第36話 会員番号3618に、印をつけた女
女性たちが、壁際のプロフィールボードの前に少しずつ集まり始めた。
カードとペンを渡された彼女たちは、笑いながらも、真剣な顔で文字を追っている。
「年齢、見ちゃうよね〜」
「職業も気になる〜」
「趣味がゴルフって、多すぎない?」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
「こっち側からすると、たまったもんじゃないな」
山城は、独り言のように佐伯に話かけて、苦笑しながらシャンパンを一口飲んだ。
自分の欄にも、「警備会社経営・58歳・趣味:仕事と晩酌」と、簡単な一文が添えられている。
「社長」
佐伯が、肘でつついてきた。
「俺、あの子に書いてもらえるように、念を送っておきますね」
視線の先には、さっきの小柄な女——村上祐未がいた。
さっき聞いた名前が、ボードの端に貼られている参加者リストに記されている。
「村上祐未 29歳 広報・広告関連」
年齢を見て、山城は心の中で苦笑した。自分の娘と大して変わらない。
祐未は、友人らしき女性と肩を寄せ合いながらボードを眺めていた。
さっきまで胸の前で固まっていた手は、今は自然に動いている。
何かを見ては小さく笑い、首を傾げる。
(さて、どう見るか)
山城は、彼女の目線を追った。
一度、ボードの真ん中あたりで止まる。
そこには、大手商社の部長クラスの男の名前がある。
次に、外資系コンサルの三十代、医者、IT社長——
いわゆる“分かりやすくモテる男たち”が並んだ一角だ。
(まぁ、普通はそっちだよな)
そう思った瞬間、祐未の視線が、少し下の方に移動した。
「山城誠四郎 58歳 警備会社経営」
そこに、一拍だけ視線が止まる。
そして、すぐに外れる。
(そりゃそうだ)
自分に言い聞かせるように、山城はグラスを置いた。
やがて、スタッフがカード回収に回り始めた。
女性たちが書いた番号が一枚ずつ集められ、別室で確認されるらしい。
「後ほど、マッチングタイムを設けますので、番号をお呼びした方は、指定のテーブルにお集まりください」
スタッフの説明が終わると、とりあえず自由時間になった。
「さて、どうなりますかね」
佐伯が、楽しそうに笑う。
「何番狙いなんだ」
「そりゃあもちろん、キャンパスクイーン系で」
「控えろ、既婚者」
軽口を叩きながらも、山城の心臓は、ほんの少しだけ早く打っていた。
——選ばれなかったら、それはそれでいい。だが、もし選ばれたら——
そう考えてしまう自分が、正直に言えば少し情けなかった。
***
やがて、スタッフが再びマイクを取った。
「それでは、女性からご指名のあった男性の番号をお呼びいたします。お呼びした方は、中央のテーブルまでお越しください」
会場の空気が、わずかに緊張する。
「……3番、7番、12番——」
若い番号が呼ばれていく。商社マン、医者、IT社長。予想通りと言えば、予想通りだ。
「……15番、19番——」
佐伯が、自分のネームホルダーをちらりと見て、肩をすくめた。
「俺、まだですね」
「呼ばれない方が、家庭的には平和だろ」
そんな会話を交わしていると、スタッフの口から、聞き慣れた数字が出た。
「……31番」
一瞬、誰も動かなかった。
山城は自分のネームホルダーを見下ろす。
「31」
印刷された数字と、スタッフの声が重なる。
佐伯が、思わず吹き出した。
「社長、ビンゴじゃないですか」
「静かにしろ」
心の中で息を整えながら、山城は椅子から立ち上がった。
中央のテーブルへ向かう足取りは、自分でも分かるほどぎこちなかった。
(誰だ)
誰が、自分を選んだのか。
好奇心と、少しの怖さが同時に胸に渦を巻く。
スタッフは、指名した女性たちの方へも視線を送っている。
「ご指名いただいた女性の皆様も、どうぞ中央へ」
数人の女が、照れ笑いをしながら前に出てきた。
その中に、小柄な姿があった。
淡いベージュのワンピース。
胸元から腰、腰から太ももへ、控えめだがはっきりとしたライン。
さっきと同じ、村上祐未だった。
(……俺か)
目で問いかけると、彼女は一瞬だけ目をそらし、それから小さく笑った。
「31番、山城様ですね。こちらの席で、しばらくフリートークをお楽しみください」
スタッフの誘導で向かい合うと、祐未は軽く頭を下げた。
「さっきの……社長さんですよね?」
「山城です。さっきは、遠くから失礼」
「村上祐未です。祐未でいいです」
近くで見ると、やはりアナウンサーのように整った顔立ちだった。
肌の質感もきれいで、笑うと、目元に小さなしわが寄る。
「俺なんか選んでよかったのか」
山城が冗談めかして言うと、祐未は即答した。
「だって、優しそうだったから」
「顔か?」
「雰囲気ですね」
迷いのない答え方だった。
声はよく通る。
内気そうに見えたさっきの姿とのギャップに、また少し笑いそうになる。
「こういうパーティー、よく来るのか」
「初めてです。友達に誘われて……“社会勉強になるから行こうよ”って」
「社会勉強ね」
「え、違います? ここにいる男の人って、普通に生きてたらあんまり会えないタイプじゃないですか。経営者とか、お医者さんとか。だから、どんな人なのかなって」
祐未は、悪びれた様子もなく言った。
(正直だな)
嫌味ではなく、本当にそう思っている顔だった。
そこに、計算高い印象はあまりない。
「山城さんは、何の会社なんですか」
「警備だ。ビルとか、イベントとか、そういう」
「へぇ。かっこいいですね。なんか、“守る側の人”って感じ」
「そうか?」
「はい。私、あんまり“守られてきた”って感じじゃないんで、ちょっと憧れます」
さらりとした一言に、少しだけ影が混じっているように感じた。
だが、それを深追いする前に、スタッフが再びマイクを叩いた。
「それでは、このあと二十分ほどフリータイムとさせていただきます。その後、退出される際に、気になる方がいらっしゃいましたら、個別にスタッフまでお声がけください」
「二十分、だって」
祐未が時計をちらりと見た。
「短いですね。どうします? 何の話したらいいですか」
「そうだな……」
山城は、一瞬迷ってから言った。
「ここじゃなくても、いいかもしれないな」
「え?」
「こんなところより、もう少し落ち着いて話せる場所の方がいい。もし嫌じゃなければ、出てから少し食事でもどうかと思って」
祐未は、驚いたように目を丸くした後、すぐに笑った。
「展開、早くないですか」
「嫌か」
「んー……」
祐未は、グラスを軽く揺らしながら考えるふりをした。
その仕草で、ワンピース越しの胸のラインが、わずかに揺れる。
「……いいですよ。私も、このまま帰るのももったいないし」
「ありがとう」
「でも、一つ条件」
「条件?」
「美味しいご飯と、ちゃんとしたお酒。あと、今日は、変なことしないこと」
「変なこと?」
「いきなりホテル行こうとか、そういうのです」
山城は、一瞬言葉につまった。
(……どうしたものか)
元々、この世界はそういう仕組みだ。
パーティーだろうが、一対一だろうが、流れ次第でホテルに行く。
だが、祐未の目は真面目だった。
冗談めかしているようでいて、「軽く扱われたくない」という意思が、かすかに透けて見える。
「分かった。今日は、飯と酒だけにしよう」
「約束ですよ」
祐未は、人差し指を立てて笑った。
***
パーティーがお開きになると、山城と祐未は、会場を後にした。
佐伯には、「先に帰る」とだけLINEを送っておく。
ホテルのロビーから外へ出ると、夜風が少しひんやりと頬を撫でた。
「どんなお店が好きだ」
「美味しければ何でも。あ、でも、あんまりかしこまりすぎてない方がいいです」
「じゃあ……」
山城は、頭の中の店リストを思い浮かべた。
接待で使う高級店ではなく、もう少し肩の力を抜ける場所。
それでいて、料理と酒はちゃんとしている店。
「少し歩いてもいいなら、知ってる店がある」
「歩きましょう。酔い覚ましにちょうどいいし」
二人で並んで歩き出す。
横に立つと、祐未の小柄さが際立った。
「村上さんは、普段、どんな人がタイプなんだ」
「祐未でいいって言いました」
「じゃあ、祐未は」
「うーん……」
夜道の街灯が、彼女の横顔を照らす。
きれいに整ったラインだ。
学生時代、ミスキャンパスに選ばれていたと言われても、納得できる。
「ちゃんとしてる人、ですかね」
「ちゃんとしてる?」
「約束守る人。嘘つかない人。あとは……話してて楽しい人」
「見た目は?」
「そりゃイケメンなら嬉しいけど、絶対条件じゃないです。ていうか、イケメンって疲れること多いし」
「疲れるのか」
「自己管理しすぎてたり、自分大好きだったり。それはそれで、見てる分には面白いですけどね」
屈託のない言い方だった。
女としての経験値の高さを感じさせる一方で、どこか“本気で惚れ込む”ところまで行っていない匂いもする。
「山城さんは? どんな女の人が好きなんですか」
「難しいな」
「一番困る答えですよ、それ」
祐未が笑う。
笑いながらも、ちらりとこちらを見た。
「でも、私のこと、ちょっとは気に入ってます?」
「そうだな」
山城は、正直に言った。
「小さいのに、よく目立つ」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる」
「じゃあ、よし」
祐未は、満足そうに頷いた。
(小柄で、おとなしく見えて、声がでかい)
街のざわめきの中、山城は心の中で呟いた。
——また、少し違うタイプの女が現れたな。
そう思うと同時に、自分の胸の奥で、何かがゆっくり動き始めているのを感じた。
この夜が、ただの“社会勉強”で終わるのか。
それとも、また何かを失うことになるのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。
———
店は、ホテルから十分ほど歩いた路地裏にあった。
表通りから一本入っただけなのに、喧騒が少し遠くなる。
「ここ?」
祐未が、黒塗りの木の扉を見上げた。
「そうだ。うるさすぎなくて、飯と酒はちゃんとしてる」
「ふーん。
社長さん、こういうとこ、いっぱい知ってそう」
「仕事柄な」
扉を開けると、カウンターとテーブルが数席ずつの、こぢんまりしたビストロだった。
ワインと日本酒のボトルが壁一面に並び、照明は少し落としてある。
「いらっしゃいませ」
店主らしき男が顔を上げ、山城と目が合うと軽く会釈した。
「二人、空いてるか」
「奥のテーブルどうぞ」
席に案内されると、祐未は周りを見回し、素直に感心したように言った。
「いいお店ですね。なんか、ちゃんとしてるのに、気取ってない」
「褒め言葉として受け取っておく」
メニューを開き、山城はワインリストを祐未に差し出した。
「何がいい」
「こういうの、あんまり詳しくないんですよね。山城さんに任せていいですか?」
「じゃあ、あまり重すぎない赤にしようか」
店主におすすめを聞きながら注文を済ませると、テーブルに静かな間が落ちた。
その沈黙を破ったのは、祐未の方だった。
「さっきの、プロフィール」
「ん?」
「“趣味:仕事と晩酌”ってやつ。あれ、本気ですか」
「本気だ」
「もっと、なんかないんですか。ゴルフとか、釣りとか、旅行とか」
「若い頃はいろいろやったけどな。やってるうちに、結局、仕事が一番楽しかった」
「仕事が?」
「そうだ。現場作って、人を集めて、何かを守る仕組みを作る。上手く回ると気持ちいい」
「へぇ……」
祐未は、顎に手を当てて山城をじっと見た。
「なんか、“お父さんの自慢話”みたい」
「お父さんか」
「悪い意味じゃないですよ。うちの父も、自分の仕事の話になると止まらなくなります」
ワインが運ばれてきた。
グラスの中で、深い色が揺れる。
「お父さん、何してるんだ」
「普通のサラリーマンです。金融系。ずっと同じ会社で、真面目に働いてる感じ」
「そういうのが一番難しい」
「なんか、山城さんって、お父さんと話してるときの自分に似てます」
「それは光栄なんだか、複雑なんだか」
二人で笑う。
ワインを一口飲むと、祐未が少し目を細めた。
「美味しい」
「よかった」
「こういうお店、自分じゃ選べないんですよね。友達と行くときは、もっと騒がしいとこばっかりで」
「今は、どんな友達と遊ぶんだ」
「大学のときの子とか、仕事関係の女の子とか。あとは……昔からの男友達も少し」
祐未は、さりげなく言葉を選んだ。
「彼氏、じゃなくて」
「今はいないですよ」
「そうか」
「“そうか”って、ちょっと安心しました?」
図星を突かれ、山城はグラスを置いた。
「どうだろうな」
「分かりやすいんですよ、山城さん」
祐未は、からかうように笑った。
「でも、今は彼氏作る気ないんです。仕事が面白くなってきちゃって」
「広報だったな」
「はい。今いる会社、化粧品の部署もあって、ネットでライブ配信しながら売るんですよ。いわゆる“ライブコマース”ってやつ」
「画面の向こうで喋るのか」
「そう。商品紹介したり、コメント拾ったり。最初は緊張したけど、慣れてきたら楽しくなってきました」
「さっきの声なら、確かに向いてそうだな」
「さっきの声?」
「“え、あの人? 意外と優しそうじゃない?”って言ってたやつだ」
「あっ……聞こえてたんですか」
祐未が、頬を少しだけ赤くした。
「恥ずかしい」
「褒め言葉だと思っておく」
「ほんとに優しそうだったから、言ったんですよ」
ワインと前菜が進むにつれて、会話も滑らかになっていった。学生時代の話、ミスキャンパスに選ばれたときの話、インスタでフォロワーが増えていったときの話。
「一時期は、それだけで月に百万円くらいいったこともありました」
「インスタでか」
「でも、続けるのって大変で。毎回ネタ考えて、服も買って、どこか行って。“日常を切り取る”って言うけど、だんだん“日常がコンテンツのためのネタ”になってくるんですよね」
「分かる気がする」
「男の人がスポンサーについてくれるって話もあったけど……そこまで割り切れなくて。 結局、疲れて、やめちゃいました」
祐未は、少しだけ肩をすくめた。
「で、普通に会社員に戻ったわけです」
「十分、いろいろやってる方だろう」
「そうですかね。でも、ちゃんとした大人の男の人と話す機会って、意外と少ないんですよ」
「ちゃんとしてるかは分からないが」
「少なくとも、“警備会社三十年やってます”って言えるの、かっこいいですよ」
その言い方は、お世辞ではなく、本心のように聞こえた。
***
食事を終え、店を出ると、夜は少し深くなっていた。タクシーの流れが増え、街灯の光が路面に長く伸びている。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
祐未が、素直に頭を下げた。
「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」
「どうします?ここで解散しますか?」
祐未の声には、探るような響きはなかった。
本当にどちらでもいい、という風だった。
「まだ時間はある」
山城は、一呼吸置いてから言った。
「ホテルのラウンジで、もう一杯だけ飲まないか」
「ラウンジ」
「さっきのホテルに、バーがある。無理にとは言わない」
祐未は、少しだけ空を見上げた。
夜風が髪を揺らす。
「……一杯だけなら」
「ありがとう」
「でも、変なことしたら帰りますから」
「さっきの条件は覚えてる」
「なら、いいです」
タクシーを拾い、ホテルへ向かう。
車内で、祐未は窓の外の景色をぼんやり眺めていた。
「なんか、こういうの、久しぶりです」
「こういうの?」
「ちゃんとしたご飯食べて、ちゃんとしたホテル行って。 “デート”っぽい感じ」
「普通の男は、どこへ連れて行くんだ」
「ファミレスとか、チェーンの居酒屋とか」
「……それはそれで、気楽でいいかもしれないが」
「まあ、年齢相応って感じです」
ホテルに着くと、ラウンジはほとんど人がいなかった。
カウンターに並んで座り、軽くカクテルを一杯だけ飲む。
会話は、食事の続きのように自然に流れた。
やがて、グラスが空になった。
「そろそろ、帰ろうか」
山城が言うと、祐未は時計を見た。
「そうですね。明日も仕事だし」
席を立とうとしたとき、祐未がふと山城を見上げた。
「……今日は、“変なこと”しないんですよね」
「ああ」
「じゃあ、一個だけ、わがまま言っていいですか」
「何だ」
「送ってほしい。家まででなくっていいので、タクシーまで」
「それくらいなら、いくらでも」
二人でエレベーター前まで歩く。
静かな廊下に、靴音だけが響く。
「今日は、楽しかったです」
祐未が、正面から言った。
「私、“社会勉強”のつもりで来たんですけど。思ったより普通で、思ったよりちゃんとしてる人が多いなって」
「それは、クラブが選別してるんだろう」
「山城さんも、その一人」
そう言って、祐未は一歩、近づいた。
「……もし、次があるなら」
「うん」
「次は、“変なこと”してもいいです」
山城は、笑ながら、応えた。
「祐未が、そう思うなら」
「私が、そう思ったら」
エレベーターの扉が開く。中には誰もいない。
一緒に乗って、タクシー乗り場まで来た
「今日は、ここまで」
祐未は、ぺこりと頭を下げて乗り込んだ。
タクシーの扉が閉まる直前、彼女は顔だけ出して、いたずらっぽく言った。
「次は、ちゃんと覚悟してきてくださいね」
扉が閉まると同時に、山城は、小さく息を吐いた。
——五十八にもなって、何をしているんだ。
自分で自分に呆れながらも、胸の奥では、久しぶりの高鳴りがまだ収まっていなかった。




