第19話 『「今日は私がせいちゃんを甘やかしてあげる」渋谷のラブホテル、夢の時間』
ホテルに入るまで、山城は少し緊張していた。 渋谷の雑踏を歩いている時には、隣に恵美がいることが嬉しかった。若く、明るく、街の光をそのまままとったような女が、自分の腕に自然に手を添えている。その事実だけで、山城の中の古びた自尊心が、少しだけ持ち直すような気がした。
だが、ホテルのエレベーターに乗った瞬間、その高揚は別の緊張に変わった。 鏡張りの壁に、二人の姿が映っている。 恵美は楽しそうに、少し頬を赤らめていた。山城の方は、スーツの襟元を直しながら、どこか所在なさげに立っている。
…… やっぱり、親子ほど違うな ……
そう思った瞬間、恵美がふいに山城の腕に身体を寄せた。
「せいちゃん、また難しい顔してる」
「そうか?」
「うん。考えすぎ」
恵美はそう言うと、エレベーターの鏡越しに山城を見て、いたずらっぽく笑った。
「今日は、何も考えない日でしょ?」
その一言に、山城は返す言葉を失った。 部屋に入ると、恵美は靴を脱ぐより先に、窓際へ歩いていった。
閉められた窓を少し開けると隙間から、渋谷のネオンがわずかに差し込んでいる。外の喧騒は厚いガラスに遮られ、部屋の中だけが、街から切り離されたように静かだった。
「わあ、意外と広いね」
恵美は振り返り、部屋を見回した。 その無邪気な声に、山城は少し救われた。
慣れているようでいて、どこか初々しさもある。その危うい混ざり方が、彼女の魅力だった。
「飲み物、何か頼むか?」
山城がそう聞くと、恵美は首を横に振った。
「今はいらない」
「そうか」
「せいちゃん」
「ん?」
振り返った山城の胸に、恵美がすっと近づいてきた。 そして、何のためらいもなく、彼のネクタイに指をかけた。
「こういう時まで、社長の顔してなくていいよ」
「社長の顔なんかしてるか?」
「してる。ずっとしてる」
恵美は笑いながら、ゆっくりとネクタイを緩めた。 その仕草があまりにも自然で、山城は一瞬、動けなくなった。
若い女に主導権を握られている。そのことに戸惑いながらも、嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が静かに熱を帯びていく。
「恵美」
名前を呼ぶと、恵美は顔を上げた。
「なに?」
「慣れてるな」
そう言うと、恵美は少しだけ目を細めた。
「慣れてるんじゃなくて、今日は私がしたいだけ」
その言葉は、山城の中に深く落ちた。 求められている。
金を払う男としてではなく、気を遣われる年上としてでもなく、ただ一人の男として。
山城は、長いこと忘れていた感覚を思い出した。 恵美はネクタイを外すと、今度は山城のジャケットに手をかけた。肩からゆっくりと脱がせ、椅子の背にかける。その動作は丁寧だったが、どこか楽しんでいるようでもあった。
「せいちゃんって、ちゃんと見ると大人の男って感じする」
「五十八だからな。大人どころか、もう初老だ」
「そういうこと言わないの」
恵美は少し不満そうに眉を寄せた。
「私、そういうせいちゃんがいいって言ってるんだから」
山城は黙った。 その言葉を、すぐには信じられなかった。若い女が年上の男に言う甘い言葉など、いくらでもある。夜の店で、交際クラブで、山城はそういう言葉を何度も聞いてきた。 だが、恵美の声には、商売の匂いがなかった。 少なくとも今この瞬間だけは、彼女は本当にそう思っているように見えた。
恵美は山城の胸にそっと手を当てた。
「緊張してる?」
「少しな」
「かわいい」
「五十八の男に言う言葉じゃない」
「でも、かわいい」
恵美はそう言って、山城の胸元に顔を寄せた。
山城は思わず彼女の肩に手を置いた。細い肩だった。
だが、その細さの奥に、若い女特有のしなやかな強さがあった。
恵美はその手を拒まなかった。むしろ、もっと近づくように、山城の腰に腕を回した。
二人の距離が消えた。 恵美の髪から、シャンプーと少し甘い香水の匂いがした。山城はその匂いを吸い込んだだけで、渋谷の街で感じていた劣等感が、遠くへ薄れていくのを感じた。
「せいちゃん」
「うん」
「キスして」
命令ではなかった。 けれど、遠慮のない言葉だった。 山城はゆっくりと恵美の顎に指を添えた。恵美は逃げなかった。むしろ目を閉じ、自分から少し顔を上げた。 唇が触れた。 最初は静かだった。 けれど、恵美はすぐに山城の首に腕を回し、彼を引き寄せた。山城が驚くほど、彼女は迷いなく近づいてきた。唇を重ねるたびに、息が近くなり、体温が混ざり、部屋の空気がゆっくりと濃くなっていく。 山城の中の理性が、少しずつほどけていった。 恵美はキスを解くと、山城の耳元で囁いた。
「今日は、私がせいちゃんを甘やかしてあげる」
「俺を?」
「うん。いつもお金出したり、気を遣ったり、難しい顔したりしてるでしょ。今日は、何もしなくていいよ」
そう言って、恵美は山城の手を取った。 ベッドまで導かれるように歩く。 山城は、どこか夢の中にいるような気がした。五十八歳の自分が、渋谷のラブホテルで、若い女に手を引かれている。冷静に考えれば滑稽かもしれない。だが、その滑稽ささえ、恵美の笑顔の前ではどうでもよくなった。 ベッドの端に腰を下ろすと、恵美は山城の前に立った。 照明の柔らかな光が、彼女の輪郭を淡く包んでいる。
「見てて」
恵美はそう言った。 その言葉に、山城の喉がわずかに鳴った。 恵美は急がなかった。山城の視線を受け止めながら、少し照れたように、けれど楽しそうに、自分の髪を耳にかけた。 その仕草だけで、山城の胸は締めつけられた。 若さというものは、残酷なほど美しい。 それは山城がどれだけ金を持っていても、どれだけ会社を経営していても、決して手に入らないものだった。 だが今、その若さが、自分に向かって微笑んでいる。 恵美はベッドに膝を乗せ、山城のすぐそばまで近づいた。
「まだ難しい顔してる」
「見惚れてたんだ」
山城がそう言うと、恵美は一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「そういうの、もっと言って」
「綺麗だよ」
「ほんとに?」
「本当に」 恵美は満足したように目を細めた。 そして、今度は自分から山城に口づけた。 さっきよりも深く、熱を含んだキスだった。山城の肩に手を置き、押し倒すように身体を預けてくる。山城は思わず後ろへ倒れ、恵美がその上に重なる形になった。
「恵美」
「なに?」
「積極的だな」
「嫌?」
「嫌なわけがない」
「じゃあ、黙ってて」
恵美は笑いながら、山城の胸に頬を寄せた。 その甘え方は、計算しているようで、どこか本気だった。山城は彼女の髪を撫でた。柔らかく、指の間をすり抜ける髪。その感触が、現実感を奪っていく。 恵美は山城の鼓動を聞くように、しばらく胸に耳を当てていた。
「すごい。早い」
「お前のせいだ」
「嬉しい」
恵美は小さく笑った。 その笑い声が、山城の身体の奥を甘く揺らした。 彼女は、山城を急かさなかった。だが、主導権は完全に恵美にあった。触れる場所も、近づく距離も、キスの深さも、彼女が選んでいる。山城はそれを受け入れながら、不思議な安堵を覚えていた。 若い女に翻弄されている。 けれど、馬鹿にされているわけではない。 むしろ、大切に扱われているような気さえした。
「せいちゃん」
恵美が、彼の胸元で囁いた。
「今日は、私のことだけ見て」
「見てるよ」
「違う。年齢とか、会社とか、お金とか、そういうの考えないで」
山城は息を止めた。 恵美は、思ったよりもよく見ている。 渋谷を歩きながら山城が感じていた劣等感も、若い服を試した時の居心地の悪さも、彼女はどこかで気づいていたのかもしれない。
「私、今のせいちゃんがいい」
恵美は静かに言った。
「若作りしてるせいちゃんじゃなくて、無理して渋谷に馴染もうとしてるせいちゃんでもなくて、普通に困って、照れて、でも優しいせいちゃんがいい」
山城の胸の奥で、何かがほどけた。 それは欲情だけではなかった。 もっと弱いものだった。 誰にも見せたくなかった自分の老い。自信のなさ。若さへの羨望。そういうものを、恵美は否定せずに、そっと撫でるように受け入れてくれた。 山城は、彼女の頬に手を添えた。
「恵美」
「うん」
「ありがとう」
恵美は少し照れたように笑った。
「そういうの、今言う?」
「今だから言うんだ」
「じゃあ、もう一回キスして」
今度は山城から唇を重ねた。 恵美は嬉しそうに受け止めた。さっきまでの積極性とは違い、今度は少し甘えるように、彼の首に腕を絡めた。身体を寄せるたび、山城の中にあった理性の輪郭が曖昧になっていく。 部屋の照明は柔らかく、外の渋谷の音は遠かった。 その小さな密室の中で、山城は年齢を忘れた。 会社も、肩書きも、五十八という数字も、すべてが遠のいていった。 ただ、恵美の体温があった。 恵美の息遣いがあった。 恵美の指が、自分を求めているという実感があった。
「せいちゃん」
恵美の声が、甘く震えた。
「もっと、こっち来て」
その言葉に、山城は抗えなかった。 恵美は彼を引き寄せ、まるで自分の方から夜の奥へ誘うように、何度も唇を重ねた。山城はそのたびに、少しずつ自分がほどけていくのを感じた。 若い女に慰められているのか。 愛されているのか。 それとも、ただ夢を見せられているだけなのか。 分からなかった。 だが、その夜だけは、分からなくてもよかった。 恵美は積極的だった。 けれど乱暴ではなかった。 甘えるように、試すように、時には山城をからかうように、自分から距離を詰めてくる。そのたびに山城は、胸の奥に灯った火が、静かに大きくなっていくのを感じた。
「せいちゃん、好き」
その言葉が本気かどうか、山城には分からない。 それでも、その瞬間の恵美の声は、嘘には聞こえなかった。 山城は彼女を抱きしめた。 若い肌の温かさも、髪の匂いも、唇の柔らかさも、すべてが甘く、苦しいほど鮮明だった。 その時間は、長かったのか、短かったのか分からない。 ただ、山城の中にあった劣等感や老いへの恐れは、恵美の積極的な愛撫と甘い囁きの中で、少しずつ溶けていった。 渋谷の街で感じていた場違いな感覚も、鏡に映る自分への嫌悪も、その時だけは消えていた。 山城は、ただ一人の男として、恵美に求められていた。 その事実が、何よりも甘美だった。




