第八話 黒閃とマスター
詩花を見送って玄関に立ち尽くしていた優絃は、重い足取りでリビングに戻った。
ついさっきまで、彼女のいた空間。そこにまだ、彼女の気配が残っている気がして。
ゆっくりと歩み寄ったのは――。
手当てをするのに座らせた、あの椅子だった。
しばらく見つめてから、そっと腰を下ろす。
そこから見える景色は、見慣れたいつもの自室だった。
(……なんで、ここに座ってんだあたし)
静寂に包まれた部屋で、ふと思い出す。
初めて見た無防備な笑み。
触れた、ひんやり冷たい肌。
上品さの奥に見えた無邪気さ。
(……ほんと、変な奴)
なのに、と。
思考が勝手に、扉の向こうに消えていったあの背中を思い出させて――。
(……引き止めたかったな)
無意識に、そんなことを思って。
ハッと、息が詰まった。
(……って、そんなわけないじゃん)
ぶんぶん、と頭を振った。
そのときだった。
――ピリッ、ピリリッ。
思考を切り裂くように、甲高い電子音が鳴り響いた。それに合わせて、テーブルの上に置いていたスマホが、ブブッ、と震えている。
反射的に手を伸ばし、着信者を確認する。
画面に表示された名前は――。
「っ……マスター」
瞬間、心臓が一瞬だけ止まったような感覚がした。周囲の空気が、即座に引き締まる。
優絃の表情が、瞬時に張り詰めた。
震える指で、応答ボタンを押す。耳に当てると、『黒閃』とコードネームで呼ばれた。
その温度感のない低い声と、呼ばれた仕事用の名前ですべてを察した。
何も言えないでいる優絃に、マスターは構うことなく続ける。
『本宅へ来い』
あまりにも短い命令。
けれど、それももう慣れたもので。
「了解いたしました」
短く返すと、返事もなく電話を切られる。
用件だけを伝え、無駄な会話はしない。
これも、いつも通りのことだ。
ほんの数秒のやりとり。それなのに、どっと疲れが押し寄せた。
(……タイミング悪すぎ)
深くため息をついて、椅子から立ち上がる。
本宅に行くための正装に着替えて、ホルスターに銃をしまった。
外に出ると、空は茜色と紺色が滲み合い、夕方と夜の境界線が曖昧になっていた。
帰宅ラッシュの人並みの中を、無言で歩く。
その間も、脳裏には詩花の顔が浮かんでは消えて、その度に思考を無理やり切り替えた。
(……早く、行かないと)
最寄駅から電車に乗って、一駅分先へ。
ホームに降り立ち、さらに歩いた住宅街の奥。人気のほとんどない閑静な場所。
四方を高い塀に囲まれた大きな建物が、マスターの待つ本宅であり、代々殺し屋家業を営む"我が家"だ。
立派な門構えに足がすくむ。
わずかに呼吸が浅くなるのをなんとか堪えて、一歩踏み出した。
電子ロックにカードキーをかざして、敷地内へと歩を進める。
石畳の上をしばらく歩き続けた先。大きな玄関にも設置されている電子ロックにもう一度、カードキーをかざすとロックが外れた。
「……失礼いたします」
小さく呟いた挨拶が、玄関に響いた。
それくらい、本宅内は相変わらず静まり返っていた。
広すぎる空間に、無駄に整えられた空気。
気配を消しているはずの足音が、やけに廊下に響き渡る。
何度か曲がり角を曲がって、さらに歩いた先に見えてきたのは――鉄でできた重厚な扉。
扉の前に立ち、深呼吸を数回。震える手を伸ばして、コンコン、とノックを響かせる。
『……誰だ』
「っ……」
扉の向こうから、低い声がした。
それが誰なのかは、明白だ。
「……黒閃です」
『入れ』
短い返答に、優絃は唾を呑んだ。
扉に手を当てて、ゆっくりと開ける。
そこには、厳格な空気を纏った男――マスターの姿があった。ゆったりと椅子に腰掛け、捕食者のような強い眼力で、こちらを見ている。
身じろぎすらしないその姿には、殺し屋組織のトップとしての貫禄があった。
「失礼いたします」
マスターの前へと歩み寄り、頭を下げた。数秒後に姿勢を正すと、冷たい目がこちらを射抜くように見ていて、背筋がヒヤリとした。
「玖我山詩花の件の進捗は?」
(やっぱりか……)
予想していたこととはいえ、言葉に詰まる。
依頼が通達されてから半月が経過しているが、一向に遂行される気配がない。
そのことを不審に思うのも当たり前だ。
シン、と静寂が鳴る。
ほんのわずかな時間。
けれどそれは、優絃にとっては長すぎる沈黙だった。
(……やばい、どうしよう)
思考を無理やり回す。そうして出てきたのは、苦し紛れの言葉だった。
「父さっ……」
「……誰に向かって言っている」
冷たく吐き捨てられた言葉に、サッ、と血の気が引いた。背筋が凍っていく。
焦りから、「父さん」と呼びそうになった。
今はもう――"家族"じゃないのに。
「っ……申し訳ございません、マスター」
深く、頭を下げる。
この人はもう、育ての親じゃない。
自分を殺し屋として雇っている組織のボスであり、自分のマスターなのだ。
そう、自分に言い聞かせた。
「進捗を言え」
「はい。実は……」
ドキドキ、と心臓が痛いほどに鳴る。
浅くなる呼吸を必死に抑えながら、優絃は震える唇を開いた。
「他の殺し屋が複数、彼女を狙っているようで」
目線は、逸らさない。
落ち着き払って見せながら、言葉を続ける。
「迂闊に手が出せない状況です」
そこまで言うと、室内に沈黙が落ちた。
じっと、視線がぶつかり合うだけで、マスターはしばらく何も言わなかった。
こちらも、嘘は言っていない。
ただ、内心は別のことを考えているのも事実で――。
(……バレるなよ)
値踏みするような鋭い視線が、焦りを堪える優絃のことを突き刺して。
やがて――ふ、と笑った。
「なるほど」
その声音は、低くともどこか楽しげで。
さっきまでの底冷えするような凍える空気は、かき消えていた。
けれど、奥底に何かが沈んでいるような――
そんな不気味さがあった。
「さすがだ」
にやり、と口元を歪ませて、
「……やはり、高貴な血筋は違うな」
意味ありげに目を細めたマスターが、腕を組んで一度、大きく頷いた。
(……え、なんの話?)
優絃は、一瞬、その意味が理解できなかった。
マスターは、いったい何を言っているのか?
その言葉の裏側を知りたい。
けれど、それを口に出すことは、とうとうできなくて――。
「分かった。こちらでも手は打とう」
優絃の葛藤など少しも気付かず、マスターはさらりと、言葉を続けた。
「お前は引き続き、玖我山詩花を狙え。しばらく、他の依頼は回さないようにしておく」
指示ではなく――命令。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……了解いたしました」
頭を下げて、スッと、一歩下がる。
踵を返そうとした、そのとき――。
「任務だ、情は挟むな」
「っ……」
「……理解しているな?」
ぴたり、と動きが止まる。
ちらりと盗み見たマスターの顔は、何かを試すような、見抜くような圧があった。
(まさか……勘付かれた……?)
息が詰まりそうになる。
けれど、ぐっと歯を食いしばり、
「……はい、分かっています」
それを隠すように、また深く頭を下げた。
「それならいい。話は以上だ、下がれ」
「失礼いたします」
今度こそ踵を返す。
部屋を出て、扉を閉める直前――背中に、冷たい視線が刺さっている気がした。
背筋に氷の刃を突きつけられるような感覚。
それから逃げるように、急ぎ廊下に出る。
その瞬間、やっと呼吸ができた気がした。
廊下を歩く道すがら、深くため息をつく。
優絃の脳内では、さっき聞いたマスターの言葉が、ずっと引っかかっていた。
『……やはり、高貴な血筋は違うな』
あんなに楽しげにしているマスターの顔は、久しぶりに見た。
けれど、額面通りに受け取っていいものでもないことは、あの冷えた声音で分かる。
(……なんなんだよ)
ちっ、と舌打ちがこぼれる。
そのときふと、今日の昼間、路地裏で遭遇した一件が脳裏に浮かんだ。
複数の殺し屋に狙われていた詩花。
あの男たちが叫んでいたあの言葉――。
『おら、とにかく囲め!』
『逃がすな! 賞金首だぞ!』
(……高貴な血筋。賞金首)
そして、家族の有無を話していた時の――。
『……いませんよーー最初から』
あの、何かを諦めたような反応。
絶対に、何かがある。
さっき見たマスターの反応とも繋がる何かが、きっとあるはずだと。
少しずつ、ピースが埋まっていく感覚。
見えてきたようで、あと少しが見えてこない。
それでも、なぜか――。
(……嫌な予感がする)
それだけははっきりと分かる。
近々、何かが起きるかもしれない。
両親を亡くしたあの日から強く働く、この危機察知能力が反応している気がする。
(……いや、今はもう考えるな)
とりあえず、自宅に帰ろうと頭を振って、フル回転する思考を切り替えようとする。
玄関を抜けて、門を出る。本宅に背を向けたまま、振り返ることなく、自宅への道のりを静かに歩いていく。
星の消えた暗い夜空の下を、コツ、コツと足音を響かせて歩いた。
本宅から距離は離れたはずなのに、胸の奥が、じわりと冷えていく。
それでも、足を止めることなく歩き進めた優絃は、なんとか自宅までたどり着いた。
寝支度を整え、ベッドに入って目を瞑ってもなお、一晩中、胸の奥に芽生えた嫌な感覚が消えることはなかった――。




