第十話 ふたり、連れ立って
ぼんやりと窓の外を眺めたり、スマホをいじったりして過ごして、気付けば店内のざわめきはずいぶんと落ち着いていた。
テーブルの上に残っているのは、溶けかけた氷の入った飲みかけのグラスだけ。
何度目か分からない視線を時計に向けて、優絃は小さく息を吐いた。
(……帰っちゃえばよかったのに)
頬杖をついたまま、ぼんやりと窓の外を見る。 暗くなりかけた街を照らす街灯の明かりが、ガラス越しに滲んでいた。
(……なんで律儀に待ってんの、あたし)
自分でも分からないまま、ストローを弄ぶ。
帰ろうと思えばいつでも帰れるのに、なかなか腰が上がらない。
何度目か分からないため息をついた。
そのときだった。
「――お待たせしました」
静かな店内に、よく通る声が落ちた。
その瞬間、ぴくり、と肩が揺れた。
ゆっくり顔を上げると、そこに立っていたのは――白いワンピース姿の詩花だった。
その姿に初対面の夜を思い出して、思わず、心臓が止まりかけた。
姿を現した彼女は、わずかに息が上がっている。急いできたのかもしれない、なんて考えてしまった自分に、内心で舌打ちする。
「……遅い」
代わりに、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
詩花は一瞬だけ目を瞬かせてから、くすりと小さく笑った。
「ほんとに、待っていたんですね?」
「は? 別に、ただ暇だっただけだし」
誤魔化すように即答する。
けれど、その言葉が嘘だと分かっているように、詩花の視線はやけに穏やかだった。
「ふふ、そうですか」
かすかに目を細めて、口元に手を当てた。
それ以上は何も言うことなく、ただ、静かに笑みを浮かべるだけ。
その距離感が、妙に落ち着かなくて――。
「……さっさと行くよ」
椅子から立ち上がって、レジへと向かう。
会計を済ませて、扉に手をかけた。
カラン、と鈴が鳴る。
外へと出た瞬間、少しひんやりとした夜の空気が肌に触れた。
賑わっていた昼間とは違う、肌を撫でるような静かで冷たい温度。
ネオンの光が照らす中を、二人で並んで歩き出す。
「……」
しばらく、会話はなかった。
夜の澄んだ空気の中に、お互いの靴音だけが規則的に響く。
隣にいる彼女の気配を、やけに近く感じる。
「……それで」
ふいに、詩花が口を開いた。
「これから、どこへ?」
「……特に決めてないけど」
前を向いたまま、適当に返す。
すると、小さく息をつく気配がした。
「無計画なんですね」
「うっさいな」
「あなたから誘ってきたのに」
「そっちこそ、のってきたくせに」
即座に返すと、詩花がくすりと笑う。
そのやり取りは、いつも通りのはずなのに――どこか、少しだけ柔らかさがある。
陽だまりのようなぬくもりに、優絃は思わず眉を顰めた。
(……なんなんだよ、この変な空気)
こんな予定じゃなかったのに、と。
内心で悪態をつきながら、視線を逸らす。
歩き進めていくと、人通りが増えてきた。
スーツを着た仕事帰りの人々が行き交い、街の灯りが一層明るくなる。
居酒屋やスナックが立ち並ぶ通りで、アルコールのツンとした匂いが鼻につく。
人混みの中を歩いていた、そのとき。
ぐらり、と。
誰かの肩が、詩花にぶつかりそうになった。
「っ……」
彼女の細い体が、ふらつく。
それを見た瞬間、反射的に手が伸びた。
ぐい、とこちらに引き寄せるようにして、詩花の腕を強く掴んだ。
彼女の体が、もたれかかってきた。
その瞬間、時間が止まったみたいに、周囲の音が静かになった気がした。
そんな感覚も束の間、触れた彼女の肌は、やっぱりひどく冷たくて――。
(……やっぱ、冷た……)
視線を落とすと、自分の手が彼女の腕を掴んでいるのが見えた。
(……って、何してんのあたし)
パッと、すぐに離した。
少しだけ歩調を上げる。
「……前、見て歩きなよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てると。
「……ありがとうございます」
小さく返ってきた声は、どこか静かで。
ちらりと横を見ると、詩花もこちらを見ていた。視線はすぐに逸らされたけれど、その一瞬が妙に引っかかる。
(……なんで、そんな顔すんの)
理由は分からないまま、視線を前に戻した。
隣に目は向けない。けれど、無意識に彼女の歩調に合わせてしまっている自分に気付いて、内心でため息をつく。
しばらく歩いて――ふと、足が止まる。
目の前に見えたのは、赤提灯の灯る、こぢんまりとした居酒屋だった。
にぎやかな笑い声が、外まで漏れている。
「……ここでいい」
とりあえず、空気を変えたい。
そんな思いをひた隠すように、短く言う。
詩花は店を見上げて、わずかに首を傾げた。
「……こういう場所、初めてかもしれません」
「は?」
思わず振り返る。
「マジで言ってんの」
「えぇ」
あっさりと頷かれて、言葉に詰まる。
開いた口が塞がらなかった。
(……ほんと、何者なんだこいつ)
――普通じゃない。
分かっていたはずなのに、こうして改めて突きつけられると、やっぱり違和感がある。
ほんの一瞬の沈黙のなか、目が合う。
逃げるようにすぐ逸らして、扉に手をかけた。
「……まぁ、入るよ」
「はい」
たった一言の、短いやり取り。
それだけなのに。
なぜか、ほんの少しだけ。
この先に続く時間が――
嫌じゃないと思ってしまった。




