3618、初めて隣で眠る
熱海の街を抜け、海沿いの坂道を登っていくと、夜の闇が少しずつ濃くなっていった。
カーナビに表示された目的地の少し手前で、「目的地周辺です」と機械的な声が告げる。
「このへん?」
助手席の祐未が、窓の外を覗き込んだ。
「もう少し先だ」
坂の途中に、ひっそりと門構えが現れた。
大きな旅館の看板はなく、控えめな照明だけが石畳を照らしている。
車を停めると、係の男性がすぐに近づいてきた。
キーを預け、二人で玄関へ向かう。
「なんか、“隠れ家”って感じですね」
「そういうつもりで選んだ」
「社長、慣れてますね」
「仕事で覚えただけだ」
玄関をくぐると、木と畳の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
ロビーの奥には、大きなガラス越しに真っ暗な海が見える。
「わ……」
祐未が、思わず声を漏らす。
「夜の方が、海の輪郭がはっきりするだろう」
「本当に、真っ黒ですね。海っていうより、“大きい闇”って感じ」
言い得て妙だ、と山城は思った。
***
案内された部屋は、広めの和洋室だった。
手前に畳のスペースと低いテーブル、その奥にセミダブルのベッドが二つ並んでいる。
さらに奥のガラス戸を開けると、小さなテラスと、その一角に湯船があった。
「露天……」
祐未が、素直な声を出した。
「部屋付きの露天風呂、初めてです」
「俺も、そう多くはない」
四角い石造りの湯船は、人が二人入るには十分な大きさだ。
手を伸ばせば、そのまま夜の空気に触れられる距離。
テラスの外側は、低い竹垣と植え込みで囲われている。
その向こうに、黒い海が広がっていた。
「誰かに見られない?」
祐未が、半分冗談のように言う。
「この高さなら、まず見えないだろう。見えたとしても、闇だ」
「闇か……」
祐未は、ガラス戸の縁に手を置き、外の空気を吸い込んだ。
「なんか、“ちょっとだけ悪いこと”したくなる空気ですね」
「どんな悪いことだ」
「それは、内緒です」
振り返るときの笑顔が、いつもより少しだけ大人びて見えた。
***
夕食は部屋食だった。
テーブルいっぱいに並ぶ料理を前に、祐未は目を輝かせた。
「すご……。写真撮りたいけど、やめときます」
「撮ってもいいだろう」
「いや、今はいいです。
“仕事モード”になっちゃうから」
「仕事モードか」
「はい。こういうの撮り始めると、“どう見せるか”ばっかり考えちゃうんで」
「今日は、休みだな」
「そう。今日は、“ただの祐未”でいたいです」
最初の一杯だけビールを飲み、そのあとはお茶に切り替える。
いつものように、酒で勢いをつける必要はなかった。
「明日も仕事か」
「明日は午後からです。
午前中は、ちゃんと復活させます」
「配信があるんだったな」
「そう。新作のリップの紹介。“この色、社長に似合いそうだな”って思いながら選んでました」
「俺には派手だろう」
「画面越しなら、何でもアリですよ」
軽口を交わしながらも、どこか空気は穏やかだった。
山城は、箸を動かしながらふと考える。
——これは、デートなのか。
遊びなのか。
“社会勉強”なのか。
それとも、その全部なのか。
自分でも、はっきりと言い切れなかった。
***
食事が片づけられ、部屋に静けさが戻った。
「先、入ります?」
祐未が聞いた。
「祐未からでいい」
「じゃあ、準備してきます」
浴衣に着替えた祐未が、タオルを持ってテラスの方へ向かう。
ガラス戸が開き、外気が少し流れ込んだ。
しばらくして、湯の中から水音が聞こえる。
「気持ちいいですー」
外から、少し間延びした声がした。
山城は、ベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりと浴衣の紐を解いた。
鏡に映る自分の姿に、一瞬だけ苦笑する。
——何度やっても、慣れないものだな。
いい歳をして、浴衣姿で露天風呂に向かう自分。滑稽さと、少しの高揚感が入り混じる。
ガラス戸を開けると、湯気と夜風が一度に肌を撫でた。
「お先にいただいてます」
湯船の中から、祐未の声がした。
湯面から上だけが、淡い照明に照らされている。
肩から鎖骨、濡れた髪が張り付いた首筋。
「どうだ」
「最高です。ちょっと熱いけど、外が涼しいからちょうどいい」
山城も、ゆっくりと湯に浸かった。
膝が、祐未の足に軽く触れる距離だ。
「わ、本当に外みたい」
湯船の縁に肘をかけると、目の前に夜の海が広がった。
水平線は見えない。
ただ、黒い空と黒い海が、どこかで溶け合っている。
「空飛んでるみたいですね」
「空か」
「湯船だけ、ぽんって浮かんでる感じ。下は全部、真っ暗な海か、空みたいで」
祐未は、湯面を軽く叩いた。
波紋が広がり、外の闇を映した湯が揺れる。
「気持ちいい……」
目を閉じて、深く息を吐く。
「こういうとこ、いつも来るんですか」
「いや、そんなに頻繁には来ないな」
「ですよね。社長でも、そうですよね」
「社長だからこそ、あまり派手にはできない」
「ふふ。“派手な社長”も、世の中にはいっぱいいそうですけど」
「そういうのは、長く続かない」
「たしかに」
しばらく、二人とも黙った。
遠くから、かすかに波の音が聞こえる。
風が、竹垣の葉を揺らす音がする。
「……山城さん」
「なんだ」
「こういうの、“罪悪感”とか、あります?」
唐突な問いだった。
「罪悪感?」
「家族に対して、とか。元奥さんとか、子どもとか」
湯の中で、足先がそっと触れた。
「まったくない、と言えば嘘になるな」
「ですよね」
「ただ——」
言葉を選びながら、山城は湯船の縁を見つめた。
「今ここにいることが、誰かの不幸に直結しているわけでもないと思っている」
「うん」
「離婚も済んでいる。子どもたちも、自分の生活をしている。俺が一人で家にいても、ここにいても、あいつらの明日には大きな違いはない」
「そうですね」
「その代わり、自分の責任でここにいる。騙されたと言うつもりもないし、誰かのせいにするつもりもない」
祐未は、黙って聞いていた。
「祐未は?」
「私?」
「罪悪感は、ないのか」
「……ちょっとは、ありますよ」
祐未は、視線を空に向けた。
「でも、“人生一回だしな”って」
「軽いな」
「軽くないと、やってられないですよ」
祐未は、湯面に指先を沈めた。
お湯の中で、山城の手に触れる。
「仕事も、恋愛も、全部、正解なんて分からないじゃないですか。“あのとき、ああしてればよかった”って思うことは、たぶんこれからも山ほどあるし」
「そうだろうな」
「だからせめて、 “あのとき、何もしなかった”って後悔だけは減らしたいなって」
湯の中で、指先が絡む。
水の抵抗が、動きを少しだけゆっくりにする。
「……ずいぶん、大人だな」
「29歳は、もう大人ですよ」
「確かに」
「山城さんこそ」
祐未は、少しだけ身を寄せた。肩と肩が、湯の中で触れ合う。
「“何もしなかった”って後悔、あります?」
「たくさんある」
「今は?」
「今か」
「はい。今、この瞬間は?」
顔を向けると、祐未の目が近くにあった。
湯気で少し潤んだ黒目が、まっすぐこちらを見ている。
「今、何もしなかったら—— たぶん後悔するな」
「じゃあ」
祐未は、湯の中で山城の手を握った。
その手を、自分の方へ引き寄せる。
「後悔しない方に、いきましょう」
***
湯船の縁に背中を預けるように座ると、祐未がその上に軽く跨る形になった。
お湯が少しこぼれ、縁から静かに流れ落ちる。
「熱くないか」
「ちょっと、だけ」
「無理するなよ」
「無理してないです」
近い距離で見る祐未の顔は、いつもより幼く見えた。
濡れた髪が頬に張り付き、滴が首筋を伝って落ちていく。
「ここで、してみたかったんです」
「どこで」
「外。こういう、誰にも見えない、外の空気があるところ」
「危ない発想だな」
「ちゃんと、誰にも見えない範囲で、ですよ」
祐未は、山城の肩に腕を回した。
湯気と夜風の中で、肌と肌が触れ合う。
唇が触れた瞬間、外の音が遠のいた気がした。
湯の温度と、祐未の体温が、どこまでがどちらなのか分からなくなる。
「……ん」
短い吐息が、喉の奥から漏れる。
お湯の抵抗で、動きは自然とゆっくりになった。
湯船の縁に置いた手が、石の冷たさを感じる。
背中には、夜の空気。
目の前には、真っ黒な海。
——外なのに、どこにも繋がっていない。
そんな奇妙な感覚が、山城の中に生まれた。
やがて、祐未が、湯の中で軽く体勢を変えた。
その瞬間、息が詰まったような声が漏れる。
「……っ」
口元を慌てて手で押さえながら、それでも喉の奥から熱い息がこぼれてきた。
「ダメ……外まで、聞こえちゃう……」
囁く声も、どこか上ずっている。
湯が大きく揺れ、縁から溢れたお湯が、静かな音を立てて流れた。
祐未は、空いている方の手で湯船の縁を掴んだ。
指先に力が入り、白くなる。
「声を抑えて……」
山城は、小さくそう言った。
「……抑えてる、けど……」
祐未の返事は途切れ途切れだった。
口元を押さえたまま、それでも完全には抑えきれないらしく、喉の奥から短い息が漏れる。
湯気が濃くなり、視界の輪郭がぼやける。
遠くの波の音と、近くの湯の音と、抑えきれない息の音が、夜の闇の中で混ざり合っていく。
湯船の中で、二人の影がゆっくりと重なり、
やがて、その境目は湯気と闇に溶けて見えなくなった。
***
どれくらい時間が経ったのか分からない。
湯船から上がると、夜風が火照った肌にひやりと触れた。
「のぼせた……」
タオルで髪を拭きながら、祐未がふらりと笑う。
「言わんこっちゃない」
「でも、気持ちよかったです。お湯も、景色も、全部」
「それなら、よかった」
部屋に戻り、二人で冷たい水を飲む。
ベッドの端に腰を下ろした祐未は、どこか満足したような顔をしていた。
「なんか、“変な夢”みたいでした」
「夢?」
「外なのに、誰にも見られないお風呂で、空飛んでるみたいな気分で」
「たぶん、現実だ」
「ですよね」
祐未は、笑ってから、少し真面目な顔になった。
「山城さん」
「なんだ」
「こういうの、“ちゃんと覚えておきたい夜”ってやつですね」
「そう思ってくれるなら、光栄だ」
「忘れたくないって意味です。後悔したくない方を選んだ、っていう記録として」
「記録か」
「はい。私の中の、“ただの祐未”の記録」
その言葉に、山城はうなずいた。
——ただの祐未。
交際クラブの女でも、ミスキャンでも、インフルエンサーでもない。
湯気と夜の闇に包まれた、目の前の一人の女。
この夜が、どれほど続くのか。
すぐに終わるのか、しばらく続くのか。
それはまだ分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
——今回は、深く刺さらない方がいい。
そう思いながらも、
山城は、自分の中で何かがまた少し動き始めているのを、はっきりと感じていた。




