第二十三話 あたしは、殺し屋じゃない
静かな路地裏の奥。
瓦礫と血の匂いが、まだ薄く残っているこの場所に、足音がゆっくりと近づいてくる。
逃げ場は――どこにもない。
「……何をしている、黒閃」
地を這うような低い声。
それだけで、背筋が伸びた。
「っ……マスター」
暗がりから現れた影。
それは――
独りになった自分を拾ってくれた人であり、
たった一人の育ての親であり、
殺し方も、この世界での"生き延び方"も、すべてを叩き込んだ男だった。
その目が、まっすぐに優絃を射抜く。
そして――わずかに視線が横へ流れた。
「それが……例の"賞金首"か」
値踏みするような目が、詩花を舐め回す。
その視線から庇うように、優絃は、一歩だけ前に出る。
「……どけ、黒閃」
憎しみすらこもっていそうな鋭い目に、ほんの一瞬だけ、怯みそうになる。
それでも――
「……どけません」
震える足を誤魔化して、首を横に振った。
銃を握る手に、汗が滲む。
「ほう。本気か」
マスターが、嘲笑うように鼻を鳴らす。
ザッ、と一歩分、距離が縮められた。
「お前……人を殺したことがないだろう」
「っ……なぜ、それを」
「何人を束ねていると思っている」
膝が折れそうになるのを、なんとか堪えた。
虚勢でも、立ち続けなければ。
そんな思いで、マスターを見据えるが――。
「目を見れば分かる。人を殺したことがあるかどうかくらいはな」
心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
背筋を、冷たい何かが伝っていく。
(あたしは最初から、マスターの手のひらの上で、踊らされていた……?)
悔しくて、唇を噛み締める。
優絃の反応など気にも留めず、マスターは小さく肩をすくめた。
「そんなお前に、その女が守れると?」
銃口が、わずかに持ち上がる。
「……私がこれから、その首を取るというのに」
「っ……」
引き金にかかった優絃の指先が、ぴくりと動いた。
「殺せるか? お前に」
マスターの指先が、引き金にかかった。
「――この私を」
その問いは、ただの確認だった。
淡々とした声が、耳の奥に突き刺さる。
呼吸が乱れ、銃を持つ手がわずかに震える。
(……撃てるわけ――)
マスターを狙いかけた優絃の銃口が、地面へと落ちかけた――そのとき。
マスターの腕が、ゆっくりと動いた。
鷹の目のような鋭い視線が、優絃から外れ――。
(っ……まずい!)
「伏せてッ‼︎」
「っ……⁉︎」
詩花が、瞬時に身を沈める。
――パンッ! パンッ!
乾いた音が二発、周囲に鳴り響く。
身を屈めた詩花の、頭上わずか数センチの位置に、壁に弾痕が走った。
小さく砕けたコンクリート片が、彼女の頭にパラパラと落ちる。
「……ちっ」
マスターが、忌々しげに舌打ちをした。
「まだ動けるか……厄介な女だな」
再び、銃口が上がる。
今度は確実に――殺しにくる。
(……撃たなきゃ)
分かっている。
(撃たなきゃ、こいつが死ぬ)
そんなことは、分かっている。
(でも――)
引き金が、引けない。
銃身が、震える。
息が、詰まる。
そもそも、非殺傷弾の込められたこの銃では――。
『殺せるか? お前に――この私を』
(……くそ)
手の震えが、肩まで伝播する。
心が、わずかに折れかけた――その瞬間。
脳裏に、さまざまな光景が浮かんできた。
燃え盛る炎。
歪んだ鉄。
粘ついた血の匂い。
――優しさに、助けられた。
次に浮かぶのは、見たことのない光景。
けれど、鮮明に浮かんでくる。
震える小さな手。
血に濡れた刃。
消え入りそうな声。
『わたしは、守ったのに』
『わたしのことは、守ってくれなかった』
――優しさが、裏切りに変わった。
詩花の声が、凄惨な光景に重なる。
(……あぁ、そっか)
優絃の中で、何かが噛み合っていく。
(……似てるんだ、あたしたちは)
違う場所で、同じように。
強がって、
ひた隠して、
逃げてきた。
優しさに振り回されて、
誰かに向けられる感情に怯えて、
それでも、一人で耐え忍んできた。
最初は、彼女への嫌悪しかなかった。
ヤバいやつだと疑った。
関わりたくないと思っていた。
でも――少しずつ、知っていった。
知っていくことで、その奥にある想いに気付くことができた。
だからこそ――。
(あたしたちは今度こそ、"優しさ"で繋がれる)
ゆっくりと、息を吐き出す。
それに呼応するように、震えが止まった。
視界が、研ぎ澄まされる感覚。
優絃の纏う空気が変わったことに気付いたマスターが、わずかに目を細めた。
「……来るか」
「……」
優絃が、銃をホルスターにしまう。
何もない手を、胸元へと差し入れて――
リボルバーを、その手に握りしめた。
まっすぐに、迷いなく。
その銃口を、敵へと向ける。
同時に、マスターも構え直した。
空気が、一瞬にして張り詰める。
(あたしは……もう――迷わない)
「詩花、伏せて!」
言葉と同時に、踏み込む。
リボルバーの引き金に指をかけた。
その瞬間、
パァン! と乾いた音が響き、優絃の頬を弾丸が掠めた。
鋭い熱と衝撃が、皮膚を走る。
けれど、優絃の足は止まらない。
(……撃つ!)
――ドォン!
放たれた弾丸が、まっすぐに走る。
カウンターで放った重い一発が、マスターの肩口を撃ち抜く。
散華のような血飛沫が、宙を舞う。
それでも、その体は倒れない。
「……ふっ、甘いな」
愉しげに、笑う。
口元から血を流しながら――
「殺し屋とは、こういうものだ」
なおも、銃口を持ち上げる。
狙いは――背後にいる詩花だ。
「っ……させるかッ」
優絃は、もう一度引き金に指をかける。
迷いは――あるはずがない。
(守るって、約束したんだ)
視界が、研ぎ澄まされていく。
世界のすべてが、スローモーションに見える。
マスターの視線。
引き金にかかった指の動き。
今にも放たれそうな銃口。
「……詩花は、やらせない」
すべてが止まったような世界で、
静かな声が、風に乗る。
引き金を引き絞り――
「――もう、二度と」
撃った。
――ドォン。
その音は、やけに静かだった。
迷いなく放たれた弾丸が、一直線に走る。
弾道という名の軌跡を描いて、マスターの左胸を的確に撃ち抜いた。
「っ……ぐぁッ……」
ビクン、と大きく痙攣したマスターの体が、ゆっくりと後ろへ倒れていく。
それでも――彼は笑っていた。
「やっと、殺し屋になったか」
仰向けに倒れ込んだマスターの、血の滲む口元が、ぐにゃりと歪む。
「私を殺すことで、な」
優絃の喉が、ひゅっと音を鳴らす。
けれど、引くことはしない。
「ちがう」
迷いなく、首を横に振った。
「あたしは、殺し屋じゃない」
詩花を守るように、背中に庇いながら。
倒れ伏したマスターを睨みつける。
「――護り屋だ」
誰かを殺すために、生きるのではなく。
たった一人を守るために、生き続ける。
殺し屋としてじゃなく――護り屋として。
「あたしは護るために、銃を握ることを選んだんです」
「……生ぬるいことを吐かす」
マスターの視線が、ゆっくりと動く。
ギョロリとした目が、詩花へと向けられた。
「……その女に関わり続ける限り」
ごふ、と血を吐く。
「お前は――」
血混じりの粘ついた声が、耳の奥に絡みつくように届く。
「懸賞金を狙う連中から、ずっと狙われ続ける」
そして最期に、にやり、と嗤って――。
「その甘ったれた覚悟で、どこまでやれるのか……地獄から見ているぞ」
そのまま、力が抜けた。
口元から流れ出る血が、地面に滴り落ちる。
そっと歩み寄って、足先で突く。
けれど、ぴくりとも動かない。
音のない風が、優絃の頬を撫でていった。
「……」
風に煽られるように、優絃の手からリボルバーが滑り落ちた。決して風は強くない。
そんな静かな風に乗って、自分の乱れた呼吸音だけが、やけに大きく響く。
(……撃った)
遅れて、理解が追いつく。
視線が足元の赤に落ちる。
(あたしが……撃ったんだ)
指先から、熱が引いていく。
膝が震えて、カクリと折れそうになる。
それでも――踏ん張る。
事切れたマスターから視線を外して、ゆっくりと背後を振り返る。
すぐそこに、揺れる青い瞳が見えた。
「っ……」
目があった瞬間、息を呑んだ。
彼女もまた、濡れた瞳でこちらを見ている。
手を伸ばしかけて――やめる。
迷いが、胸の奥を支配してくる。
近づいてもいいのか。
触れていいのか。
正解は、分からない。
それでも優絃は、ゆっくりと手を伸ばして。
震える彼女の体を――そっと抱き寄せた。
居場所を作るように。
離さないと伝えるように。
そんな優絃の想いを受け取ってくれたのか。
腕の中に包まれた詩花は、逃げなかった。
逃げることなく、身を委ねてくれた。
「……あたしが、あんたを守る」
耳元で、改めて決意を込める。
「……ほん、とに?」
それに応えるように、掠れた声が届いた。
言葉の端々が、わずかに震えている。
「わたしは……ほんとに、守られても……」
縋るように、服の裾が握られて。
優絃の肩口が、温かいもので濡れていく。
「……いいんですか……?」
優絃は、ゆっくりと息を吐いた。
答える代わりに――
ただ、ぎゅっと。
強く抱きしめることで、応えた。
互いの震えは、まだ消えない。
それでも、まっすぐに前だけを向いている。
決意も、想いも、これから進むべき道も。
すべては、自分の手で。
――自分の意志で、選んだのだから。




