第10話 傷を負っていたみどりの壊れた告白
みどりはシャワーを浴び終えてベッドに戻ってきた。
山城は枕に背中を預け、ぼんやりと天井を見つめていた。仕事の合間だとみどりとの時間がとれないので、思い切って、休日に友人の別荘を借りて、二人で自動車で来ていた。
みどりとは、最初はただの遊びのつもりだった。真理の傷がまだ疼いていたから、軽い女でいいと思っていた。なのに、気が付くと、この彼女に乗せられるようにお金と時間が過ぎていった。
みどりはタオルで髪を拭きながら、山城の隣に腰を下ろした。いつもなら「せいちゃん~」と明るく飛び込んでくるのに、今夜は珍しく口数が少ない。
「せいちゃん……今日はちょっと、真面目な話してもいい?」
いつもの淡白なセックスをした後だった。
「なんだい」
みどりは膝を抱えるようにして、目を伏せた。指先がシーツを小さく摘まんでいる。
「……私、実は男の人と本気でセックスするのが、苦手なんだ」
山城の胸の奥で、何かが重く沈んだ。
「大学三年の時……サークルの先輩に、乱暴された」
その瞬間、山城の頭の中で何かが凍りついた。
(乱暴……?)
慶應大学卒で、モデル級の容姿を持ち、六本木の夜を軽やかに泳いでいるはずの女が、そんな言葉を口にするとは思っていなかった。
同時に、胸の奥から熱い怒りと、得体の知れない哀しみが同時に湧き上がってきた。
自分より二十歳以上若いこの女が、大学時代にそんな目に遭っていたという事実が、山城の五十八年の人生の中で最も重いものの一つに感じられた。
「飲み会の後、断ったのに無理やりホテルに連れて行かれて……『お前が誘ったんだろ』って笑いながら、何度も……。相手はゼミで有名な奴だったから、誰にも言えなかった」
みどりの声は感情を殺したように平坦だった。
それは、長い間、心の奥底に封じ込めてきた言葉を、ようやく外に出した時の、慣れた無感情さだった。
「それ以来、男の人に触られると体が固くなる。上から覆いかぶさられるとだめなの。顔を近くで見られたり、逃げられない感じになると……昔のことが蘇って、息ができなくなる」
みどりは自嘲するように小さく笑ったが、その笑みはすぐに崩れた。
「せいちゃんの前でも、ちゃんと感じられてなかったと思う。ごめんね。せいちゃんはすごく優しかったのに、私はただ『早く終わればいい』って思ってた時もあった」
山城は無言で聞いていた。
(俺は……今まで何をしていたんだ)
これまで何度か、彼女の体を抱きながら「淡白だな」と内心で物足りなさを感じていた自分が、急に醜く思えた。
彼女は必死に演じていたのだ。痛みを、恐怖を、フラッシュバックを、全部飲み込んで、笑顔で跨がっていたのだ。
「交際クラブは、私は、どうしてもお金が欲しくて入ったの。こういう行為があることはわかっているけど、適当にあしらって、お金だけをうまく引き出そうとも思っていたよ」
みどりはゆっくりと顔を上げ、山城の目をまっすぐ見た。
そこにあったのは、これまで一度も見せたことのない、剥き出しの弱さと、かすかな希望だった。
「でも、せいちゃんは……なんか安心するんだよね。強引じゃないし、途中で『大丈夫?』って気遣ってくれるし……。だから、ちょっとだけ本当のことを話してみたくなった」
彼女は山城の胸に額をそっと押し当てた。
山城は、思わず彼女の背中に腕を回した。
みどりの体は一瞬、びくりと強張った——それは、トラウマの残滓だろう。
しかしすぐに、ゆっくりと力を抜いていく。
山城の胸の奥で、複雑で、熱く、重い感情が渦巻いていた。
(この子は……俺に、どこまで期待しているんだ?)
また同じ過ちを繰り返すのではないか。
金で傷を癒せると思ってしまうのではないか。
それでも、今この瞬間だけは、ただ一人の男として、彼女の震えを受け止めたかった。
みどりは、しばらく山城の胸に額を当てたまま、黙っていた。
部屋の外では、風が木々を揺らす音がかすかにしていた。別荘地の夜は都内のホテルと違って、静けさが深い。その静けさのせいで、みどりの吐く息の浅さや、時折こぼれる小さな鼻音まで、妙にはっきりと耳に入ってきた。
山城は何も言わず、ただ彼女の髪を撫でていた。
言葉を挟めば、何かを壊してしまうような気がした。慰めの言葉も、励ましの言葉も、今のみどりには薄っぺらく聞こえるのではないかと思った。
みどりがぽつりと呟いた。
「私ね……せいちゃんにだけは、ちょっと違う言い方したけど……本当は、もっと嫌な女なんだよ」
山城は黙ったまま、彼女の次の言葉を待った。
「昔はさ、男の人に可愛いって言われるの、普通に嬉しかったんだよ。大学の頃も、自分が可愛いのはわかってたし、それで得することもあるって思ってた。ご飯連れて行ってもらったり、欲しいもの買ってもらったり。そういうのって、別に悪いことだと思ってなかった」
みどりの声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、自分でも認めたくないものを無理に言葉にしているような痛みがあった。
「でも、あのあと変になっちゃったんだよね」
山城は、やはり何も言わなかった。
「セックスが嫌いになった、っていうより……男の人に身体を触られると、自分が急に"物"になる感じがするの。相手が優しくても、ちゃんとしてても、関係なく。あ、この人、私のこと、結局こういうふうに見てるんだって、どこかで思っちゃう」
みどりは、そこで一度唇を噛んだ。
「だから、逆に思うようになったの。だったら、こっちも取れるもの取らなきゃって。どうせ向こうも、可愛い女の子といたいだけなんだから、だったら私は、ちゃんとお金にしなきゃ損じゃんって」
その言葉には、自嘲と、開き直りと、ほんの少しの怒りが混じっていた。
「最初はね、生きるため、みたいな感じだった。お金が必要だし、昼の仕事だけじゃ足りないし、どうせ夜に入るなら、うまくやらなきゃって。でも、だんだん、それだけじゃなくなってきた」
みどりは、山城の胸元を指先でつまむようにしながら、続けた。
「男の人がお金使ってくれると、安心するの。すごく、変なんだけど……安心する。私のために何十万とか使ってるの見ると、"あ、今は私の方が上だ"って思える。自分が、ただ触られる側じゃなくて、相手を動かしてる側なんだって思える」
山城の手が、わずかに止まった。
みどりは、その変化に気づいたのか、少し苦く笑った。
「最低でしょ?」
「……」
「でもね、ほんとなんだよ。変なんだけどさ、使ってもらうと落ち着くの。あ、今は私がただ触られてるだけじゃないんだって。相手を少し動かせてるんだって。そう思うと、息ができる感じがする」
そして、少し間を空けて、みどりは続けた。
「それに、お金を使ってもらえると、"私は雑に扱われるだけの女じゃない"って思えるの。あの時は、私、何も選べなかったから。嫌だって言っても無視されて、怖いって思っても止まらなくて、終わったあとも向こうは何もなかったみたいな顔してて。私だけが、壊れたみたいになった」
その声は、途中から少しずつ震えていた。
「だから……男にお金を使わせると、少しだけ取り返せる気がするの。あの時に奪われたものを。もちろん、そんなの本当は取り返せてないんだけど。でも、その瞬間だけは、"私が選んでる""私が決めてる"って思える。そう思わないと、たぶん、やってられない」
山城は、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じていた。
みどりの話は、彼女を理解させると同時に、どうしようもなく遠ざけるものでもあった。
みどりはさらに、言葉を選ぶように、途切れ途切れに続けた。
「しかも、だんだん慣れてきちゃうんだよね。最初は、ご飯奢ってもらえたとか、バッグ買ってもらえたとか、それだけで十分だったのに、今はそれだけじゃ足りない時がある。ドレスとか、シャンパンとか、店での売上とか。金額が大きいほど、安心する。安心するんだけど……帰り道で、何してるんだろうって思う時もある」
「……」
「たぶん、依存なんだと思う。男の人に、というより……使わせることに。好きとか嫌いとかより先に、この人はいくら私のために動くのかなって見ちゃう。そういう自分が嫌なのに、会うとまた試しちゃう。この人はどこまで出すんだろうって」
そこまで言ってから、みどりは目を閉じた。
「ほんと、やだよね。自分でも、気持ち悪いって思う」
山城は気持ちとは逆の言葉を押し出すようにつぶやいた。
「……気持ち悪くなんかない」
みどりは首を横に振った。
「ううん。気持ち悪いよ。だって、普通の女の子みたいに好きになれないんだもん。好きかどうかより先に、この人はいくら使うんだろう、この人はどこまで甘やかしてくれるんだろうって考えちゃう。そういう自分、ほんと嫌」
自分を嫌う言葉を何度かみどりはつづけた。
「せいちゃんみたいに、優しくされると、余計わかんなくなるんだよ。これが優しさなのか、それとも私がうまく甘えてるだけなのか。たぶん両方なんだろうけど……そうやってるうちに、自分でもどこまで本当なのかわかんなくなってくる」
山城は、彼女の背中に回した手に少しだけ力を込めた。
みどりは、ぽつりと付け加えた。
「でもね、せいちゃんにお金使ってもらうと、嬉しいのは本当。助かるし、安心するし……変な言い方だけど、気持ちが静かになる。身体の方でうまく感じられない分、そっちで埋めてるのかもしれない」
そこで、彼女は小さく笑った。
その笑い方は、これまでのあっけらかんとした笑いではなく、自分の壊れた部分を見せながら、なお軽く振る舞おうとする笑い方だった。
「変だよね。普通は逆なのにね」
山城は、その言葉の重さに返事ができなかった。
彼は、みどりを抱きながら、同時に理解してしまっていた。
この女は、自分が思っていた以上に傷ついている。だが、その傷は、単に守ってやれば癒えるものではない。そして、その傷を抱えたまま彼女が身につけた生き方は、山城が求めているものと、決定的に違っている。
守ってやりたい、と思った。
放っておけない、とも思った。
だが、その気持ちと、一緒に生きていきたいという気持ちは、同じではなかった。
それを認めるのは、少し苦しかった。
みどりは、山城の胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「せいちゃん、引いた?」
山城はすぐには答えなかった。
しばらくしてから、低い声で言った。
「……引いてないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
みどりは少しだけ安心したように息を吐いた。
だが、山城の中には、別の種類の沈黙が生まれていた。
それは、みどりへの拒絶ではなかった。
むしろ逆だった。彼女の痛みを知ってしまったことで、簡単に手放せなくなった。だが同時に、このまま情でつながっていけば、どこかでお互いが壊れるだろうという予感も、はっきりと形を取り始めていた。
別荘の寝室には、雨の匂いを含んだ夜気が薄く流れ込んでいた。
山城は天井を見つめながら、自分の胸の中に生まれた重たい感情の名前を、まだつけることができなかった。
みどりは、しばらくして寝息を立て始めた。
だが山城は眠れなかった。
暗い天井を見つめながら、彼は何度も同じことを考えた。
この女は、かわいそうだ。
この女は、ずるい。
この女は、壊れている。
この女は、強い。
そして、自分は、こういう女に弱い。
そのどれもが本当のようで、どれもが少し違う気もした。
山城は、胸の上で小さく丸くなって眠るみどりの重みを感じながら、静かに目を閉じた。
守ってやりたいという気持ちと、これ以上深入りしてはいけないという警戒心が、夜の底で、ゆっくりと同じ速度で膨らんでいた。




