第35話 恋する剣聖と空回りの決意
Sランクパーティ『白銀の乙女』のハウスは、最近、奇妙な熱気に包まれていた。
聖女フィーナは、裁縫での自爆をきっかけに「お姉さんムーブ」という名の過剰な物理接触を繰り返し、大賢者ルナは恋心が暴走した挙句の爆発を経て、俺への感情を「論理的受諾(恋)」という名のバグとして処理し始めていた。
だが、俺、ユキが今、目の前で最も注視し、かつ警戒しているのは、その二人ではない。
リビングのソファで、腕を組み、仁王立ちで俺を睨みつけているリーダー、アリアだった。彼女の燃えるような赤髪は、戦闘時でもないのに静電気を帯びたように逆立ち、ルビーのような瞳には、どす黒い嫉妬と焦燥の炎が宿っていた。
「ユキ、掃除が終わったならこっちへ来い」
アリアの声は、かつてないほど低く重い。
俺は「はい、何でしょうか」と、ポーターとしての控えめな態度を崩さずに歩み寄った。
「……お前、最近、疲れていないか? 疲れているな。間違いない」
「いえ、特にそんなことはありませんが……」
「嘘をつけ! フィーナはボタン付けと称して、お前の時間を奪った! ルナは爆発を起こして、お前に余計な掃除をさせた! リーダーとして、これは看過できん事態だ!」
アリアはドン、と自分の豊かな胸元(ラッキーなことに今は私服の薄いシャツだ)を叩いて宣言した。
「ポーターであるお前に、家事の負担が集中しすぎている。これはパーティ運営の健全性を欠く。よって今日から、この私、『剣聖』アリアも、積極的に家事を手伝うことにした!」
その瞬間、俺の脳内にある「平穏管理システム」が、最大級の緊急警報を鳴らした。
このハウスに来た初日の光景を思い出す。
アリアが「朝食を作る」と意気込んだ結果、厨房は半壊し、高価な魔導コンロは物理的に粉砕されていたのだ。
「アリアさん、お気持ちは嬉しいですが、俺の仕事ですから。皆さんは戦うのが仕事で……」
「ダメだ! 私も仲間だ。仲間の負担を分かち合うのがリーダーの務めだろう! さあ、まずは何からだ? 皿洗いか!?」
アリアは俺の制服の裾を掴むと、強引にキッチンへと引きずっていった。
彼女の指先から伝わる熱い体温と、野生の花のような清々しい香りが、これから起きる惨劇の前兆のように感じられた。
惨劇・第一幕――皿洗い。
キッチンには、昼食後の皿がいくつか溜まっていた。
俺が後でまとめて洗う予定だったものだ。
「ふん、魔物を斬るのに比べれば、汚れなど敵ではない!」
アリアは自信満々に、陶器の皿を一枚手に取った。
そして、スポンジに洗剤をつけ、磨き始める。
キュッ、キュッ……。
彼女が汚れを落とそうと、わずかに力を込めた、その時だった。
――バキィッ!!
乾いた音と共に、頑丈なはずの陶器の皿が、煎餅のように真っ二つに割れた。
「……あ」
「アリアさん、力加減が……」
「わ、分かっている! 油断しただけだ。この皿、意外と脆いんだな」
彼女は強がりを口にしながら二枚目に挑んだが、今度は握力だけで皿を粉砕し、木っ端微塵にした。Sランク剣聖の筋力(STR)は、日用品にとっての「暴力」そのものだった。
惨劇・第二幕――調理(下ごしらえ)。
皿洗いを断念したアリアは、俺が夕食の仕込みに使う予定だったニンジンを手に取った。
「洗うのがダメなら、切ればいい。刃物の扱いなら、この国の誰にも負けん自信がある!」
彼女は料理用の包丁を無視し、何を血迷ったか腰の魔剣『紅蓮丸』を抜き放った。
「待ってください! なんで伝説の魔剣でニンジンを!?」
「包丁は重心が軽すぎて使いにくいんだ! いくぞ、《紅蓮・一閃》……を、精密加工に転用する!」
ヒュバババババッ!!
神速の剣技。
赤い残像がまな板の上を蹂躙した。
数秒後、そこに残っていたのは「スライスされたニンジン」ではなく、原子レベルまで粉砕され、オレンジ色の粉末(塵)となった何かだった。
「……よし。完璧だ」
「どこがですか! 素材が消滅してます!」
惨劇・第三幕――洗濯(仕上げ)。
ついに半泣きになったアリアは、中庭の洗い場へと走った。
「こうなったら、力仕事の洗濯だ! 汚れを根こそぎ絞り出してくれる!」
彼女が手に取ったのは、俺の予備のポーター服だった。
アリアは服をタライに入れ、ゴシゴシと力強く洗った後、「仕上げだ!」と叫んで両手で雑巾のように絞った。
ブチチッ、ブチブチブチッ!!
凄まじい音が響く。
彼女が全開の握力で捻り上げたことで、布地の繊維が限界を超え、断裂したのだ。
「……あ」
アリアが手を離すと、俺の服は見る影もなくヨレヨレになり、所々に穴が開き、まるでボロ雑巾のようになっていた。
「…………すまん」
アリアは、そのボロボロになった服をタライの中にそっと戻すと、顔を真っ赤にして立ち尽くした。彼女の指先は微かに震え、ルビーのような瞳には、情けなさと、俺に嫌われるのではないかという恐怖が浮かんでいた。
俺は、無残な姿になった自室の服を拾い上げ、深い溜息をついた。
「……アリアさん」
「……分かっている。私は、役立たずだ。家事一つ満足にできない。……リーダー失格だな」
最強の剣聖が、捨てられた子犬のように肩を落としている。
俺は彼女の前に歩み寄り、その大きくて力強い、剣を振るうためにある美しい手を、そっと両手で包み込んだ。
「あ、ユキ……?」
「……アリアさん。お気持ちは、本当に嬉しいです。俺の健康を気遣ってくれたんですよね」
「……う、うむ。……その、お前が、あいつらにばかり構うから、その……」
「皆さんのリーダーは、アリアさんです。皆が戦場を安心して駆けられるのは、アリアさんの背中が一番強いからです。……だから」
俺は少しだけ声を低くし、かつての「王子」としての威厳と、教育係セバス直伝の「包容力」を滲ませて、至近距離で彼女の瞳を見据えた。
「家事は俺の仕事です。俺の大事なお姉さんに、こんな無茶なことをさせられません。……アリアさんは、座っていてください。俺が淹れるお茶を飲んで、笑っていてくれるのが、一番の助けなんです」
アリアの顔が、みるみるうちに爆発しそうなほど赤く染まった。
「あ……う、ああ……。……分かった。……命令なら、従うしかないな」
最強の剣聖は、毒気を抜かれたように大人しくなり、俺に繋がれた手を意識したのか、もじもじと視線を泳がせた。
彼女の戦乙女としての「つよがり」が、少年の優しさによって完璧に「乙女の照れ」へと上書きされた瞬間だった。
リビングでは、ルナが「……不自然な説得力。ユキ、精神操作系のスキルも持っているの?」とジト目で呟き、フィーナが「まあまあ、アリアさんだけズルいですわ」と、微笑みながらも瞳の奥を笑わせずに見ていた。
平穏なスローライフを願う俺の日常は、ヒロインたちの「私こそがユキの第一守護者である」という無自覚な競い合いによって、ますます過酷な(甘い)戦場へと変貌していた。




