第28話 癒やしのポーターと不器用な剣聖
クレセントの一等地に聳え立つ『白銀の乙女』のパーティハウスに、琥珀色の柔らかな朝陽が差し込んでいた。
磨き上げられた大理石の床が光を反射し、リビングには平和な時間が流れているように見える。
だが、その空気には数日前から、名状しがたい「不協和音」が混ざり合っていた。
発端は、大賢者ルナが名探偵を気取って俺を研究室へ連行し、あまつさえ鍵をかけて「密室」で俺の真実を暴こうとした一件だ。
結果として、俺の《神をも欺く偽装:レベル1890》が、彼女の誇るSランク鑑定魔法を正面から叩き潰した。
ルナは今、自室の隅で「レベル1のポーターが王宮舞踏を踊る確率」について、アメジストの瞳を虚ろにしながら無意味な再計算を繰り返す「知能のオーバーロード」を起こしている。
しかし、ハウス内に漂う真の火種は、もう一人のSランク――
『剣聖』アリアの胸中にあった。
「はぁぁぁっ! ……だぁぁぁっ!!」
ハウスの中庭にある訓練場。
空気を切り裂く鋭い風切り音と、ミスリル銀の籠手が擦れる硬質な音が響き渡る。アリアが、燃えるような赤髪を振り乱しながら木剣を振るっていた。
対するは、聖女フィーナが《聖魔法》で生成した『光のゴーレム』。
本来、Sランクの彼女にとって適度な練習相手のはずだが、今日の彼女の剣筋は、素人の俺の目――否、レベル1617の動体視力から見れば、あまりにも乱暴で、嫉妬という名の毒に冒されていた。
(……完全に、ルナさんと二人きりだったことを根に持っているな)
俺、ユキは訓練場の隅で、特製ドリンクの準備をしながら内心で溜息をついた。
最強の剣聖とはいえ、私生活においては恋愛初心な少女だ。
俺への庇護欲と、説明のつかない独占欲が、彼女の中で激しく衝突しているのが魔力の揺らぎで手に取るように分かる。
だが、俺の懸念はそれだけではない。
帝国の暗殺者『ジャガー』が王都に潜入している以上、彼女たちには常に「最強」でいてもらわねばならない。俺の平穏を守るための「盾」として、彼女たちのコンディションを完璧に整えることが、王子の末裔としての俺の冷徹な戦略でもあった。
(少し、無理をしすぎだな。……ここで一度『強制停止』させたほうが、効率的だ)
俺は誰にも気づかれぬよう、足裏から大地へ微かな魔力を流し込んだ。
《土魔法:地形操作・摩擦係数零》。
それは魔法という現象を超え、世界の理を書き換える「神話の指先」だ。
アリアが踏み込もうとした石畳一点の摩擦を、俺の意志が消滅させた。
「――っ!?」
一瞬、アリアの思考が逸れ、同時に足元が不自然に滑る。
その刹那、光のゴーレムの鉄拳が、アリアの木剣を正面から粉砕した。
武器を失い、体勢を崩した彼女の右肩に、ゴーレムの追撃が容赦なく食い込む。
「きゃっ……!?」
鈍い衝撃音と共に、アリアの巨体が地面に倒れ込んだ。役目を終えたゴーレムが光の粒子となって霧散する中、彼女は激痛に顔を歪め、肩を押さえた。
「あらあら、ユキくんのことが気になって集中できないからですよ。……《ヒール》」
フィーナが駆け寄り、慈愛の光を注ぐ。
だが、その回復魔法が届くよりも早く、俺はアリアの元へ膝をついていた。
「アリアさん! 無茶しないでください!」
俺は、魔法で氷点下ギリギリに温度を固定した冷たいタオルと、特製のドリンクを手に、彼女の至近距離まで踏み込んだ。
「ゆ、ユキ……っ!? 来るな、こんな無様なところを……」
「Sランクのリーダーが、訓練で自爆してどうするんですか。ほら、冷やしますよ」
俺は彼女の拒絶を王子としての「圧」で押し切り、腫れ始めた右肩にタオルを当てた。じゅわ、と、火照った肌から熱気が立ち上る。
ミスリル鎧の隙間から覗く彼女の項からは、野生の花のような清々しい香りと、戦乙女特有の熱い体温が混ざり合って漂ってきた。
「……っ」
アリアの喉が小さく鳴る。
俺の指先が彼女の肌に触れるたび、彼女の心拍数が異常な数値を叩き出しているのが分かる。
「糖分と、魔力回復を最適化した、俺の特製です。飲んでください」
俺は、これまで培った家事スキルで作り上げた青く輝くドリンクを差し出した。
「……う、うるさい。これくらい、掠り傷だ……。次はこの壁ごと、あいつを斬ってやる」
顔を真っ赤にしながらも、彼女は剣聖としての「つよがり」を捨てきれない。
一気に煽ったドリンクの冷たさに、彼女のルビーレッドの瞳が潤み、吐息が俺の頬をかすめる。
「アリアさん。ルナさんの部屋で何をしていたか気にするより、自分の体のことを気にしてください。皆のリーダーなんですから、お節介を焼かせないでくださいよ」
少しだけ声を低くし、かつての王子としての威厳を無意識に滲ませながら、彼女の瞳を真っ直ぐに見据える。
「……あ……。わ、分かっている。……悪かったよ」
最強の剣聖が、年下のポーターの言葉に毒気を抜かれたように押し黙る。
彼女はタオルで顔を半分隠しながら、逃げるように視線を逸らした。その指先が、微かに震えている。
(……全く、世話の焼けるお姉さんだ)
彼女たちは俺を「最弱」と定義しているが、その実、彼女たちの「最強」は俺の提供するインフラと、この秘密のコンディショニングによって維持されている。
「ユキ。そのドリンク……また作れ。……命令だ」
空になった瓶を突き返してくる彼女の頬は、林檎のように染まっていた。
平穏なスローライフを願う俺の日常は、こうして「最強のポンコツお姉さんたち」の心臓部を掌握するという、別の意味で支配的な戦場へと塗り替えられていく。
だが、その賑やかな喧騒の裏側で。
俺の《探知》は、王都の影に潜む帝国の暗殺者『ジャガー』の、凍てつくような殺意を確実に捉えていた。




