第33話 恋する聖女とお姉さんムーブ
境界の村での「災害救助」という名の工作を終え、王都のパーティハウスに戻ってから数日が経過した。
窓外に広がる王都の街並みは、琥珀色の穏やかな午後の陽光に包まれている。
だが、この白亜の屋敷の内部では、静かな、しかし決定的な地殻変動が起きようとしていた。
村での「一晩での完全復興」という、理を超越した超常現象。
それは大賢者ルナによる執拗な論理的追及こそあったものの、最終的には「聖女フィーナの祈りが神に通じた奇跡」としてギルドに正式報告され、今や王都中の人々の口にのぼる伝説と化していた。
結果として、フィーナの評価は「王国最強の治癒魔導師」という枠を飛び越え、「天の奇跡を地上に降ろす本物の聖女」へと一段階跳ね上がった。
村人たちからの感謝の手紙は、屋敷の玄関ホールに山を築いている。
だが、その称号の真の送り主が、今まさにリビングの片隅で彼女たちの装備を磨いている「レベル1のポーター」であることを知る者は、この屋敷の住人を含めて世界に一人も存在しない。
「ユキくん、本当にお疲れ様。……ふふっ、なんだか最近、私少しだけ自分に自信がついた気がするんです」
リビングのソファで紅茶を淹れるフィーナが、晴れやかな、どこか艶のある表情で俺を振り返った。
村全体を救った(と思い込んでいる)達成感が、彼女の本来おっとりとした気質に、心地よい高揚感を与えているようだ。揺れるプラチナブロンドの髪が、差し込む陽光を反射して神々しいまでに輝いている。
だが、その自信は、俺、ユキにとっては少々厄介な方向へと作用し始めていた。
「ユキくん、いつも私たちの身の回りのことばかりで大変でしょう? これからは私も、もっとお姉さんとして、あなたを支えてあげたいんです」
「フィーナさん、お気持ちは嬉しいですが、装備の整備は俺の仕事ですから……」
「ダメですよ。……あ、ほら。見つけてしまいました」
フィーナが、俺の予備のポーター服――洗濯して丁寧に畳んでおいたもの――を白魚のような指先で指差した。
その襟元のボタンが、わずかに緩んでいる。昨日の「護身術訓練」の際、アリアに襟首を掴まれた衝撃で、糸が解れかけていたものだ。
「このくらい、自分で直しますよ」
「いいえ。こういう細かいことは、お姉さんに任せなさい。さあ、こちらへ」
フィーナはどこからか、場違いに豪華な装飾が施された裁縫箱を取り出してきた。
聖女としての誇りと、俺への過剰なまでの母性を懸けて、彼女は「可愛い弟」の世話を焼くことを決意したようだった。
彼女が俺の隣に吸い寄せられるように座ると、清潔な石鹸の香りと、春の陽だまりのような微かな肌の熱が、一気に押し寄せてきた。
「じっとしていてくださいね、ユキくん?」
至近距離。
彼女の柔らかな吐息が俺の首筋を掠めるたび、俺の心拍数はポーターの仮面が剥がれそうなほど跳ね上がる。
しかし、俺の脳内警報は、別の意味で激しく鳴り響いていた。
案の定、作業を開始したフィーナの指先は、戦場での完璧な治癒魔法の行使とは程遠いものだった。
「あら……? 糸が、なかなか穴に入りません……」
彼女はサファイアブルーの瞳を細め、震える指先で針穴に糸を通そうとする。
だが、高位魔導師としての精密な魔力制御はどこへ行ったのか、その指先は針穴ではなく、針の横腹を何度も力任せに突き刺していた。
十分後。
フィーナの額にはうっすらと汗が浮かび、衣擦れの音だけがリビングに虚しく響く。
「おかしいですね……。今日の針は、少しだけ反抗的な気がします」
それは針のせいではなく、単なる物理的な不器用さだ。
俺が「代わりますよ」と言いかけるよりも早く、彼女が痺れを切らし、糸を針穴に力任せに押し込もうとした、その瞬間だった。
「――っ、いっ!?」
指先が滑り、鋭い針が彼女の白い親指の付け根に深く突き刺さった。
プツリと、鮮やかな赤い血が浮かび上がる。
「フィーナさん!」
「あ、大丈夫、です。すぐに……」
フィーナは顔を青ざめさせつつも、即座に空いている方の手をかざした。
「《キュア》」
一瞬、リビングに聖なる光が溢れる。
小さな針の傷一つに対し、オーガの裂傷を治すほどの過剰な魔力が注ぎ込まれた。光が収まった後、そこには傷跡一つない、滑らかな白い肌が戻っていた。
「……ふぅ。驚かせてしまいましたね、ユキくん。もう治りましたから、続きを……」
「ダメです。見せてください」
俺は、彼女が手を引っ込めるよりも早く、その細い手首を掴み取った。
「ユ、ユキくん……?」
至近距離で、驚きに見開かれたサファイアブルーの瞳が俺を映す。
俺は彼女の柔らかい手を取り、指先を丁寧に確認した。
魔法で表面は塞がっているが、不器用な力の込め方のせいで、指の筋肉が僅かに強張っているのが、俺の鋭敏な指先を通じて伝わってくる。
「……ちゃんと治っているみたいですが。フィーナさん、あなたは聖女の力に頼りすぎです」
「えっ……?」
「怪我をしたら魔法で治せばいい、なんて考えないでください。不器用なことを無理にやる必要はありません。……皆を癒やすその手は、俺たちが守るべきものです。もっと、自分自身の体を大切にしてください」
俺が少しだけ声を低くし、亡国の王子としての威厳と、心からの案じを滲ませて彼女を見据えると、フィーナの碧眼が大きく揺れた。
俺が手を離さずにじっと瞳を覗き込むと、彼女の頬が、みるみるうちに完熟した林檎のような朱に染まっていく。
「あ……は、はい。……ごめんなさい、ユキくん……」
至近距離で伝わる彼女の急激な体温の上昇。
石鹸の香りに混じり、彼女の激しい動悸が、繋いだ手を通じて俺の掌まで響いてきた。彼女の声は震え、もはや「弟」に向けるものではない、一人の男性への熱っぽい視線が俺を射抜いていた 。
「ユキ。……そのお説教。倫理的かつ、支配的な教育的指導ね」
いつの間にかリビングの影に立っていたルナが、アメジストの瞳を冷徹に細めて俺たちを観察していた。
「……ルナさん。驚かせないでください」
「……確率論的、異常。レベル1のポーターが、Sランク聖女を黙らせるほどの威圧を発揮するなんて。……けれど、フィーナが蕩けているから、今の計算は一時停止してあげるわ」
ルナは持っていた魔導書を閉じ、悔しげに、あるいは羨ましげに唇を噛んだ。
お姉さんたちの「つよがり」と「ポンコツ」を裏から支える俺の日常。
だが、フィーナの俺に対する視線が「守るべき弟」から「奪いたい異性」へと完全に定義し直されたことで、俺の望む平穏は、また一歩、甘く危険な深淵へと足を踏み入れていた。




