第14話 みどりとの別れ
二人が事を終え、ベッドに横たわったあとも、部屋にはしばらく、湿った吐息だけが漂っていた。
外では雨が、窓ガラスを一定のリズムで叩いている。
山城は天井を見つめたまま、しばらく黙っていた。 やがて、意を決したように小さく息を吸う。
「……みどり」
「ん?」
タオルケットを胸元まで引き寄せ、半分うとうとしながら返事をしたみどりが、山城の声の調子に何かを感じ取ったのか、ゆっくりと上体を起こした。
「どうしたの、せいちゃん。そんな真面目な声出して」
冗談めかして笑おうとした口元が、すぐに強ばる。 山城の目が、いつもよりずっと真剣だったからだ。
「……少し、話がある」
「話?」
みどりは、胸元のタオルケットを握りしめたまま、じっと彼を見た。
五十八歳の男の瞳には、疲れと、決意と、どうしようもない優しさがないまぜになっていた。
「……俺たち、もう、ここまでにしようと思う」
時間が止まったようだった。
「……え?」
ようやく絞り出した声は、かすれていた。
「ど、どういう……」
「金の話じゃない」
山城はゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「これからいくら出すとか、そういう問題じゃない。そういう次元の話じゃないんだ」
「じゃあ、何の話? 私、何かした?」
みどりの声に焦りが混じる。 山城は首を横に振った。
「お前は何も悪くない。……ただな」
一拍置いて、言葉を絞り出す。
「俺とお前は、合わない。生き方が、根本的に違う」
みどりは唇を震わせた。
「そんな……いきなり、何それ。合わないって、今さら……」
「今さらだよな」
山城は、自嘲気味に笑った。
「でもな、ずっと思ってた。俺はそもそも、夜遊びが好きな人間じゃない。銀座が性に合ってるわけでもない。お前のためにやってきたけど、根っこは変わらない」
「私は、知ってたよ。せいちゃんが、銀座とかあんまり好きじゃないの」
みどりは、タオルケットを握る指に力を込める。
「でも、それでも来てくれてたじゃん。カウンセリングも出してくれて、話も聞いてくれて……それって、そういうことでしょ?」
「そういうこと……って?」
「私のこと、嫌いじゃないってことでしょ」
「嫌いなわけないだろ」
即答だった。 みどりの瞳に、一瞬だけ安堵が灯る。
だが、次の言葉が、その灯りをすぐに揺らした。
「でもな、俺がやってきたのは、同情と心配だ。親みたいな気持ちに近い。お前を『自分の女』として囲いたいからやってきたわけじゃない」
「……そんなの、わかってるよ」
みどりは視線を逸らした。
「でも、せいちゃんがいなかったら、私、たぶんどっかで死んでた。ほんとに」
「死なせたくなかったから、俺は金を出した。それが俺のできることだった」
山城は、ゆっくりとベッドの縁に腰掛け直す。
「ただな……」
少しだけ声が低くなる。
「俺が欲しいのは、『長く遊べる人』じゃない。『長く一緒にいられる人』なんだ」
みどりは、はっとして彼を見た。
「長く、一緒に……?」
「家で飯作って、一緒にテレビ見て、たまに近所を散歩して、そういう生活だ。派手じゃねぇけど、落ち着いた時間だよ」
「……それ、私じゃダメってこと?」
山城は、答えを急がなかった。 それ自体が、答えになっていた。
「お前はさ」
静かに言う。
「銀座にいる方が、心が安定してる。仕事としても、性格としても、あそこが合ってる。客に囲まれて、笑って、飲んで、たまに弱音吐いて……そうやって生きるのが、お前のリズムなんだ」
みどりは、下唇を噛んだ。
「せいちゃんは?」
「俺は逆だ。夜は、見張る側の人間だ。何かが起きないように動くのが、俺の生き方だ。みんなが酔っ払ってる裏で、火事や事故が起きないかを気にしてる方が、性に合ってる」
「そんなの、最初から知ってたよ」
「知ってて、一緒にいた。……でも、それが、そろそろ限界なんだと思う」
「限界って、何の?」
「世界の違いを誤魔化して一緒にいるのに、限界が来てるってことだ」
みどりの目から、じわりと涙がにじむ。
「やだ……やだよ、そんなの」
子どものような声だった。
「せいちゃん、私のこと助けてくれたじゃん。カウンセリングも続けてるし、前より全然マシになったよ。夜の仕事だって、前みたいに壊れながらやってるわけじゃない。せいちゃんが見つけてくれた道を、ちゃんと歩けるようになってきたとこだよ?」
「だからこそ、だ」
山城の声が、少しだけ強くなった。
「お前はもう、一人で歩ける。俺にしがみついてないと立ってられない時期は、過ぎた。カウンセラーもいるし、店だって、支えてくれる人間は山ほどいる」
「でも……」
みどりは、ぽつりと言った。
「じゃあ、私、誰とエッチすればいいの?」
山城は、思わず目を瞬かせた。
「……は?」
「だって」
みどりはタオルケットをぎゅっと抱きしめる。
「せいちゃんがいなくなったら、私、怖いんですけど。お店のお客さんとは、そういうことできない。怖い。体が固まっちゃう。……でも、せいちゃんとだったら、少しずつ平気になってきてた。女の子になれるの」
あまりにまっすぐな言葉に、山城は胸の奥を掴まれたような痛みを覚えた。
「……だから、余計にダメなんだ」
「なんで?」
「そこまで頼られると、俺がいないとダメな女のままになっちまう」
山城は、拳を膝の上で握りしめた。
「いつか、お前が本当に信頼できる奴が現れたとき、その相手と向き合えるようになるのが、一番いい。そのときまで、無理して誰かと寝る必要なんてない」
「でも、今は?」
「今は……」
山城は目を閉じ、一度、深く息を吸った。
「今は、俺がここにいたらいけない時期なんだと思う」
「なんで、そんな言い方するの」
みどりの声が震える。
「私が、銀座で楽しそうにしてるから? 他の男にチヤホヤされてるから? 嫌になった?」
「違う」
即座に否定した。
「むしろ、嬉しかった。自分以外の誰かの金でドレス買ってもらって、指名もらって、笑ってるお前を見るのが、俺は好きだった」
「じゃあ、なんで……」
「問題は、俺だ」
短く言い切る。
「俺の生き方と、お前の生き方が、根っこで噛み合ってない。その事実から目を逸らして、お前の隣に居続けたら、それは、俺のわがままになる」
山城は枕元に置いておいた封筒を取り、ベッドサイドにそっと置いた。
「これは今月分と、少し先の分。カウンセリングも、あと半年分はもう払ってある」
「……お金で終わりってこと?」
みどりの声には、怒りとも悲しみともつかない色が混じっていた。
「金で繋がった関係なんだから、最後くらい金でケジメつけるのが筋だと思ってる」
「そんなの、やだよ」
みどりは首を振った。
「私、最初はそうだったかもしれないけど……今は違うもん。せいちゃんがいると、安心するんだよ。家族みたいな、なんか変な感じ。お父さんとも違うし、彼氏とも違うけど……」
「それが一番厄介なんだよ」
山城は苦笑した。
「家族でもなく、彼氏でもなく、ただの『安心』だけを提供してる五十八のオッサンなんてな、長く付き合えば付き合うほど、重石みたいになる」
「重石なんかじゃない!」
みどりは、ほとんど叫ぶように言った。
「私、せいちゃんと一緒にいると、自分を嫌いにならなくて済むんだよ。銀座でちやほやされてるときの自分も、カウンセリングで泣いてる自分も、ぜんぶまとめて『いいじゃん』って言ってもらえてる気がするの」
「……それは、お前自身が強くなったからだ」
「違う!」
涙が、ぼろぼろと頬を伝う。
「強くなれたのは、せいちゃんがいたからだよ。私ね、本当は、銀座で飲み歩くのも怖いんだよ。笑ってるけど、怖いよ。いつ裏切られるか、いつ捨てられるか。だから、終わったあとにせいちゃんのところに来て、『今日も生きて帰れました』って報告してるみたいな気持ちだったの」
山城は、目を伏せた。
「……そんな風に思わせてたなら、尚更、今言わなきゃいけない」
「何を?」
「お前と俺は、やっぱり、生きる世界が違うってことだ」
言いながら、自分の胸にも突き刺さる言葉だった。
「それは葛藤とか、迷いとかの話じゃない。生き方の問題だ。俺はそれだけは、ぶれない。お前が銀座で生きることを選ぶなら、俺は、その外側からしか応援できない」
「外側って、どこ?」
「お前のLINEの履歴の、どこか端っこの方。たまに『大丈夫か』って送るくらいの位置だよ」
「そんなの、意味ないじゃん……」
みどりは、膝を抱えてうずくまった。
「私、どうやって、この先、ベッド入ればいいの。客とは怖くてできない。誰か新しい人となんて、もっと怖い。せいちゃんがいなくなったら、私の身体、また固まるよ」
山城は、ゆっくりとみどりの髪に手を伸ばし、そっと撫でた。
「……怖くていい」
「え?」
「怖いままでいい。無理に慣れる必要はない。お前が本当に『この人なら』と思える相手が現れるまで、そのままでいい」
「そんな人、本当に現れるの?」
「現れるさ。お前みたいに、傷だらけなのに笑える奴を放っとく馬鹿ばっかりじゃない」
みどりは、しゃくり上げながら首を振る。
「私、信じられないよ……」
「信じられなくていい。今はな」
山城は、ベッドから立ち上がった。
「でも、俺がここで『じゃあ、俺が一生そばにいてやるよ』って言ったら、それこそお前の人生を縛ることになる。銀座から引きずり出して、俺のペースに合わせろって言うのと同じだ」
「そんなこと、誰も……」
「俺が、嫌なんだよ」
山城の声が、低く、はっきりと響いた。
「俺は俺の世界で、生きていく。お前は、お前の世界で生きろ。それが、お互い一番ちゃんと生きられる道だと思ってる」
みどりは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、山城を見上げた。
「……せいちゃん」
「なんだ」
「ありがとうって、今は言えない」
「言わなくていい」
山城は、シャツに腕を通しながら、短く答えた。
「いつか、どっかのカウンターで、『あのとき別れてくれてよかった』って笑ってくれたら、それで十分だ」
靴を履き、ドアノブに手をかける。 外では、雨音が一段と強くなっていた。
ふと振り返ると、みどりがベッドの上で膝を抱え、小さく震えながらこちらを見ていた。
「せいちゃん……」
か細い声に、山城はほんの一瞬だけ迷い、そして、ごく微かに口元を緩めた。
「……みどり。お前に会えて、良かった」
それだけ言って、ドアを静かに閉めた。
廊下に出ると、空調の乾いた風が肌を撫でた。 山城は、深く、長い息を吐く。
胸は、焼けるように痛かった。 それでも、どこかで、細い糸が一本だけ、静かに切れたような感覚があった。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。 だがその目の奥には、わずかながら、覚悟の色も宿っている。
(これでいい)
(これで終わりだ)
小さく心の中で繰り返す。
エレベーターが静かに降りていくあいだも、外の雨は止む気配を見せなかった。
第2章まで読んでいただきありがとうございます
第1章、第2章共にもちろん精一杯描いておりますが、基本的に第3章の序章として描いています
是非、第3章を期待してください
こうしてお一人お一人に物語を読んでいただけることが、書き手にとって何より幸せな時間です。
連載は土日祝祭日を除き毎日更新でお届けしてまいります。
続きを共に見届けてくださる方は、ブックマークしていただけますと幸甚です。
皆様の足跡が、次の物語を紡ぐ確かな支えになります。
よろしくお願い申し上げます




