第26話 既読スルーとスタンプの女心
時計は、すでに夜の十一時を回っていた。
テレビは消えていて、部屋にはエアコンの低い音だけが響いている。
山城と紗季は、さっきからずっとソファに並んで座り、テーブルの上には、空になったコーヒーの紙コップが二つ。
「なあ、紗季」
山城が、スマホをいじりながら口を開いた。
「もう一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「授業の延長戦?」
紗季は、少し笑って片眉を上げた。
「今日の生徒さん、なかなか熱心だね」
「授業料は、そんなに高くしないでくれよ」
「内容によるかな」
紗季は、クッションを抱えて体の向きを少し変える。
「で、何?」
「既読スルーと、スタンプだけ返されるやつ」
山城は、画面を見つめたまま言った。
「正直、あれが一番つらい。何考えてるのか、さっぱり分からん」
「お、大テーマ来たね」
紗季は、ふっと息を吐いて笑う。
「じゃあ今日の講義タイトルは――
『既読スルーとスタンプの女心』ね」
「その講義、録音しておきたいくらいだな」
「録音する前に、ちゃんと頭に入れなさい」
紗季は、軽く冗談めかしてから、真面目な顔になる。
「まず、“既読スルー”って一言で言ってるけど、女側のパターンはいくつかあるの。
山城さんが全部“嫌われた”で片付けてるのは、ちょっともったいない」
「じゃあ、その『いくつか』ってやつを教えてくれ」
「よし、分類しよっか」
紗季は指を一本立てる。
「既読スルー・タイプA:
“本当に忙しくて、頭が回らない”」
「それはまあ、分かる」
「仕事でバタバタしてたり、職場でLINEを開いちゃって、
『あとでちゃんと返そう』と思ってるうちに、一日過ぎるパターン。
これ、社会人女子にはめちゃくちゃ多い」
「それ、忘れてるのと何が違うんだ?」
「“返したい気持ちはある”ってところが違う」
紗季は、さらっと答える。
「ただ、帰ってきて倒れ込んで、そのまま寝ちゃう。
朝起きたら、もう別の連絡が上に来てて、埋もれる」
「ああ……」
「タイプB:
“ちゃんと返したいから、時間を置いている”」
「それは……どういうことだ?」
「例えばさ、山城さんから、ちょっと重めの相談とか、
深い内容のメッセージが来たとするじゃない?」
「……心当たりがありすぎるな」
「そのときに、“適当な返事はしたくない”って思う子は、
スマホを見て、『落ち着いた時間に返そう』って決めるの」
「それで、既読だけついて止まるのか」
「そう。でも、その間に仕事や予定が入るでしょ?
で、夜になって、ベッドに入ってから思い出すんだよ。
『あ、まだ返してなかった』って」
「で、そこで返すのか?」
「真面目な子は返そうとする。
でも、夜中の長文になりそうだなって思って、また翌日に回す。
それが2周すると――」
「……そのまま?」
「そのまま。
返したい気持ちはあるのに、“今さら何て書いたらいいか分からない”ゾーンに入って、
結果として“既読スルー状態”になる」
「……それ、嫌われてるわけじゃないんだな」
「少なくとも、このタイプは違うね」
紗季はうなずく。
「ただ、男側から見ると、“あれから返ってこない”って事実しか見えないから、
“全部まとめて嫌われた”に分類しちゃう」
「たしかに、そうしてたかもしれない」
「じゃあ次」
紗季は指を三本目まで立てた。
「タイプC:
“ちょっと距離を取りたい、様子見中”」
「それは……やっぱり危険信号か?」
「まあ、これはやや黄色信号寄りだね」
紗季は苦笑する。
「『この人、最近ちょっと重いな』『ちょっと押しが強いな』って感じたときに、
あえて“すぐには返さない”ことで、
『もう少し距離を置きたい』ってメッセージを送ってる」
「返さないこと自体が、メッセージってことか」
「そう。
でもね、このときに男の人が“追撃LINE”を送ると、
黄色信号が一気に赤になる」
「……やってたな」
「『なんで返事くれないの?』『俺、何かした?』って送るでしょ?」
紗季は、山城の顔色を伺うように笑った。
「それを見た女の子は、『ああ、この人、本当に余裕ないんだ』って思って、
さらに返しづらくなる」
「じゃあ、どうすればよかったんだ?」
「タイプCのときはね、“触らず、静観”が一番。
少し時間を置いて、明るくて短いメッセージを一回だけ送る。
それでダメなら、『そういう時期だったんだな』って受け入れる」
「……難しいな」
「難しいけど、それが“大人の距離感”」
紗季は、淡々と言った。
「最後、タイプD」
紗季は、四本目の指を立てる。
「“フェードアウトしたい”」
「……それは、さすがに分かる」
「これはもう、そのまんま。
『これ以上、関係を深めたくない』『これ以上期待させたくない』ってときに、
あえて返さずに、相手に察してもらおうとしてる」
「それ、はっきり言ってくれた方が楽なんだけどな」
「言える子ばかりじゃないからね」
紗季は、少し肩をすくめた。
「それに、はっきり言ったら言ったで、『なんでだ』『理由を教えてくれ』って、
“理由を求められる”怖さもある」
「……ああ、そうか」
「女の子の中には、“説明して怒られるくらいなら、距離を置いて終わらせたい”って子もいる。
だから、既読スルー=全員が悪意ってわけじゃない。
“怖さ”とか“気まずさ”とか、“自信のなさ”も混ざってる」
山城は、しばらく黙り込んだ。
自分が勝手に「嫌われた」と決めつけていた顔が、いくつも頭に浮かぶ。
「……じゃあ、既読スルーされたとき、俺はどうするのが正解だったんだ?」
「正解は一つじゃないけどね」
紗季は、少し考えてから、穏やかに口を開いた。
「最低限のルールとして、
“返事を催促するLINEは送らない”
これだけは守ってほしい」
「それ、前にも言ってたな」
「それくらい大事ってこと。
代わりに送るとしたら――
時間をおいてから、“相手を責めない、軽い一言”」
「例えば?」
「“忙しそうだけど体調大丈夫?”とか、
“返事はいつでもいいから、無理しないでね”とか」
「それ、本当に送ってもいいのか?」
「送り方次第だね。
毎回そればっかり送ってたら、逆に重いけど」
紗季は、少し笑う。
「でも、少なくとも“なんで返事しないの”よりは、百倍マシ」
「ふむ……」
「でさ」
紗季は、テーブルの上のスマホを指さす。
「既読スルーとセットで、男の人が悩むのが“スタンプ問題”なんだよね」
「ああ、それも聞きたかった」
山城は、身を乗り出した。
「文章じゃなくて、スタンプだけポンって返ってくるとき。
あれ、正直何を考えてるのか、全然分からん」
「よし、じゃあ次のコマ。
“スタンプの意味、5割は優しさ、3割は逃げ、2割はノリ”講義」
「細かい配分だな……」
「まずね、スタンプだけ返す女の子の心理は、大きく分けて三つ」
紗季は、指を一本立てる。
「スタンプ理由その1:
“ちゃんと返したいけど、今は余裕がない”」
「さっきの既読スルーのタイプBに近いか?」
「そうそう。
文章を考える気力はないんだけど、
『読んでるよ』『無視してるわけじゃないよ』ってサインだけ送りたいとき。
このときのスタンプは、かなり“優しさ”寄り」
「なるほど」
「スタンプ理由その2:
“これ以上会話を広げたくないけど、無視もしたくない”」
「それは、ちょっと痛いな」
「例えばさ、山城さんからのメッセージが
“オチもない報告”だったり、“どう返せばいいか分からない内容”だったりするとね」
紗季は、少し苦笑する。
「『ありがとう』『了解』って意味のスタンプ一個で、会話を締めてる」
「会話の終わりの印みたいなものか」
「そう。
“ここで終わりにしたいです”って、やんわり伝えるサイン。
なのに、そこでまた質問を重ねると――」
「……嫌がられる?」
「正直、ちょっと“空気読めない人”認定されることもある」
紗季は、さらっと言った。
「スタンプ理由その3:
“本当にそのスタンプを使いたいだけ”」
「そんなこと、あるのか?」
「あるある。
新しく買ったスタンプを使いたいとか、
そのときの気分にぴったりな絵があって、“これ以外の言葉いらない!”ってときもある」
「それ、どうやって見分ければいいんだ?」
「正直、一個一個のスタンプだけを見ても、分からない」
紗季は、きっぱり言う。
「大事なのは、その前後の“流れ”」
「流れ?」
「例えば――
普段から、文章とスタンプをよく混ぜてくる子が、
そのときだけスタンプ一個、っていうなら、
『今日はテンションで返してるだけ』『軽いノリ』の可能性が高い」
「普段の癖を見るってことか」
「そう。
逆に、“今までちゃんと文章で返してくれてたのに、急にスタンプだけになった”なら、
『ちょっと距離を取りたいのかな』って考える余地がある」
「……怖いな、そのギアチェンジ」
「でもね、その変化って、
『疲れてるのかもしれないな』『忙しいタイミングなのかも』って可能性も同時にあるの」
「じゃあ、どう受け取ればいいんだ?」
「“自分に都合よく受け取らないけど、一番悪い方にも決めつけない”」
紗季は、静かに答えた。
「例えば、こんな感じ」
紗季は、自分のスマホに、例文を打ち込みながら説明する。
「山城さん:『今日は仕事でこんなことがあってさ〜(少し長めの話)』
女の子:『笑ってるスタンプ一個』」
「あるな、こういうの」
「このときにさ、
『なんだ、スタンプだけか、つまんないのかな』って落ち込むんじゃなくて、
“忙しい中でも、笑いのリアクションだけ返してくれたんだな”って受け取るのも一つ」
「ポジティブに考えすぎじゃないか?」
「そう思うでしょ?」
紗季は、にこっと笑う。
「でもね、女の子って、興味のない話にはスタンプすら押さない子も普通にいるの。
スタンプ一個でも返してくれるってことは、“つながりは切らしたくない”ってサインでもある」
「……そういう見方もあるのか」
「大事なのはね、
“スタンプ一個に、いちいち自分の価値をかけないこと”」
「自分の価値?」
「『スタンプだけ=俺はどうでもいい男なんだ』って、すぐ自分を下げない。
女の子側の“余裕のなさ”“言葉にするのが苦手な気分”が、
スタンプに逃げてることも多いから」
山城は、自分の過去のトーク履歴を思い返しながら、小さくうなずいた。
「……じゃあ、既読スルーとかスタンプだけのとき、
俺が一番やっちゃいけないのは、なんだ?」
「2つある」
紗季は、二本の指を立てる。
「1つ目、“相手を責めるメッセージを送ること”。
『なんで返事くれないの?』『スタンプだけって、どういう意味?』みたいなやつ」
「……はい」
「2つ目、“自分の価値を勝手に下げて、拗ねたメッセージを送ること”。
『俺の話、つまらなかったよね』『もう送らない方がいいかな』とか」
「それも、やってたかもしれないな」
「この2つは、どっちも女の子にとって“重い”し、“扱いづらい”」
紗季は、少し申し訳なさそうに言う。
「正直に言うと、そういうLINEを見ると、
『この人とやりとりを続けるの、大変そうだな』って思われちゃうこともある」
「じゃあ、どうすればいい?」
「既読スルーやスタンプに対して、
“何も返さない”っていう選択肢も、ちゃんと持っておくこと」
「返さない?」
「そう。
相手の様子を見て、数日あけてから、
“新しい話題”で軽く送る。
『この前言ってた仕事、どうなった?』みたいに」
「前の未返信には、触れないのか?」
「触れない。
“あれに返せなかったことを責めない男”って、
女からすると、すごく楽なの」
「……なるほどな」
「山城さん」
紗季は、少し真剣な声で呼びかけた。
「既読スルーやスタンプに過剰反応しない男は、それだけで“余裕がある”って見られる。
余裕のある男は、女にとって安心できる相手」
「余裕か……今まで一番遠いところにあったな」
「だから、今、練習してるんでしょ」
紗季は、やさしく笑った。
「大事なのはね――
“女の反応”を見て、自分の価値を毎回揺らさないこと。
既読スルーもスタンプも、『その子の今の状態』であって、『山城さんの価値』じゃない」
山城は、その言葉を、ゆっくり噛みしめるようにうなずいた。
「……少しだけ、気持ちが楽になった気がする」
「それが今日の授業の合格ライン」
紗季は、満足そうに微笑む。
「女心の正解を全部当てる必要はないの。
ただ、“相手を責めない”“自分も責めすぎない”でいられたら、それでいい」
「紗季先生」
山城は、半分冗談まじりに言った。
「俺、単位もらえそうか?」
「ギリギリ及第点かな」
紗季は、わざとらしく考えるふりをしてから、笑った。
「でも、こうやってちゃんと質問してくる男は、伸びるタイプだから」
「伸びるタイプ、ね」
「うん。
どうせなら、女の既読スルーとスタンプに振り回される男じゃなくて、
“ああ、今はこういう状態なんだろうな”って、一歩引いて見られる男になろ?」
「……努力するよ」
「そのうち、“あ、この子、今ちょっと距離を取りたいんだな”ってときも、
ちゃんと分かるようになるよ。
そのとき、追いかけない選択ができたら――それが一番カッコいい」
部屋の時計の秒針が、静かに時間を刻む。
山城は、スマホを伏せて置き、大きく一度、息を吐いた。
「紗季」
「ん?」
「お前と話してると、自分のダメなところばっかり見えてくるけど――
不思議と、そんなに苦しくはないな」
「それ、最高の褒め言葉だね」
紗季は、少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、その調子で。
次は“デートの誘い方”講義でも、やろっか」
「それは……恵美にも、関係ある話になりそうだな」
「もちろん」
紗季は、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「“誘い方”を間違えると、既読スルーまっしぐらだからね」




