第34話 「もう私を背負わないでください」――彼女は自分の足で、あの世界へ帰っていった
保奈美は数週間後、自分の部屋を借りた。
引っ越しの日、山城は彼女の荷物を車に積むのを手伝った。白いタオルも、揃ったハンガーも、彼女が選んだ小さな照明も、すべて運び出された。
家は、急に広くなった。
保奈美は玄関で振り向いた。
「山城さん」
「はい」
「私、辞めてよかったと思っています」
山城は黙ってうなずいた。
「それだけは、本当です」
その言葉で、山城は十分だった。
「また、ご飯でも行きましょう」
「ええ」
「今度は、普通に」
「普通に、ですね」
保奈美は小さく手を振り、玄関を出ていった。
ドアが閉まる。
山城はしばらく、その場に立っていた。
家の中は静かだった。保奈美が来る前の静けさに戻っただけのはずだった。だが、その静けさは以前とは違って聞こえた。
別々に暮らすようになってからも、保奈美とは普通に会っていた。
外で会う二人の相性は、とてもよく、大人の二人として付き合えた。
恋人なのか、元恋人なのか、支援者なのか、友人なのか。その関係に名前をつけるのは難しかった。
ただ、お互いの関係は切れることはなく、静かな大人の関係は続けていた。
山城は、保奈美が再び業界へ戻らなくて済むように、知人を頼っていくつか仕事を紹介した。事務職、受付、知人の会社の広報補助、小さな店舗の接客。山城なりに、彼女が普通の生活へ移れる道を探したつもりだった。
しかし、現実は簡単ではなかった。
保奈美は、オフィスワークがあまり得意ではなかった。
決められた時間に出社し、同じ席に座り、同じ人間関係の中で一日を過ごす。電話を取り、資料を整理し、空気を読みながら昼休みを取る。そういう普通の会社のリズムが、彼女には窮屈そうだった。もちろん、OLを経験しているので、ディスクワークは普通にできていた。仕事ができないということはないようだった。
また、本人は派手な格好をしているわけではない。化粧も控えめで、言葉遣いも丁寧だった。それでも、長年見られる仕事をしてきた女性特有の雰囲気があった。姿勢、笑い方、目線の返し方。そういうものが、どうしても人の目を引いた。
彼女の過去の仕事を周りが知ると、それは、やはり興味で見られることも多い。何よりもネットで彼女の乱れたシーンは、スマホでもパソコンでも、いつでも見ることができる時代だ。その人が、目の前で仕事をしているというのは、周りからはなかなか受け入れられないだろう。
「会社員、向いてないみたいです」
ある夜、電話越しに保奈美は笑った。
「そうですか」
「みんな、優しいんですけどね。逆に、優しすぎて疲れます」
「分かるような分からないような」
「気を使われるのが、慣れなくて」
店舗の仕事なら少しは合うかと思ったが、それも長く続かなかった。
保奈美は、普通にしていても目立った。
そして、どこかで誰かが気づく。
「あの人、樫村保奈美じゃない?」
その一言が出ると、空気は変わった。
店に冷やかしの客が来ることもあった。ネットに店名を書かれることもあった。
「あの店に元セクシー女優がいる」
「本物だった」
「見に行った」
そんな心ない書き込みが出るたびに、保奈美は職場を辞めた。
山城は、彼女に何度か言った。
「逆に、それを武器にする方法もあるんじゃないですか」
保奈美は首を振った。
「分かっています。でも、それをやると、また樫村保奈美に戻ってしまうんです」
その言葉を聞いて、山城は何も言えなかった。
彼女は、自分の過去を隠しきれない。しかし、過去を武器にすることもできない。その中間で、いつも立ち止まってしまう。
結局、保奈美はネットの書き込みにあった通り、再びアダルト業界へ戻っていった。
「どうせ、また戻ってくるよ」
山城が腹立たしく見ていたあの言葉が、現実になってしまった。
山城は悔しかった。
だが、保奈美を責めることはできなかった。
生活はきれいごとではない。普通に戻りたいという気持ちだけで、普通の世界が受け入れてくれるわけではない。
業界に戻ってからも、保奈美とは何度か会った。
しかし、会う頻度は少しずつ減っていった。減らしていったのは、保奈美の方だった。
以前のように、普通のデートをしようとは言わなくなった。映画の話も、ドライブの話も、料理教室の話も、いつの間にか出なくなった。
山城も、それを無理に引き止めなかった。
ある夜、保奈美から少し長いLINEが届いた。
> 山城さん。
>
> 山城さんと一緒に過ごせた時間は、私にとって本当に良かったと思っています。
>
> たぶん私は、山城さんじゃなくて、他の誰かと一緒に住んだとしても、うまくいかなかったと思います。山城さんが悪いわけではありません。私が、普通の生活に戻れなかっただけです。
>
> 長くあの世界にいたせいで、世間から少しずれてしまったのだと思います。朝起きて、会社に行って、人間関係を作って、普通に働く。そういうことが、思ったよりずっと難しかったです。
>
> でも、山城さんと過ごしたことで、私は一度、本当に辞めようと思えました。それは嘘ではありません。
>
> もう一踏ん張り、業界で仕事をします。今度は流されるのではなく、自分で決めて戻ります。稼げるうちに稼いで、一人で生きていけるようにします。
>
> 山城さんには感謝しています。
>
> だから、もう私のことを背負わないでください。
山城は、そのLINEを何度も読み返した。
背負わないでください。
その一文が、胸に残った。
保奈美は、自分で戻ったのだ。
誰かに引き戻されたのではない。普通の世界から追い出されたのでもない。もちろん、完全に自由な選択だったとも言い切れない。
それでも彼女は、自分の足でその場所へ戻ることを選んだ。
山城はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。
返事を書こうとして、何度も消した。
「また会いましょう」
「困ったら言ってください」
「私はいつでも応援しています」
どの言葉も、どこか違う気がした。
最後に、山城は短く打った。
> 分かりました。
> 体だけは大事にしてください。
> 保奈美さんが自分で決めたなら、私は応援します。
> ありがとう。
送信した後、山城はスマートフォンを伏せた。
寂しさはあった。だが、不思議と怒りはなかった。
保奈美を救えなかった、とは思わなかった。そもそも、人は人を簡単に救えない。
山城は、ようやくそのことを少しだけ理解した。
支えることはできる。そばにいることもできる。一時的に休ませることもできる。
しかし、その人がどこで生きるかまでは、こちらが決められない。
保奈美は、自分の場所へ戻った。
それが山城にとって望んだ結末ではなかったとしても、彼女にとっては必要な選択だったのかもしれない。
山城は、静かな部屋で一人、深く息を吐いた。
朝型の男の家に、夜型の女が来た。白いタオルを並べる女と、古い物を捨てられない男が暮らした。互いに嫌いではなかった。むしろ、好意はあった。
それでも、二人は一つの生活にはなれなかった。
山城は苦笑した。
また一人、女が自分の前を通り過ぎていった。
けれど今回は、奪われた気はしなかった。ただ、自分では抱えきれない人生があるのだと、教えられた気がした。
また一つ、勉強になった。
恋愛というより、人生の勉強だった。




