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交際クラブの男 ~会員番号の3618~  山城誠四郎  作者: 山城誠四郎
第五章 2000本超に出演したセクシー女優 保奈美
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第34話 「もう私を背負わないでください」――彼女は自分の足で、あの世界へ帰っていった

保奈美は数週間後、自分の部屋を借りた。


引っ越しの日、山城は彼女の荷物を車に積むのを手伝った。白いタオルも、揃ったハンガーも、彼女が選んだ小さな照明も、すべて運び出された。


家は、急に広くなった。

保奈美は玄関で振り向いた。


「山城さん」


「はい」


「私、辞めてよかったと思っています」


山城は黙ってうなずいた。


「それだけは、本当です」


その言葉で、山城は十分だった。


「また、ご飯でも行きましょう」


「ええ」


「今度は、普通に」


「普通に、ですね」


保奈美は小さく手を振り、玄関を出ていった。

ドアが閉まる。


山城はしばらく、その場に立っていた。

家の中は静かだった。保奈美が来る前の静けさに戻っただけのはずだった。だが、その静けさは以前とは違って聞こえた。


別々に暮らすようになってからも、保奈美とは普通に会っていた。

外で会う二人の相性は、とてもよく、大人の二人として付き合えた。


恋人なのか、元恋人なのか、支援者なのか、友人なのか。その関係に名前をつけるのは難しかった。


ただ、お互いの関係は切れることはなく、静かな大人の関係は続けていた。


山城は、保奈美が再び業界へ戻らなくて済むように、知人を頼っていくつか仕事を紹介した。事務職、受付、知人の会社の広報補助、小さな店舗の接客。山城なりに、彼女が普通の生活へ移れる道を探したつもりだった。


しかし、現実は簡単ではなかった。


保奈美は、オフィスワークがあまり得意ではなかった。


決められた時間に出社し、同じ席に座り、同じ人間関係の中で一日を過ごす。電話を取り、資料を整理し、空気を読みながら昼休みを取る。そういう普通の会社のリズムが、彼女には窮屈そうだった。もちろん、OLを経験しているので、ディスクワークは普通にできていた。仕事ができないということはないようだった。

また、本人は派手な格好をしているわけではない。化粧も控えめで、言葉遣いも丁寧だった。それでも、長年見られる仕事をしてきた女性特有の雰囲気があった。姿勢、笑い方、目線の返し方。そういうものが、どうしても人の目を引いた。

彼女の過去の仕事を周りが知ると、それは、やはり興味で見られることも多い。何よりもネットで彼女の乱れたシーンは、スマホでもパソコンでも、いつでも見ることができる時代だ。その人が、目の前で仕事をしているというのは、周りからはなかなか受け入れられないだろう。


「会社員、向いてないみたいです」


ある夜、電話越しに保奈美は笑った。


「そうですか」


「みんな、優しいんですけどね。逆に、優しすぎて疲れます」


「分かるような分からないような」


「気を使われるのが、慣れなくて」


店舗の仕事なら少しは合うかと思ったが、それも長く続かなかった。

保奈美は、普通にしていても目立った。


そして、どこかで誰かが気づく。


「あの人、樫村保奈美じゃない?」

その一言が出ると、空気は変わった。

店に冷やかしの客が来ることもあった。ネットに店名を書かれることもあった。


「あの店に元セクシー女優がいる」

「本物だった」

「見に行った」


そんな心ない書き込みが出るたびに、保奈美は職場を辞めた。

山城は、彼女に何度か言った。


「逆に、それを武器にする方法もあるんじゃないですか」


保奈美は首を振った。


「分かっています。でも、それをやると、また樫村保奈美に戻ってしまうんです」


その言葉を聞いて、山城は何も言えなかった。

彼女は、自分の過去を隠しきれない。しかし、過去を武器にすることもできない。その中間で、いつも立ち止まってしまう。


結局、保奈美はネットの書き込みにあった通り、再びアダルト業界へ戻っていった。


「どうせ、また戻ってくるよ」


山城が腹立たしく見ていたあの言葉が、現実になってしまった。


山城は悔しかった。


だが、保奈美を責めることはできなかった。

生活はきれいごとではない。普通に戻りたいという気持ちだけで、普通の世界が受け入れてくれるわけではない。


業界に戻ってからも、保奈美とは何度か会った。

しかし、会う頻度は少しずつ減っていった。減らしていったのは、保奈美の方だった。


以前のように、普通のデートをしようとは言わなくなった。映画の話も、ドライブの話も、料理教室の話も、いつの間にか出なくなった。


山城も、それを無理に引き止めなかった。

ある夜、保奈美から少し長いLINEが届いた。


> 山城さん。

>

> 山城さんと一緒に過ごせた時間は、私にとって本当に良かったと思っています。

>

> たぶん私は、山城さんじゃなくて、他の誰かと一緒に住んだとしても、うまくいかなかったと思います。山城さんが悪いわけではありません。私が、普通の生活に戻れなかっただけです。

>

> 長くあの世界にいたせいで、世間から少しずれてしまったのだと思います。朝起きて、会社に行って、人間関係を作って、普通に働く。そういうことが、思ったよりずっと難しかったです。

>

> でも、山城さんと過ごしたことで、私は一度、本当に辞めようと思えました。それは嘘ではありません。

>

> もう一踏ん張り、業界で仕事をします。今度は流されるのではなく、自分で決めて戻ります。稼げるうちに稼いで、一人で生きていけるようにします。

>

> 山城さんには感謝しています。

>

> だから、もう私のことを背負わないでください。


山城は、そのLINEを何度も読み返した。


背負わないでください。


その一文が、胸に残った。


保奈美は、自分で戻ったのだ。


誰かに引き戻されたのではない。普通の世界から追い出されたのでもない。もちろん、完全に自由な選択だったとも言い切れない。


それでも彼女は、自分の足でその場所へ戻ることを選んだ。

山城はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。


返事を書こうとして、何度も消した。


「また会いましょう」

「困ったら言ってください」

「私はいつでも応援しています」


どの言葉も、どこか違う気がした。


最後に、山城は短く打った。


> 分かりました。

> 体だけは大事にしてください。

> 保奈美さんが自分で決めたなら、私は応援します。

> ありがとう。


送信した後、山城はスマートフォンを伏せた。

寂しさはあった。だが、不思議と怒りはなかった。


保奈美を救えなかった、とは思わなかった。そもそも、人は人を簡単に救えない。

山城は、ようやくそのことを少しだけ理解した。


支えることはできる。そばにいることもできる。一時的に休ませることもできる。

しかし、その人がどこで生きるかまでは、こちらが決められない。


保奈美は、自分の場所へ戻った。


それが山城にとって望んだ結末ではなかったとしても、彼女にとっては必要な選択だったのかもしれない。


山城は、静かな部屋で一人、深く息を吐いた。


朝型の男の家に、夜型の女が来た。白いタオルを並べる女と、古い物を捨てられない男が暮らした。互いに嫌いではなかった。むしろ、好意はあった。


それでも、二人は一つの生活にはなれなかった。


山城は苦笑した。


また一人、女が自分の前を通り過ぎていった。


けれど今回は、奪われた気はしなかった。ただ、自分では抱えきれない人生があるのだと、教えられた気がした。


また一つ、勉強になった。

恋愛というより、人生の勉強だった。


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