第45話 ジャガーの焦燥と望まぬ旗印
「……役立たずが」
クレセントの裏路地。
その石畳は昼なお湿り、薄汚れた壁面には苔が張り付き、行き場を失った臭気が澱のように溜まっている。
そこに潜む、リゼルド帝国諜報部隊『影』のアジト。
指揮官ジャガーは、報告書を握り潰した。
分厚い羊皮紙が、乾いた音を立てて裂ける。裂け目から舞い落ちる繊維が、燭台の炎に照らされて白く揺れた。
銀髪の短髪。その奥にある金色の瞳は、猛禽のように鋭いはずだった。だが今は違う。怒りよりも深い、焦燥が濁りとなって沈んでいる。
彼が雇ったC級のゴロツキたちは、戻ってこなかった。
正確には、衛兵に捕縛された彼らの供述記録だけが届けられた。
内容は、あまりにも無様。
ターゲットに接触寸前、足元の泥に滑って転倒。
仲間が巻き込まれ、互いに罵倒。
殴り合いに発展し、全員が頭部を強打。
通報され全員拘束。
計画失敗。
沈黙が落ちる。
「……ありえん」
低い声が、石壁に吸い込まれた。
「偶然が、三度も続くはずがない」
A級ダンジョンでの落石。
飛行中のドラゴンの墜落。
そして今回の内紛自滅。
すべて、Sランクパーティ『白銀の乙女』にレベル1のポーターが加入してから発生している。
鑑定結果は変わらない。
【レベル1】
【職業:ポーター】
それ以外、何もない。
本来なら偽装を疑う。レベルや職業を隠蔽する術など、彼は幾度も見てきた。
だが、ジャガーの思考は別の結論に固定されていた。
「……異常な幸運値による事象」
それが真実であると、彼の理性は疑わない。
あのポーターは戦力ではない。
だが、死を逸らす。致命打を無効化する。不確定要素の塊。
計算を狂わせる存在。
諜報と暗殺において、最も忌むべき異物。
静かに息を吐く。焦燥を押し込み、理性を研ぎ澄ませる。
「小手先の仕掛けは通じない……ならば、確率ごと踏み潰せばいい」
幸運が介在する余地すら残さぬ、圧倒的質量と火力で。
ジャガーはアジトを放棄し、町を出る。
帝国の切り札を動かすことにした。
**
高さ十メートルを超える石と未知金属の巨人。
古代ゴーレム。
無骨な四肢。岩盤を削り出したような胴体。胸部には空洞の魔導炉が埋め込まれ、まだ灯らぬそれは、まるで心臓を待つ亡骸のようだった。
「……目覚めよ、古代ゴーレム」
起動魔石が嵌め込まれる。
次の瞬間。
ゴォォォォン――。
地鳴りのような重低音が、森全体を震わせた。
木の葉が落ち、空気が震える。
赤い単眼が灯る。
ゆっくりと、しかし確実に動き出す巨体。
圧倒的質量。純粋な破壊の象徴。
「幸運など関係ない。街ごと消し飛ばせば終わりだ」
ジャガーの口元が、静かに歪んだ。
***
ジャガーが街を出た、その頃。
俺はクレセント郊外の隠れ家で、侍従セバスと対面していた。
買い出しのついで、という体裁だ。
パンと干し肉の包みが机に置かれている。
だが、空気が違う。
鳥の鳴き声が遠くで途切れ、部屋の中だけが妙に静まり返っている。
セバスの灰色の瞳は、これまでになく硬い。
「王子。……ご報告がございます」
その呼び名に、胸の奥がわずかに軋む。
「ジャガーが動いたか?」
「それもございます。しかし――」
一瞬の間。
わずかな沈黙が、やけに長く感じられた。
「我が旧アルトリア王国の生存者ネットワークが、最終段階に入りました」
「……は?」
思考が止まる。
「何の話だ」
「反乱準備が整いました。兵は約五千。旧王国貴族三割が賛同。軍部残党も合流しております」
部屋が、音を失う。
俺は瞬きを忘れた。
「……今、なんて言った?」
「王子を旗印とした、祖国奪還の蜂起でございます」
「待て」
声が裏返る。
「それは、いったん棚上げしたはずだが?」
セバスは微動だにしない。
背筋を伸ばし、執事としての完璧な姿勢のまま、淡々と続ける。
「多くの者が動いておりますので、独自に進んでしまったのです」
「独自にって……!」
頭が痛い。
俺は何度も伝えたはずだ。
ルキーユ・ルド・アルトリアとしてではなく、ただのレベル1ポーターとして。
平穏に生きたい。
目立たず暮らしたいと……。
だが。
俺の意思とは無関係に。
五千の兵が、数百の貴族が。
“号令”を待っている。
「……冗談だろ」
「事実でございます」
さらに、セバスは視線をわずかに伏せた。
「リゼルド帝国もその動きを察知した可能性が高いかと」
「――」
頭の中で言葉が渦を巻く。
逃げ場を探す思考が、どこにも出口を見つけられない。
どちらが動いても、街は戦場になる。
どちらが成功しても、俺の平穏は終わる。
帝国は俺を抹殺対象にする。
味方は俺を王に担ぎ上げる。
逃げ場がない。
「……なるほどな」
乾いた笑いが漏れた。
「帝国にも、味方にも、俺の都合なんて関係ないってわけか」
セバスは静かに頭を下げる。
「王子。ご決断を」
決断?
冗談じゃない。
俺はただ、ポーターとして静かに暮らしたいだけだ。
だが現実は帝国の古代兵器に五千の反乱軍。
二重の包囲網。
内と外から、同時に締め上げられている。
(……これは)
背筋を冷たい汗が流れる。
どちらか一方ではない。
両方だ。
俺の平穏は国家規模で、壊されようとしている。
沈黙の中、俺はゆっくりと息を吐いた。
「……やれやれ」
軽口は出る。
だが笑えない。
リゼルド帝国の最終兵器と。
旧アルトリア王国の反乱軍。
望まぬ王子の旗印。
俺のスローライフは。
ついに、国家の運命に挟み撃ちにされた。




