフェードアウトされた”って、本当はあんまり嬉しくない終わり方ですけどね」
「だろうな」
「でも、祐未ちゃんくらいの子なら、それも含めて“そういうもんか”って、ちゃんと処理できると思います」
「……そうかもしれんな」
山城は、窓の外の夜景に目をやった。
「銀座で、ばったり会ったんだ」
「銀座で?」
「佐伯と、並んで歩いてた」
「……あぁ〜」
紗季は、すべてを理解したような顔をした。
「それは、なかなかエグいですね」
「エグいか」
「山城さん的には、どうだったんですか」
「どう、とは」
「“裏切られた”って感じたのか、“言ってくれなかった”って感じたのか」
山城は、少しだけ考えてから答えた。
「……後者だな」
「“言ってくれなかった”」
「ああ」
「怒りました?」
「怒ってはいない」
「悲しみました?」
「そこまででもない」
「じゃあ?」
「気持ち悪かった」
言葉にしてみると、それが一番しっくりきた。
「飲み会を一緒にした相手と、その場で知り合った女が、俺の知らないところで繋がっていた」
「なるほど」
「嘘をつかれたわけじゃない。隠そうとした気配もない。それでも、“共有されていなかった”感覚だけが残った」
紗季は、グラスを指で回しながら聞いていた。
「女が怖い、っていうより——」
山城は、言葉を探しながら続けた。
「人と人の“繋がり方”が怖いと思ったな」
「それは、いい視点ですね」
紗季は、素直に感心したように言った。
「どこで誰と誰が繋がるか、全部コントロールするなんて、無理ですよ」
「分かってはいたつもりなんだがな」
「頭では、ね」
紗季は笑う。
「でも、“自分のテリトリー”だと思ってたところに、知らない線が引かれてると、そりゃあ気持ち悪いですよ」
「そうだな」
「で、そこで“どうするか”ですよ」
紗季は、紙ナプキンとペンを取り出した。
さらさらと二本の線を引く。
「一本目の線は、『遊び』」
「二本目の線は、『本気』」
その間に、少しだけ幅を持たせた領域がある。
「ここが、“大人の恋愛”ゾーンね」
「以前も聞いたな」
「復習です」
紗季は微笑む。
「全部本気で来る男と、全部遊びで来る男。どっちも、正直ちょっとしんどいんですよ」
「じゃあ、どうすればいい」
「“自分の中で”線を引ける男が、一番楽」
「自分の中で?」
「そう。相手に“決めてくれ”って丸投げしないで、“ここまでは遊び、ここから先は壊れる”って、自分で把握してる男」
「それは、女にとって都合がいいだけなんじゃないか」
「男にとっても、ですよ」
紗季は、真顔で言った。
「だって、踏み込んだ先で痛い目を見るの、女だけじゃないでしょう?」
山城は、ビールをもう一口飲んだ。喉を通っていく冷たさが、少しだけ頭をクリアにする。
——今回は、どこに線を引いた?
真理のときは、線などなかった。最初から最後まで、本気と遊びの区別がつかず、気づけば金も心も、ごちゃごちゃになっていた。
みどりのときは、「これは遊びだ」と自分に言い聞かせながら、財布だけが先に本気になっていった。
恵美のときは、“遊びのはずだった”ところから、本気に転げ落ちた。
保奈美のときは、プロと素の境界を見失いそうになりながらも、どこかで「この人は、この世界で完結している」と線を引いた。
——祐未は。
熱海の海と、美術館と、露天風呂。
湯気と闇の中で交わした言葉。
銀座の街角で見た、小さな背中。
全部本気だったかと聞かれれば、違う。
全部遊びだったかと聞かれれば、それも違う。
「遊びと本気の間で、自分なりの線を引けるようになったら、山城さんもだいぶ楽になりますよ」
紗季の声が、頭の中で続ける。
「“これは遊びだ”って自分に嘘つくのもしんどいし、“これは運命だ”って毎回宣言するのも、しんどいじゃないですか」
「じゃあ、どうすればいい」
「あらかじめ自分に言っておくの」
グラスを弄びながら、紗季は指で二本の線を示した。
「“ここまでは、ちゃんと楽しむ”」
「“ここから先は、相手の人生に踏み込まない”」
「……今回は、どうでした?」
紗季が、少し真面目な目で尋ねた。
「踏み込んだと思います? 踏み込んでないと思います?」
山城は、少しだけ間を置いてから答えた。
「……祐未の人生に、仕事に、家族に、介入しようとはしていない」
「“俺がなんとかしてやらなきゃ”って?」
「そこまでは、思っていない」
「じゃあ、いいんじゃないですか」
紗季は、あっさりと言った。
「今回の線は、“遊び寄りの真ん中”くらい」
「遊び寄りの真ん中か」
「はい。でも、“何もしなかった後悔”は、あんまり残ってないでしょう?」
「そうだな」
「それなら、上出来です」
紗季は、グラスを持ち上げた。
「このくらいの傷で済んでよかったじゃないですか。次、もっと大きいのが来るかもしれませんけどね」
「脅かすな」
「脅しじゃないですよ。予告」
二人のグラスが、軽く合わさる。
その音を聞きながら、山城は心の中で、そっと祐未に頭を下げた。
———ありがとう。
なぜか、また、女性に何かを教えてもらった気分になり、ただ、自分の中でそう呟いていた。
***
その夜、自宅のソファに戻ったときには、
缶ビールの味は、さっきより薄く感じられた。
遊びと本気の間。
そのあいだに引いた一本の線は、まだ頼りない、細い線かもしれない。
それでも、以前の自分にはなかった線だ。
山城は、ふと、これまでの女たちの顔を思い浮かべた。
ここに登録されている女たちが求めているものは、まずは金だ。
男たちが求めているのは、誰もがうらやむような女。
どちらも、表面だけを撫でるような条件にすぎないのに、
そこに大金が動いていた。
山城は、その自由な女たちに、自分の欲ばかりをかぶせていたのかもしれない。
心のつながりも、若さも、美しさも、セックスも、そして自分の見栄も——
あれもこれも一人の女に背負わせようとしていた。
そして、自分の想いとは違うと、それをスパッと切ってきた。
「色々とお願いしすぎで、重い男でしたかな」
思わず口からこぼれた言葉は、誰に向けてでもなく、
これまで出会ってきた女たちに向けた、静かな謝罪のようにも聞こえた。
——少しは、自分を反省できるお年頃になったかな。
そう思った瞬間、胸のざわつきが、少しだけ和らいだ。
「……まあ、俺なんかこんなもんだろう」
小さく呟き、山城は空き缶をテーブルに置いた。
その夜、久しぶりに、女の顔ではなく、
自分の会社のことを考えながら、
ゆっくりと眠りについた。




