第33話 元セクシー女優と暮らしてみたら、白いタオルで俺の生活が消えていった
保奈美は、セクシー女優を辞める決意をした。
山城と一緒に暮らす話が現実味を帯びてからも、彼女はしばらく迷っていた。十年以上続けてきた仕事である。嫌なことも多かったが、それでも樫村保奈美という名前は、彼女の人生そのものになっていた。
事務所に引退の意思を伝えると、意外にも引き止めは強くなかった。
ただし、事務所は最後まで商売だった。
「樫村保奈美、完全引退」
その看板で、最後の作品を作ることになった。引退記念、ラスト出演、永久保存版。そういう言葉が並んだ告知が出ると、ネットではすぐに書き込みが増えた。
「女神の引退」
「本当に辞めるのか」
「結婚か?」
「お疲れさまでした」
「どうせ、また戻ってくるよ」
山城は、それらの書き込みを複雑な気持ちで見ていた。
どこか誇らしさもあった。保奈美が辞める理由の一部に、自分がいる。彼女が静かな生活を選ぼうとしている。そのことが、山城に男としての小さな勝利のように思えた。
だが、心ない書き込みを見るたび、胸の奥が濁った。
「もう、戻ることはないよ」
山城は画面に向かって、声には出さずそう思った。
やがて保奈美は仕事を終え、山城の家で暮らし始めた。
最初の数日は、山城にとって夢のようだった。朝、家の中に女性の気配がある。洗面所に彼女の化粧品が並ぶ。冷蔵庫に、山城が普段買わないヨーグルトや炭酸水が入る。
それだけで、生活が変わったような気がした。
しかし、一緒に住むということは、食事をして、夜を共にすることだけではなかった。
生活には、時間がある。音がある。匂いがある。物の置き場所がある。
そこに、二人の違いが少しずつ現れた。
保奈美は、極端に朝が弱かった。
長年の仕事柄、生活は完全に夜型だった。深夜に目が冴え、朝方に眠る。昼近くまで起きてこないことも珍しくなかった。
一方、山城は朝が早い。
五時半には目が覚める。六時には新聞を読み、七時には会社関係の連絡を確認する。朝の時間を整えることで、一日を支配しているような感覚があった。
保奈美が眠っている寝室の前を、山城はできるだけ静かに歩いた。だが、コーヒーメーカーの音、新聞を広げる音、玄関で靴を履く音。そういう生活の音が、保奈美には気になるらしかった。
「山城さん、朝、もう少し静かにできますか」
ある朝、保奈美が寝ぼけた顔で言った。
山城は少し驚いた。
「そんなに音を立ててる?」
「すみません。私、眠りが浅いんです」
「気をつけるね」
山城はそう言った。
だが、山城にとって朝の生活音は、自分のリズムそのものだった。それを消すことは、自分の一日の始まりを奪われるようでもあった。
保奈美には、潔癖症と言えるくらい、こだわりが強かった。
家の中に置くものは、自分で選んだものでないと落ち着かない。タオルは白で統一。ハンガーも同じ種類で、同じ向きに揃っていないと気になる。
部屋は、ホテルのような雰囲気に変わっていった
綺麗と言えばよいが、生活感がないという感じもする
ある日、山城が長年使っていたタオルが見当たらなくなった。
「あれ、私のタオルは?」
「処分しました」
保奈美は悪びれずに言った。
「だいぶ古かったので。新しい白いものに替えておきました」
「相談してほしかったな」
「ごめんなさい。よかれと思って」
「いいよ」
山城は言葉を飲み込んだ。
タオル一枚のことだ。怒るほどではない。新しいものの方が清潔で、見た目もいい。
だが、自分の物が、相談もなく消えている。
その小さな違和感は、山城の中に残った。
ハンガーも同じだった。山城が使っていた木製のハンガーや、クリーニング店でもらったプラスチックのものは、いつの間にかなくなり、同じ形の白いハンガーに統一されていた。
「こっちの方が綺麗です」
保奈美はそう言った。
確かに、クローゼットは整っていた。だが、山城の生活の跡は、少しずつ薄くなっていった。
インテリアも変わった。
山城が選んだ重い革のソファには、白いカバーがかけられた。壁にあった記念写真は外され、代わりに抽象画のようなものが飾られた。ダイニングの照明も、保奈美の好みで柔らかい色に替えられた。
家は美しくなった。しかし、山城は時々、自分の家に客としているような気分になった。
「保奈美」
ある夜、山城は控えめに切り出した。
「はい」
「家、すごく綺麗になったね」
「ありがとうございます」
「ただ、たまには、私の意見も聞いてね」
保奈美は少し驚いた顔をした。
「あ……すみません。私、つい一人で決めちゃう癖があって」
「いや、悪気がないのは分かってるよ」
「気をつけます」
その夜から、保奈美は山城に何かを尋ねるようになった。
しかし、尋ねること自体が、保奈美にとっては不自然なことのようだった。
保奈美は、山城に金銭的に依存していなかった。
それもまた、山城にとっては予想外だった。
山城はどこかで、自分が彼女を支えるのだと思っていた。仕事を辞めた保奈美の生活を守り、将来の不安を引き受ける。そうすることで、自分の存在にも意味が生まれると思っていた。
だが、保奈美には十分な蓄えがあった。
長年売れていた女性である。使い方に波はあったが、まったく無計画に生きてきたわけではない。投資も少ししていたし、引退後すぐに困るような状態ではなかった。
「生活費、私も出します」
保奈美は当然のように言った。
山城は最初、それを立派だと思った。
しかし同時に、少し寂しかった。
頼られたい。必要とされたい。自分がいなければ困ると思われたい。
山城の中にあるその欲求は、保奈美の自立によって満たされなかった。
保奈美は、山城の家に来たが、山城に寄りかかるわけではなかった。山城は、保奈美を迎えたが、彼女の人生を背負えるわけではなかった。
二人の間には、奇妙な距離が残った。
寝室も別だった。
保奈美は、一人で寝ないと眠れないと言った。
「人が隣にいると、気になって眠れないんです」
山城は最初、少し傷ついた。
一緒に住むなら、同じ寝室で眠るものだとどこかで思っていた。夫婦ではないにしても、男女として同じ家で暮らすなら、夜は自然に同じ部屋にいるものだと。
だが保奈美にとって、眠ることは自分を守る時間だった。
「嫌いとかじゃないんです」
彼女はそう説明した。
「でも、一人の空間がないと駄目なんです」
山城はうなずいた。
理解しようとはした。
実際、二人の関係が完全に冷えたわけではない。肌を重ねる時は、保奈美が山城の部屋に来ることもあった。あるいは山城が彼女の部屋に呼ばれることもあった。
呼ばれた夜、保奈美はいつもより饒舌だった。
「電気、消していいですか」
「どうぞ」
「明るいと、まだ少し恥ずかしくて」
「今さらですか」
「今さらです」
二人で笑ってから、保奈美は山城の肩に頬を寄せた。
肌の温度は、いつも少しだけ高かった。山城の指が背中を撫でると、保奈美は小さく息を漏らした。
「山城さんに触られると、変な感じがします」
「変、というのは」
「仕事の手じゃない手なんです」
そう言って、保奈美は山城の手の甲に自分の手を重ねた。
その仕草が、山城には妙に切なかった。
身体は近づく。しかし、終わればそれぞれの部屋に戻る。
その流れが、山城にはどこか寂しかった。
身体は近づく。しかし、生活は一つにならない。
外で会う保奈美は、相変わらず魅力的だった。
映画館では山城の腕を取り、ドライブでは助手席でよく笑った。買い物に行けば、山城に似合う服を選んだ。外にいる時の保奈美は、恋人のように自然だった。
だが、家に帰ると少し違った。
「少し部屋で休みます」
「今日は一人で映画を見たいです」
「本を読みたいので、先に寝てください」
そう言って、自分の部屋に入ってしまう。
山城はリビングに一人残される。
同じ家にいるのに、一人だった。
それは、独身の頃の一人とは違った。誰もいない一人より、誰かがいるのに届かない一人の方が、寂しい時がある。
山城はそのことを知った。
ある夜、山城はリビングでウイスキーを飲んでいた。保奈美は自分の部屋にいた。ドアの向こうから、微かに動画の音が聞こえた。
山城は、その音を聞きながら思った。
自分は、何を望んでいたのだろう。
保奈美を引退させたかった。静かな生活をさせたかった。一緒に暮らしたかった。
その願いは、かなったはずだった。
だが、かなった途端に、別の現実が見えてきた。
一緒に暮らすとは、相手を救うことではない。相手の癖や、沈黙や、こだわりや、譲れない部分と毎日向き合うことだった。
山城も保奈美も、独身の時間が長すぎた。
それぞれが、自分のルールで生きてきた。山城には山城の朝があり、保奈美には保奈美の夜がある。山城には古いタオルにも意味があり、保奈美には白で揃った棚が必要だった。
どちらが悪いわけでもない。ただ、合わなかった。
数日後、保奈美が言った。
「山城さん、私たち、少し無理しているかもしれません」
山城は驚かなかった。むしろ、その言葉を待っていたような気がした。
彼女は泣いていた
「そうですね」
山城は静かに答えた。
「嫌いになったわけではないです」
「分かっています」
「山城さんには、本当に感謝しています。辞めるきっかけをくれたのも、一緒に暮らそうと言ってくれたのも、すごく嬉しかったです」
「でも、生活は別ですね」
山城が言うと、保奈美は少し悲しそうに笑った。
「はい。生活は、思ったより難しいです」
山城はうなずいた。
恋よりも、生活の方が難しい。
若い頃なら、そんなことは分からなかったかもしれない。だが五十八歳の山城には、その言葉の重さが分かった。
「別々に暮らしましょう」
山城は言った。
保奈美は小さく息を吐いた。
「その方が、長く仲良くいられる気がします」
山城は、その言葉に少しだけ救われた。
終わるのではない。ただ、形を変える。そう思いたかった。




