第29話 帝国の暗殺者「ジャガー」
訓練場での「自爆」と、その後の俺による手当を経て、アリアの俺に対する過保護ぶりはもはや末期的といえる領域に達していた。
リビングに差し込む琥珀色の夕刻の光が、彼女の燃えるような赤髪をさらに鮮やかに縁取っている。
アリアは、本来なら王都の城壁すら一刀両断するその逞しい腕で、俺の肩を包み込むように抱き寄せていた。
「ユキ、右肩はもう大丈夫だと言っているだろう。それよりお前、今日は少し顔色が白いぞ。こっちに来い、温めてやる。お前が風邪など引いたら、私は……自分を許せん!」
王国最強の『剣聖』。
戦場では灼熱の戦士と恐れられる彼女が、今は一人の少年ポーターの体調を案じ、あまつさえ毛布まで持ってきて俺を包もうとする。
至近距離から漂う、戦乙女特有の清々しい野生の花の香りと、鎧を脱いだ私服越しに伝わる彼女の熱い体温。
その無自覚な距離の近さに、俺の心拍数はポーターの仮面が剥がれそうなほどに跳ね上がる。
一方で、大賢者ルナはといえば、さらに深刻な「論理的崩壊」の最中にあった。
「……非合理的。……確率論的、特異点……」
俺のステータス(レベル1)と、夜会のダンスで見せた完璧な王宮所作。
その埋めようのない矛盾の狭間で、彼女の天才的な知能はオーバーロードを起こしていた。
銀髪をボサボサに乱し、アメジストの瞳を虚空に彷徨わせながら、自室の隅でうわ言のように数式を呟き続けている。
「……少し、買い出しに行ってきます。ルナさんの知能指数を回復させるための、脳の栄養剤(甘い菓子)も買ってきますから」
俺、ユキは「ポーターの義務」という、彼女たちには決して拒絶できない完璧な口実を使い、熱を帯びた「甘い檻」であるパーティハウスを脱出した。
俺は人混みに紛れながら、足裏から大地へ極小の魔力パルスを送る。
(《土魔法:広域探知》)
それは魔術という現象を超えた、世界の呼吸を読み取る神話的な感覚だ。
足裏から地脈を通じて広がる魔力は、半径数百メートル以内の全振動を、神経細胞を這わせるように詳細に描き出す。
尾行も監視も存在しない。
俺はわざと入り組んだ貧民街の路地を抜け、郊外に佇む、蔦の絡まった古い隠れ家へと滑り込んだ。
扉を開けると、そこには背筋を定規で引いたように伸ばし、冷厳な静寂を纏った初老の紳士、セバスが控えていた。
「おかえりなさいませ、ユキ坊っちゃま。……例の件、確定いたしました」
セバスの声は、かつての王宮の静寂を思わせるほど重く、そして鋭い。
彼が差し出した紅茶の香りが、張り詰めた神経を「王子」へと切り替える。
「帝国の諜報部隊『影』を率いる――『ジャガー』」
その名を聞いた瞬間、視界がわずかに赤く染まり、周囲の空気が質量を帯びて凍りついた。
父上と母上の命を奪い、祖国を蹂躙した実行犯の一人。
「奴は現在、冒険者に偽装してギルドに登録しております。目的は『王家の生き残り』の噂の真偽確認。そして、この町の冒険者の実力調査――それと並行して、何かを探っている様子です」
「……この町に何かあるのか?」
冒険者の実力調査と町での探りには、何らかの関連があるのだろう。
だが、最初の目的――俺の正体に気づくことはない。
俺は脳内でスキルの出力を操作した。
(《神をも欺く偽装:レベル1890》)
ステータス、魔力反応、存在感。それらを直接書き換えるのではない。
観測者の論理的思考そのものに干渉し、俺という存在を「あまりにも無価値な背景」として認識させるパッシブ効果。
この神話級スキルの前では、どれほどの超一流の暗殺者であろうと、その目は節穴に等しい。
***
同じ頃、クレセントの冒険者ギルド。
酒場の一番奥の席で、フードを目深に被った銀髪の男――ジャガーは、猛禽類のような金色の瞳で『白銀の乙女』の構成員リストを眺めていた。
「……ユキ。レベル1。職業、ポーター。スキル、《アイテムボックス》、以上か」
ジャガーは自らの最高位鑑定眼を使い、手元のリストと実物の整合性を確認するため外に出る。
折よくターゲットを発見。
プロの諜報員である彼は、Sランクパーティに一人だけ混じるレベル1という「不自然さ」を疑っていた。
だが、ユキの《パーフェクトフェイク》が、彼の脳内に「都合の良い解釈」を強制的に流し込む。
(……フン。ただの雑用か。Sランクの女どもの、ご機嫌取りのための『ペット』だな)
不自然さは「歪んだ溺愛の結果」として彼の中で完結し、ジャガーは嘲笑と共にユキの項目を調査対象から抹消した。
「反乱を計画している王家の生き残りを見つけ出し、この町のどこかにあるはずの『古代遺跡』を見つければ、任務は完了――」
彼にとって警戒すべきは、あくまで『剣聖』アリアの突破力と、『大賢者』ルナの知性。その背後に隠れる「無害なノイズ」に構う時間は、帝国の大佐にはなかった。
***
ハウスへの帰り道、市場でニンジンを袋に詰めながら、俺は地脈を通じて背後に感じる微かな視線の主を笑った。
(よし、これで良いだろう。……もっと俺を侮れ、ジャガー)
ジャガーは俺を「弱点(アキレス腱)」として利用する計画を立て始めているようだが、それこそが俺の敷いた情報の地雷原だ。
ハウスに戻ると、アリアが「遅いぞユキ! 心配で『紅蓮丸』を抜くところだった!」と俺の頭をガシガシと乱暴に、けれど愛おしそうに撫で回してきた。
フィーナは「おかえりなさい、ユキくん。よしよし」と、清潔な石鹸の香りを漂わせながら、俺の頬を柔らかい手で包み込む。
俺は「すみません、少しニンジンを選んでいたら遅くなって」と、気恥ずかしそうに笑う少年の顔を作った。
亡国の王子の本当の戦場は、魔王の城ではない。
この、最高に贅沢で不自由な「甘い檻」を守り抜くことにある。
最強の暗殺者の喉元に、俺はすでに不可視の剣(認識の檻)を突き立てているのだから。




