第50話 完璧な令嬢と詰んだ偽装
脳内に浮かび上がった真っ赤な警告ログが、俺、ユキの思考を凍りつかせた。
《神をも欺く偽装:レベル1890》が、史上初めて俺の意志を拒絶したのだ。
(――警告。対象は「アルトリア生存者ネットワーク:協力者」として登録されています……)
原因は明確だった。
俺、ユキの正体は、俺自身が「家族」と定めたセバス、ミミ、そして旧アルトリア王国の亡命者たちの認識と密接にリンクしている。
もし今、目の前で微笑むセレスティーナの記憶を強引に書き換えれば、彼女だけではなく、すでに情報を共有しているセバスたちの記憶回路にも致命的な矛盾が生じ、最悪の場合、彼らの精神が崩壊する恐れがある。
俺は、上げた右手を力なく下ろした。魔法で解決する道は、自ら選んだ「家族を守る」という優先順位によって、完全に断たれた。
「あら、魔法の行使をおやめになるの? 賢明な判断ですわ、ルキーユ様」
セレスティーナ・クレセントは、勝ち誇ったように蜂蜜色の瞳を細めた。
彼女は優雅にドレスの裾を揺らしながら、俺の三歩手前まで歩み寄る。
その気品あふれる所作の一つ一つが、アリアさんたちの直情的な動きとは一線を画していた。
こうなっては隠し立てしない方がいいだろう。
俺は自分の正体、そして発見した地下遺跡からこの場に転移した経緯を話した。
***
「……いつから、気づいていたんですか」
俺の声は、レベル1のポーターではなく、かつての王子としての低く落ち着いた響きに戻っていた。
「夜会の舞踏を見た瞬間、確信いたしましたわ。あのような高貴なステップを踏める人間が、ただのポーターなはずがありませんもの。……そこからは簡単でした。我がクレセント領の物流を精査し、不自然な食料の買い出しを行っている『隠れ家』を特定いたしました。……そして、そこにおられた初老の紳士を少しばかりお話ししただけですわ」
(……あんなに警戒していたのに、よりによって辺境伯令嬢に捕まったか……!)
俺は内心で頭を抱えた。
だが、セバスの忠誠心は絶対だ。
彼が口を割ったということは、セレスティーナが「アルトリア王国」の密接な協力者としての信頼をすでに得ていたことを意味する。
「セバス様は仰いました。……王子は平穏を望んでおられるが、その力はあまりにも巨大すぎると。……わたくしも同意見です。……ジャガーの動きを裏で封じているのは、あなた様でしょう?」
彼女の知略は、俺の想像を遥かに超えていた。
アリアたちが「幸運」という物語で納得している裏で、彼女は冷徹に事実のパズルを組み上げていたのだ。
「正体を隠し通したいあなたの事情は理解しております。……アリア様たち『白銀の乙女』の皆様にも、今のところは黙っておいて差し上げますわ」
「……条件は?」
俺が問いかけると、セレスティーナは不敵な笑みを深めた。彼女はさらに一歩距離を詰め、俺のポーター服の襟元を白魚のような指先でなぞる。石鹸の香りに混じり、知的な支配力を伴う彼女特有の熱い体温が伝わってきた。
「一つ。わたくしを『秘密基地』へ連れて行ってくださいませ。あなた様がそこで何を作ろうとしているのか、この目で確かめたいのです。……そして二つ目」
彼女の指先が、俺の頬に触れた。
「――わたくしを、あなた様の『公認の婚約者』として扱ってください。もちろん、正体をお隠しになるための『盾』としてですわ。……ユキ様?」
心臓が不自然なリズムを刻んだ。
Sランクのお姉さんたちによる直情的な愛の包囲網に加え、今度はこの有能すぎる令嬢による「社会的拘束」という名の檻が完成したのだ。
「わたくし、ポンコツな彼女たちとは違って、生活能力も社交術も完璧ですわよ? あなた様の正体を知る『共犯者』として、これほど相応しい相手はいなくて?」
俺は、彼女の蜂蜜色の瞳を至近距離で見つめ返し、深い諦観と共に溜息をついた。
もはや、この完璧な令嬢の手のひらからは逃げられない。
「……分かりました。セレスティーナ様。……あなたの言う通り、詰みですね」
「ふふ、いいお返事ですわ。……では、参りましょうか。わたくしたちの『秘密の散歩』へ」
俺は彼女の手を取り、再び転移魔法陣の上へと立った。
亡国の王子の贅沢で不自由な日常は、知略の令嬢という名の強力な「重石」を得て、さらに予測不能なカオスへと突き進もうとしていた。




