第32話 無防備な大賢者と星の鼓動
翌朝、境界の村を包み込んだのは、数日前の絶望を完全に拭い去るような、割れんばかりの歓喜の絶叫だった。
昨日まで不浄な土砂と無慈悲な岩石に埋もれ、村人の希望ごと窒息しかけていた広大な農地は、今やまるで神が巨大な定規で線を引いたかのように、完璧な区画を取り戻していた。
寸断されていた水路には、以前よりも澄んだ清冽な水が勢いよく流れ、村の命脈を力強く脈動させている。崩落の危機にあった山の斜面は、目に見えない力で分子レベルまで固められたかのように、不自然なほど堅牢な沈黙を保っていた。
「奇跡だ! 聖女様のお祈りが、天に届いたんだ!」
「農地が……昨日より立派になって戻っている。これで、冬を越せるぞ!」
泥にまみれ、膝をついていた村人たちが、聖女フィーナの元へと殺到する。
彼らは彼女を「生ける女神」として崇め、その衣服の裾に触れようと必死だった。
当のフィーナは、自分が引き起こした(ことになっている)あまりにも完璧な物理的復興を前に、サファイアブルーの碧眼を驚きで見開いたまま、困惑と安堵の涙を浮かべていた。
「えっ……? あ、あの、わたくし……ただ必死に祈っていただけで……」
アリアは「すごいなフィーナ! 聖女の祈りが神様に通じたんだな!」と豪快に笑い、俺の背中をバシバシと叩いている。
彼女たちに笑顔が戻った。
これで俺の望む「平穏」は守られた。
***
数時間後。
輸送任務を「災害救助」という特大の功績に塗り替えた俺たちは、辺境伯への報告のため王都への帰路についていた。
琥珀色の夕陽が差し込む馬車の車内は、独特の静寂に包まれている。
奇跡の目撃による精神的興奮が解けたせいか、アリアとフィーナは寄り添うようにして深い眠りに落ちていた。アリアの燃えるような赤髪が俺の肩に重なり、寝返りを打ったフィーナが俺の膝に頭を預けてくる。
二人の無防備な寝息と、肌を通じて伝わる微かな熱量に、俺が懸命に動悸を抑え込んでいると――正面に座る「大賢者」の視線が、俺を捉えた。
「……ユキ。議題があるわ。……逃走は論理的に許可しない」
ルナが低い、しかしどこか熱を帯びた声で切り出した。
彼女の膝の上には、昨日と今日の地形の比較図が広げられている。
「この復興、現象としてあまりに特異よ。地質学的な因果関係を完全に無視している。……神の奇跡だとしても、そこには明確な『仕組み(アルゴリズム)』が存在するはずだわ」
ルナは音もなく座席を移動し、俺の真横、アリアの反対側の隙間へと滑り込んできた。
「あなたは昨夜、夜風に当たると言って宿を抜け出していたわね。……目撃者としてのあなたの証言を要求する。その時に、何か『異変』を見なかった?」
至近距離。彼女の紫色の瞳が、獲物を分析する観察者の鋭さで俺の瞳の奥を覗き込んでくる。
(流石に、何も見なかったと言うのは不自然か……)
俺は「レベル1のポーター」らしい困惑を演出し、用意していた「半分だけ真実」の回答を口にした。
「そういえば……外を歩いているとき、地面の底から響くような地鳴りが聞こえた気がします。……断続的というか、星が鼓動しているような、不思議な音でした」
「地鳴り? ……特定の周律があったの? ……音の発生源は空、それとも大地そのものから?」
俺の言葉を聞いた瞬間、ルナの瞳に知的な狂熱が宿った。
彼女は俺の答えを一文字も聞き逃すまいと、さらに身を乗り出してくる。
「ユキ。その音は……これくらいの高さ? それとも、もっと深層?」
追求に必死になるあまり、ルナは異性としての距離感を完全に忘却していた。
彼女は俺の胸元に顔を近づけ、あまつさえ俺の体に耳を当てるような勢いで密着してきたのだ。
近い。
近すぎる。
彼女のボサボサの銀髪が俺の首筋をくすぐり、古いインクの香りと、彼女が夢中になった時に漂う微かな糖分の匂いが混ざり合って鼻孔を突く。
小柄なお姉さんとはいえ、女性特有の柔らかな熱量と、薄い服越しに伝わる肢体の感触は、レベル1617の俺の心臓に、A級ドラゴンとの戦い以上の負荷をかけていた。
(ル、ルナさん……! 解析に熱中しすぎて、自分がどれだけ無防備か分かってないな……!)
俺の「気弱な少年」の仮面が剥がれそうになる。
このままでは、彼女の知的な好奇心に飲み込まれ、動悸から「ポーター」の偽装まで見破られかねない。
「あ、あの……ルナさん、近いです! ほら、これを食べて落ち着いてください」
俺は動悸を必死に抑え込み、ポーターのリュックから、以前セバス経由で仕入れておいた「最高級の砂糖をたっぷりまぶした特製焼き菓子」をサッと取り出した。
「ほら、一旦休憩しましょう。糖分を摂らないと、いい計算もできませんよ?」
口元に差し出された菓子の甘い香りに、ルナの意識がフッと揺らいだ。
「……ん。……多幸感(糖分)。……優先順位の書き換えを開始」
ルナは俺に密着したまま、ハムスターのように菓子を齧り始めた。
至近距離での「餌付け」状態に、俺は顔が熱くなるのを自覚しつつ、なんとか彼女を適正な距離へと誘導する。
ルナの疑念を「学術的探求」と「糖分への欲求」へとすり替え、平穏を守るための薄氷を繋ぎ止める。
車窓の外、真っ赤に燃えるような夕焼けを見つめながら、俺は自身の動悸を静めるのに必死だった。亡国の王子の、贅沢で不自由な「隠密生活」の戦いは、今日も甘い余韻と冷や汗と共に続いていく。




