第十一話 価値観の相違
暖簾をくぐると、むわりとした熱気と、アルコールの匂いが肌にまとわりついた。
グラスのぶつかる音。
誰かの笑い声。
注文を通す店員の声。
通い慣れたあのカフェとはまるで違う空気に、ほんのわずかだけ足が止まる。
「……賑やかですね」
背後で、少しだけ圧倒されたように詩花がぽつりと呟いた。
「まぁ、居酒屋だしね」
「……そういうものなんですね」
物珍しそうに店内を見回すその横顔に、優絃は眉を顰める。
「ほんとに慣れてないんだね」
「……こういうお店に行く機会、ほとんどなかったもので」
「……そか」
どこか寂しげに呟かれた言葉に、曖昧に返すことしかできなかった。
入り口で立ち尽くしていると、入店に気付いた店員から案内され、奥の個室へと通される。
向かい合うように掘りごたつへ腰を下ろすと、外の喧騒が少し遠くなった気がした。
タッチパネルのメニューを手に取り、慣れた手つきで画面をスクロールする。
「とりあえず飲むでしょ」
「……何をです?」
「いや、居酒屋だから酒……って、初めてか」
どうするか、と迷っていると。
「……おすすめはありますか?」
恐る恐るというふうに訊ねてきた声に、優絃はちらりと詩花を見た。
何も分かっていなさそうな顔。
(……絶対飲み慣れてないな、これ)
瞬時に察した優絃は、軽く問いかけた。
「……辛いとか苦いとかいける?」
「辛い? 苦い? ってなんですか?」
「酒によって違うんだよ」
「そうなんですね。えっと、甘いよりは……」
「おけ」
パネルをタップして、とりあえずビールを二つ注文した。
ほどなくして運ばれてきたキンキンに冷えたジョッキが、テーブルの上に置かれる。
それを軽く持ち上げて、優絃は言った。
「……まぁ、適当に」
「……あ、はい」
優絃の動きに合わせて、詩花が見よう見まねでグラスを持ち上げた。
コツン、と軽くグラスが触れる。
優絃はそのまま一気に喉へ流し込む。
対して詩花は、少しだけ匂いを確かめてから、恐る恐る口をつけた。
「っ……苦いですね」
「そりゃ、ビールだし」
彼女の眉根が、きゅ、と寄っている。
ちびちびと飲む様子を見ているうちに、ふと、頭の片隅で考えが浮かんだ。
(……もしかしたら。酒が入れば、少しは崩れるかも)
何を訊いても、肝心なところはいつもはぐらかしてくるこの女に、一泡吹かせたい。
何かひとつでも、掴めることがあるならば。
そう思って、タッチパネルに手を伸ばした。
「ビールだけじゃなんだし、つまみも頼むわ。とりあえず飲もう」
タッチパネルの一覧から、枝豆や焼き鳥を適当に選んで注文する。
それからしばらく、他愛もない会話を交わしながら、ゆるく時間が流れていった。
注文したつまみも届き、ジョッキが空くたびに、また酒を注文し直して。
それを繰り返しながら、正面に座る詩花の様子を何度か盗み見る。
けれど――変わらない。
頬がほんの少し赤い。
ただ、それだけ。
仕草も、口調も、ほとんど普段と同じだ。
(……いや、崩れないんかい)
内心で突っ込む。
(アルコールにも強いとか聞いてないわ……)
ヤケになって、ジョッキを煽った。
そのときだった。
「……少し、分かりません」
ぽつりと、詩花が言った。
その声に導かれるように、視線を向ける。
「なにが」
「どうして、あなたといると……こうなるのか」
その言葉に、思わず手が止まる。
ゴトリ、と。
ジョッキがテーブルに当たる音が響いた。
「こう、って……何さ」
「……」
詩花は答えない。
ほんのわずかに、とろんとした目。
でも、それ以上の変化はない。
(……さすがに、酔ってる?)
じっと、様子を伺う。
けれど判断はつかなくて。
優絃は、スッと息を吸った。
「……ねぇ」
「はい?」
「……これまで何人、殺ったの」
「っ……」
ぴしり、と。
周囲の空気が、わずかに張り詰めた。
詩花が息を詰めて、じっと見つめてくる。
「……特に、なんとも。何人を手にかけたかも、もう覚えていません」
「まじかよ……」
頬が、わずかにヒクついた。
「……あんたさ、なんとも思わないの?」
「殺しのたびに、いちいち刃を鈍らせていたら」
それは、淡々としたかすかな声で――。
「……今頃、わたしはここにいなかったかもしれませんね」
背筋が、ぞくり、とした。
あまりにも、温度が感じられない。
それどころか、感情すら抜け落ちている。
届いたばかりの甘酸っぱいカクテルが、急にぬるく感じた。
「……どんな生活送ってたん。てか普通に生きてりゃ、そんなことは……」
ないはずだ、と。
言いかけて、一瞬、言葉を切る。
(……これ以上、踏み込むな。やめろ、あたし)
頭の奥で、制止の声がした。
それでも――
「……ないよ。普通に生きてりゃ、さ」
口は勝手に、言葉を続けてしまう。
すると目の前で、ふっと息を吐く音がした。
咄嗟に顔を上げた先。
「……普通に生きてきた、つもりだったんですけどね」
詩花の視線が、ゆっくりとグラスへ落ちた。
その縁を、人差し指でなぞりながら、
「……そう思っていたのは、わたしだけだったみたいです」
薄く微笑みながら、静かにそう言った。
その言葉の奥に、何かがある気がして――
胸の奥で、引っかかりを覚える。
けれど、それを明確な言葉にはできない。
シンとした沈黙が落ちてくる。
周囲の笑い声が、やけに遠く感じられる。
この個室だけが、世界から切り離されたみたいな無音空間だった。
普通なら、この異様さに怖気づいて、今の話を無かったことにするだろう。
けれど――。
(……ここで引いたら、もう、あいつのこと分からないままになる)
そう感じた優絃は、さらに踏み込むことを選んだ。
「……あんたさ」
ジョッキを握りしめながら、声を絞り出す。
「ほんとは、何者なの」
枝豆に伸ばしかけていた詩花の指が、ぴたりと止まった。
視線が、ゆっくりと持ち上がる。
長い、長い沈黙の末――。
「……何者か、ね」
ふっと、小さく笑った。
「今はもう……わたしにも、分かりません」
「……どういう意味」
「言葉通りですよ」
にこり、と詩花が目を細めた。
さっきまでの冷えた空気が嘘みたいに、彼女はグラスを持ち上げて、グイッと煽った。
その様子を、優絃はただ黙って見ていた。
――ごとん。
グラスが、控えめな音を立ててテーブルに置かれる。
ほんのり赤くなった頬のまま、詩花がこちらを見た。少し湿った薄い唇が、ゆっくりと開かれて――。
「……あなたこそ」
「ん?」
「何者、なんですか?」
視線が、まっすぐに突き刺さる。
「人を殺せない殺し屋、なんて」
ほんのわずかに、首を傾げて、
「……それで、どうやって生きてきたんですか?」
「っ……そこ、突いてくんの」
思わず、苦笑が漏れる。
ジョッキを握りしめる手が、わずかに震える。
「あなたばかり質問してきて、ずるいですよね」
それを気にも留めない様子で、詩花は続けた。
「今度は、わたしの番です」
ゆるりと、口角が持ち上がっていく。
その表情に、嫌な予感が全身を駆け巡った。
(なに、この展開……)
背中を、生ぬるい汗が伝う。
何を訊かれるのか。
分からないはずなのに、なぜか、逃げ出したいとは思えなくて。
――むしろ、知りたいと思ってしまった。




