第32話 二千本のAV女優が夢見たのは、卵焼きと味噌汁の朝だった
翌朝、目が覚めると、保奈美はまだ眠っていた。
山城は、しばらくその寝顔を眺めてから、そっとベッドを抜け出した。窓のカーテンを少しだけ開けると、朝の光が部屋に差し込んだ。
「眩しい」
背中から声がした。
「すみません、起こしましたか」
「いえ、もう起きる時間です」
保奈美は枕に顔を埋めたまま、もごもごと言った。
「あと五分だけ」
「子供みたいですね」
「子供です」
山城は笑った。
その後、ベッドの上で、山城は少し言いにくそうに口を開いた。
「聞いていいのか分からないんですけど」
「はい。なんですか?」
「私は、その……どうでしたか」
口にした途端、山城は、胸の奥がひやりとした。
五十八にもなって、女に出来栄えを採点してもらおうとしている——そんな自分がおかしくて、少し笑えてくる。
しかし、相手は、長いあいだその世界で生きてきたプロだ。
少し、聞いてみたい
保奈美は一瞬だけ目を丸くし、それから、いたずらを見つけたようにふっと笑った
「山城さん、自信あるじゃないですか」
「あるように見えますか」
「見えます」
「無駄な自信です」
山城が真顔で言うと、保奈美は声を出して笑った。
「無駄ではないですよ。良かったです」
「本当に?」
「本当です。普通の人は、最初から『自信がないんだよね』って言い訳しながら来る人もいますから」
「そうでしょうね」
山城も苦笑した。
「私は、言い訳する前にやってしまうタイプです」
「それ、山城さんらしいです」
二人はまた少し笑った。
その後も、取り留めのない話をした。仕事のこと、昔のこと、好きな食べ物のこと。保奈美は、話している時の方が少し安心するようだった。黙ると、急に自分の肩書きや過去が部屋の中に戻ってくるのかもしれない。
それから二人は、何度か会うようになった。
保奈美のリクエストは、驚くほど普通だった。
「映画が見たいです」
「映画ですか」
「はい。ポップコーン買って、最後までちゃんと見るやつ」
「普通ですね」
「普通がいいんです」
別の日には、こう言った。
「ドライブに行きたいです」
「どこへ?」
「海が見えるところ。別に有名な場所じゃなくていいです」
「食事は?」
「サービスエリアでもいいです」
山城は、その言葉に少し驚いた。
「保奈美さんは、もっと高い店が好きなのかと思っていました」
「高い店は、仕事でたくさん行きました」
保奈美は笑った。
「でも、仕事で行く高い店って、あまり味を覚えていないんです。誰と行ったか、何を話したか、気を使ったことばかり覚えていて」
「なるほど」
「だから、普通に映画を見たり、普通に車に乗ったり、普通にラーメン食べたりしたいんです」
山城は、その「普通」という言葉が、保奈美にとってどれほど遠いものだったのかを、少しずつ理解していった。
デートの時、保奈美はよく山城の腕を取った。
映画館のロビーでも、駐車場でも、サービスエリアでも、彼女は自然に距離を詰めてきた。
「腕、借りてもいいですか」
「どうぞ」
「山城さん、嫌じゃないですか?」
「嫌ではないです」
「本当に?」
「甘えられるのは、嫌いではありません」
そう言うと、保奈美は嬉しそうに笑った。
ただ、周囲の視線は時々気になった。
保奈美はサングラスや帽子で顔を隠すことをあまりしなかった。化粧も濃くない。街にいれば、少し綺麗な大人の女性という程度に見える。
それでも、分かる人には分かるらしい。
ある日、映画館を出た後だった。二十代くらいの女性が、少し迷った様子で近づいてきた。
「あの……保奈美さんですよね」
保奈美は一瞬だけ表情を整えた。
「はい」
「ファンです。ずっと見ています」
「ありがとうございます」
保奈美は丁寧に微笑んだ。
女性は興奮した様子で何度も頭を下げ、最後に「応援しています」と言って去っていった。
山城は少し驚いていた。
「女性のファンも多いんですね」
「最近は多いです。昔は男性ばかりでしたけど」
「嫌ではないんですか」
「嫌じゃないです。ありがたいです」
保奈美はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、時々、思います。私はいつまで保奈美なんだろうって」
「どういう意味ですか」
「樫村保奈美っていう名前で見られることに、慣れすぎてしまったんです。本名で呼ばれることの方が、少なくなってしまって」
山城は何も言えなかった。
業界では毎年、何百人、何千人という新人が出てくる世界だという。そういう入れ替わりの激しい世界で、十年以上名前を残してきたことは、並大抵のことではない。
だが保奈美は、そのことにあまり頓着していないようだった。
「若い子、どんどん出てきますよ」
「気になりますか」
「昔は少し。でも今は、あまり」
「なぜですか」
「比べても仕方ないからです。若さでは勝てませんし、無理に張り合うと痛々しくなるだけなので」
保奈美は窓の外を見ながら言った。
「私が十年以上やってこられたのは、たぶん、周りを見すぎなかったからです。誰が売れているとか、誰が抜かしたとか、そういうのを気にしすぎると壊れます」
「経営にも似ていますね」
「そうなんですか」
「他社ばかり見ていると、自分の会社を見失うことがあります」
保奈美は少し笑った。
「山城さん、やっぱり社長ですね」
何度目かのデートの夜、二人は海沿いの駐車場に車を停めていた。
冬の海は暗く、遠くにだけ灯りが見えた。
保奈美は助手席で缶コーヒーを持ったまま、ぽつりと言った。
「私、やっぱりこの業界を辞めたいです」
山城はハンドルに手を置いたまま、黙っていた。
「辞めたら、どうしますか」
「分かりません」
「生活は?」
「そこが怖いです」
保奈美は笑ったが、その声は弱かった。
「今さら普通の会社で働けるのかな、とか。履歴書に何て書けばいいのかな、とか。考えると、急に怖くなります」
山城は、しばらく黙った。
そして、自分でも驚くほど自然に言った。
「俺と、結婚するかい」
保奈美が山城を見た。
「え?」
「一緒に住めばいい」
山城は前を向いたまま続けた。
「仕事を辞めたいなら、無理に続けることはない。生活のことなら、私が何とかする」
保奈美はしばらく黙っていた。
「山城さん」
「はい」
「一緒に住むのは、嬉しいです」
山城は保奈美を見た。
「でも、籍を入れるのはやめておきましょう」
「なぜですか」
「迷惑をかけると思います」
「迷惑?」
「世間の目は、山城さんが思っているより面倒です。社長さんでしょう。社員さんもいる。お子さんもいる。私みたいな過去がある女と結婚したら、山城さんに傷がつきます」
「私は気にしません」
「山城さんが気にしなくても、周りは気にします」
保奈美の声は静かだった。
「私は、愛人くらいでちょうどいいです」
「そんな言い方は」
「でも、楽です」
保奈美は少し笑った。
「妻になると、きっと私も無理をします。ちゃんとしなきゃ、迷惑をかけちゃいけないって。でも、愛人なら、少し気楽でいられます」
山城は黙った。
その言葉は寂しかった。だが、保奈美なりの現実感でもあった。
「ただ」
保奈美は少し明るい声に戻した。
「一緒に住むなら、私、料理教室に通いたいです」
「料理教室?」
「はい。美味しいものを作れるようになりたいです」
「保奈美さんが?」
「変ですか」
「いや」
山城は小さく笑った。
「いいですね、気持ちがうれしいです。」
「朝ごはんとか作りたいんです。普通のやつ。焼き魚とか、お味噌汁とか、卵焼きとか」
保奈美は、まるで少女のように言った。
「そういうの、ちゃんとやってみたいんです」
山城は、その横顔を見た。
セクシー女優として知られた女が、朝の味噌汁を夢見ている。その落差が、山城にはたまらなく切なかった。
「では、料理教室を探しましょう」
「本当に?」
「本当に」
「山城さん、すぐ本気にしますね」
「悪い癖です」
「でも、嫌いじゃないです」
保奈美はそう言って、山城の腕にそっと寄りかかった。山城は、彼女の肩に静かに手を置いた。
その時、山城は思った。
これは恋なのか。支援なのか。それとも、また自分が誰かを救おうとしているだけなのか。
答えは分からなかった。
ただ、保奈美が「普通の朝ごはん」を夢見ているなら、その朝を一度くらい一緒に迎えてみたいと思った。
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