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交際クラブの男 ~会員番号の3618~  山城誠四郎  作者: 山城誠四郎
第五章 2000本超に出演したセクシー女優 保奈美
32/42

第32話 二千本のAV女優が夢見たのは、卵焼きと味噌汁の朝だった

翌朝、目が覚めると、保奈美はまだ眠っていた。


山城は、しばらくその寝顔を眺めてから、そっとベッドを抜け出した。窓のカーテンを少しだけ開けると、朝の光が部屋に差し込んだ。


「眩しい」


背中から声がした。


「すみません、起こしましたか」


「いえ、もう起きる時間です」


保奈美は枕に顔を埋めたまま、もごもごと言った。


「あと五分だけ」


「子供みたいですね」


「子供です」


山城は笑った。

その後、ベッドの上で、山城は少し言いにくそうに口を開いた。


「聞いていいのか分からないんですけど」


「はい。なんですか?」


「私は、その……どうでしたか」


口にした途端、山城は、胸の奥がひやりとした。

五十八にもなって、女に出来栄えを採点してもらおうとしている——そんな自分がおかしくて、少し笑えてくる。

しかし、相手は、長いあいだその世界で生きてきたプロだ。

少し、聞いてみたい

保奈美は一瞬だけ目を丸くし、それから、いたずらを見つけたようにふっと笑った


「山城さん、自信あるじゃないですか」


「あるように見えますか」


「見えます」


「無駄な自信です」


山城が真顔で言うと、保奈美は声を出して笑った。


「無駄ではないですよ。良かったです」


「本当に?」


「本当です。普通の人は、最初から『自信がないんだよね』って言い訳しながら来る人もいますから」


「そうでしょうね」


山城も苦笑した。


「私は、言い訳する前にやってしまうタイプです」


「それ、山城さんらしいです」


二人はまた少し笑った。


その後も、取り留めのない話をした。仕事のこと、昔のこと、好きな食べ物のこと。保奈美は、話している時の方が少し安心するようだった。黙ると、急に自分の肩書きや過去が部屋の中に戻ってくるのかもしれない。



それから二人は、何度か会うようになった。


保奈美のリクエストは、驚くほど普通だった。


「映画が見たいです」


「映画ですか」


「はい。ポップコーン買って、最後までちゃんと見るやつ」


「普通ですね」


「普通がいいんです」


別の日には、こう言った。


「ドライブに行きたいです」


「どこへ?」


「海が見えるところ。別に有名な場所じゃなくていいです」


「食事は?」


「サービスエリアでもいいです」


山城は、その言葉に少し驚いた。


「保奈美さんは、もっと高い店が好きなのかと思っていました」


「高い店は、仕事でたくさん行きました」


保奈美は笑った。


「でも、仕事で行く高い店って、あまり味を覚えていないんです。誰と行ったか、何を話したか、気を使ったことばかり覚えていて」


「なるほど」


「だから、普通に映画を見たり、普通に車に乗ったり、普通にラーメン食べたりしたいんです」


山城は、その「普通」という言葉が、保奈美にとってどれほど遠いものだったのかを、少しずつ理解していった。

デートの時、保奈美はよく山城の腕を取った。

映画館のロビーでも、駐車場でも、サービスエリアでも、彼女は自然に距離を詰めてきた。


「腕、借りてもいいですか」


「どうぞ」


「山城さん、嫌じゃないですか?」


「嫌ではないです」


「本当に?」


「甘えられるのは、嫌いではありません」


そう言うと、保奈美は嬉しそうに笑った。

ただ、周囲の視線は時々気になった。


保奈美はサングラスや帽子で顔を隠すことをあまりしなかった。化粧も濃くない。街にいれば、少し綺麗な大人の女性という程度に見える。


それでも、分かる人には分かるらしい。


ある日、映画館を出た後だった。二十代くらいの女性が、少し迷った様子で近づいてきた。


「あの……保奈美さんですよね」


保奈美は一瞬だけ表情を整えた。


「はい」


「ファンです。ずっと見ています」


「ありがとうございます」


保奈美は丁寧に微笑んだ。

女性は興奮した様子で何度も頭を下げ、最後に「応援しています」と言って去っていった。


山城は少し驚いていた。


「女性のファンも多いんですね」


「最近は多いです。昔は男性ばかりでしたけど」


「嫌ではないんですか」


「嫌じゃないです。ありがたいです」


保奈美はそう言ってから、少し間を置いた。


「でも、時々、思います。私はいつまで保奈美なんだろうって」


「どういう意味ですか」


「樫村保奈美っていう名前で見られることに、慣れすぎてしまったんです。本名で呼ばれることの方が、少なくなってしまって」


山城は何も言えなかった。


業界では毎年、何百人、何千人という新人が出てくる世界だという。そういう入れ替わりの激しい世界で、十年以上名前を残してきたことは、並大抵のことではない。


だが保奈美は、そのことにあまり頓着していないようだった。


「若い子、どんどん出てきますよ」


「気になりますか」


「昔は少し。でも今は、あまり」


「なぜですか」


「比べても仕方ないからです。若さでは勝てませんし、無理に張り合うと痛々しくなるだけなので」


保奈美は窓の外を見ながら言った。


「私が十年以上やってこられたのは、たぶん、周りを見すぎなかったからです。誰が売れているとか、誰が抜かしたとか、そういうのを気にしすぎると壊れます」


「経営にも似ていますね」


「そうなんですか」


「他社ばかり見ていると、自分の会社を見失うことがあります」


保奈美は少し笑った。


「山城さん、やっぱり社長ですね」


何度目かのデートの夜、二人は海沿いの駐車場に車を停めていた。


冬の海は暗く、遠くにだけ灯りが見えた。


保奈美は助手席で缶コーヒーを持ったまま、ぽつりと言った。


「私、やっぱりこの業界を辞めたいです」


山城はハンドルに手を置いたまま、黙っていた。


「辞めたら、どうしますか」


「分かりません」


「生活は?」


「そこが怖いです」


保奈美は笑ったが、その声は弱かった。


「今さら普通の会社で働けるのかな、とか。履歴書に何て書けばいいのかな、とか。考えると、急に怖くなります」


山城は、しばらく黙った。

そして、自分でも驚くほど自然に言った。


「俺と、結婚するかい」


保奈美が山城を見た。


「え?」


「一緒に住めばいい」


山城は前を向いたまま続けた。


「仕事を辞めたいなら、無理に続けることはない。生活のことなら、私が何とかする」


保奈美はしばらく黙っていた。


「山城さん」


「はい」


「一緒に住むのは、嬉しいです」


山城は保奈美を見た。


「でも、籍を入れるのはやめておきましょう」


「なぜですか」


「迷惑をかけると思います」


「迷惑?」


「世間の目は、山城さんが思っているより面倒です。社長さんでしょう。社員さんもいる。お子さんもいる。私みたいな過去がある女と結婚したら、山城さんに傷がつきます」


「私は気にしません」


「山城さんが気にしなくても、周りは気にします」


保奈美の声は静かだった。


「私は、愛人くらいでちょうどいいです」


「そんな言い方は」


「でも、楽です」


保奈美は少し笑った。


「妻になると、きっと私も無理をします。ちゃんとしなきゃ、迷惑をかけちゃいけないって。でも、愛人なら、少し気楽でいられます」


山城は黙った。

その言葉は寂しかった。だが、保奈美なりの現実感でもあった。


「ただ」


保奈美は少し明るい声に戻した。


「一緒に住むなら、私、料理教室に通いたいです」


「料理教室?」


「はい。美味しいものを作れるようになりたいです」


「保奈美さんが?」


「変ですか」


「いや」


山城は小さく笑った。


「いいですね、気持ちがうれしいです。」


「朝ごはんとか作りたいんです。普通のやつ。焼き魚とか、お味噌汁とか、卵焼きとか」


保奈美は、まるで少女のように言った。


「そういうの、ちゃんとやってみたいんです」


山城は、その横顔を見た。

セクシー女優として知られた女が、朝の味噌汁を夢見ている。その落差が、山城にはたまらなく切なかった。


「では、料理教室を探しましょう」


「本当に?」


「本当に」


「山城さん、すぐ本気にしますね」


「悪い癖です」


「でも、嫌いじゃないです」


保奈美はそう言って、山城の腕にそっと寄りかかった。山城は、彼女の肩に静かに手を置いた。


その時、山城は思った。

これは恋なのか。支援なのか。それとも、また自分が誰かを救おうとしているだけなのか。

答えは分からなかった。


ただ、保奈美が「普通の朝ごはん」を夢見ているなら、その朝を一度くらい一緒に迎えてみたいと思った。


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