第15話 帝国の影と祖国の滅亡
クレセントの一等地に構えられた『白銀の乙女』のパーティハウスは、世の男たちが羨望と嫉妬を抱く楽園であると同時に、俺にとっては確かな熱を帯びた「甘い檻」でもあった。
赤髪を揺らす剣聖アリアの真っ直ぐすぎる庇護欲。
青髪の大賢者ルナが理論武装して迫る独占欲。
そして、金髪の聖女フィーナが包み込むように注ぐ、重すぎる母性。
三方向から降り注ぐ過剰な愛情は、レベル1617という異常な数値を誇る俺の精神でさえ、確実に、じわじわと摩耗させていく。
(……ありがたい。ありがたいが、胃にくるな)
柔らかな視線、さりげない気遣い、時に剥き出しになる独占。
それらは決して悪意ではない。
むしろ好意の塊だ。だが、だからこそ逃げ場がない。
(このままだと、俺の『平穏』が内側から溶かされる)
俺は昼下がりのキッチンで、鍋の火加減を確認しながら、さりげなく口を開いた。
「買い出しに行ってきます」
三人の視線が一斉にこちらを向く。
一瞬、空気が張り詰める。
だが、日常的な用事である以上、止める理由はない。俺はそのわずかな隙を縫うように、這う這うの体でハウスを脱出した。
石畳の大通りに出ると、冬の乾いた風が頬を撫でる。人々の喧騒、馬車の車輪の軋み、商人の呼び声。雑踏のざわめきに紛れた瞬間、俺は意識を内側へと沈めた。
《偽装》の出力を微調整する。
レベル1のポーターとしての気配を保ちつつ、ほんの僅かに制御域を拡張する。過剰でも不足でもない、絶妙な塩梅。
そして――足裏から大地へ。
《土魔法:探知》。
微細な魔力の振動が地面を伝い、半径百メートルの範囲へと静かに広がっていく。石畳の下を走る水脈、路地裏で立ち止まる影、屋根の上を渡る猫の足音までも、振動として脳裏に描写される。
尾行なし。
監視なし。
魔力の残滓も異常なし。
王子の逃亡は、常に完璧でなければならない。
***
たどり着いたのは、郊外の静かな路地裏に佇む一軒家だ。外観は質素だが、目に見えない防御結界が幾重にも重なっている。俺が施したものだ。
扉を開けると、静謐な空気が流れ出す。
「おかえりなさいませ、ユキ坊っちゃま。お顔の色が優れませんな」
背筋を定規で引いたように伸ばした初老の男――侍従セバスが、寸分の狂いもない礼で出迎えた。黒髪に混じる白髪、灰色の瞳は、長い亡命生活を物語っている。
「セバス。その呼び方はやめろと言っている。俺は今、ただのポーターだ」
靴を脱ぎ、ソファに深く沈み込む。柔らかなクッションが背中を受け止めると同時に、張り詰めていた神経がようやく緩む。
セバスは無言で頷き、香り高い紅茶を差し出した。茶葉はアルトリア王国で好んで飲まれていた銘柄だ。湯気に混じる懐かしい香りが、胸の奥を微かに揺らす。
「ユキ様ーーっ! 会いたかったです!」
奥から弾けるような声。
栗色のポニーテールを揺らしながら、メイド服姿のミミが駆け寄ってくる。勢いのまま俺の首に腕を回し、遠慮なく抱きついた。
「お怪我はありませんか?」
ぎゅっ、と腕に力がこもる。
年上の「お姉さん」である彼女の体温が、布越しに伝わる。エメラルドの瞳が至近距離で覗き込み、陽だまりのような甘い香りが鼻腔をくすぐる。
顔が熱くなるのを自覚しながら、俺は必死に視線を逸らした。
「よせ、暑苦しい……。帰ってくるたびに抱き着くな」
強がりの仮面を被る。
だが本心では、この距離感がありがたかった。三聖女の過保護とは異なる、家族のような近さ。無条件で帰れる場所。
胸の奥が、重く沈む。
俺はゆっくりと目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、十数年前のあの日――炎と悲鳴に包まれたアルトリア王国の滅亡。
空を焦がす黒煙。
崩れ落ちる城壁。
帝国軍の旗が翻る城門。
当時、強大な帝国の侵略に抗いきれなかった王国は、禁断の儀式『勇者召喚』に最後の希望を託した。
異世界から呼び寄せた魂と、生まれる前の王子の魂を融合させ、強力なスキルを有する御子を誕生させる。
その結果、前世の記憶を宿した俺は、赤子の姿でこの世界に生まれ落ちた。《経験値獲得量一万倍》という規格外の呪いを、その身に宿して。
だが――すべては遅すぎた。
俺が産声を上げたまさにその瞬間、帝国の先遣部隊が王都の城壁を突破した。
玉座の間に響く金属音。
迫る刃。
父上と母上は、俺を抱えた侍従に背を向け、自ら盾となった。
その光景を、赤子の俺は理解できなかった。
ただ、世界が燃えているという事実だけが、焼き付いている。
国を救うために呼ばれた勇者は、力の使い方を覚える前に、国そのものを失ったのだ。
「……セバス。俺は、帝国への復讐は望まない」
冷めかけた紅茶を一口含む。
苦味が、舌の上に残る。
「俺は王子として死んだ。あの日の、無力な赤子として」
握り締めた拳に、わずかに力が入る。
「今持っているこの力は、守れなかった者たちの残りカスだ。誇れるものじゃない」
セバスは何も言わない。
ただ静かに目を伏せる。
「俺は、俺を逃がすために死んでいった者たちの代わりに、この世界で『ユキ』として、ただ平穏に生きたい」
その願いは、贅沢だろうか。
「それが、唯一の報いだと思っている」
最強の力を持ちながらレベル1を演じるのは、滑稽かもしれない。
だがそれは、二度とあのような「救えない戦い」に巻き込まれたくないという、臆病な本能でもある。
セバスは深く頭を下げた。
「王子の、お心のままに。ただ、帝国の諜報員が動いております。敵が攻めてきた、その時には――」
俺はゆっくりと頷く。
そして、心の奥底に沈めていた感情を押し込み、「レベル1のポーター」の仮面を丁寧に貼り直した。
ハウスに戻れば、紅の剣聖と、青の賢者と、金の聖女が待っている。
騒がしく、面倒で、しかし確かに温かい日常。
亡国の王子、ルキーユ・ルド・アルトリア。
俺の戦場は、魔王の城ではない。
この賑やかな「生活」を、誰にも壊させず守り抜くこと――
それが今の俺の戦いだ。




