第13話 聖女の(過剰な)世話焼き
アリアによる「護身術訓練」という名目の、理不尽極まりないフィジカル・シゴキを終えた俺は、泥を詰め込まれたように重い身体を引きずりながらハウスの玄関をくぐった。
使い込まれたブーツが石畳を打つたびに、乾いた音が静かな廊下へ虚しく反響し、その残響がやけに長く尾を引く。
肩から腕にかけては鉛のように鈍く、背中にはまだ木剣の衝撃が残っている。
呼吸をするだけで、肺がじわりと熱を帯びた。
リビングには、午後の柔らかな日差しが差し込み、琥珀色の線となって床を横切っていた。舞い上がる微細な塵さえも黄金の粒子のようにきらめき、空気そのものが温かい膜に包まれているかのようだ。
戦場の匂いとは無縁の、穏やかで平和な光景。
その光のカーテンの向こう側で、プラチナブロンドの柔らかな髪を揺らし、聖女フィーナが俺を待っていた。
「あらあら、ユキくん。おかえりなさい。アリアとお出かけ……ふふ、随分とお疲れのようですね?」
サファイアブルーの碧眼が、蕩けるような慈愛を湛えて俺をまっすぐに射抜く。
彼女が歩み寄るたび、清潔な石鹸の香りと、春の陽だまりを思わせる微かな体温が鼻孔をくすぐった。
その気配に触れただけで、さきほどまで悲鳴を上げていた全身の筋肉が、ふっと力を抜いていく。
(今はただ、この聖女に癒やされたい……)
胸の奥に滲む本音を押し隠しつつ、俺は「レベル1のポーター」という弱々しい仮面を崩さぬよう、わざと少しだけ情けない声を作った。
「はい、ただいま戻りました……フィーナさん」
「ちょうど良かった。ユキくん、いつも私たちのお世話ばかりで大変でしょう? 今日は私がお茶を淹れてあげますね」
「えっ」
その瞬間、俺の脳内警報がけたたましく鳴り響いた。
アリアは厨房を物理的に粉砕する。
ルナは食事の存在そのものを忘れて自滅する。
現状、このパーティに「生活能力」という概念を期待するのは、生存戦略上の致命的なミスだと、俺の経験値が全力で警告している。
数分後。
フィーナは花が綻ぶような完璧な笑顔で、湯気の立つティーカップを運んできた。
「お待たせしました、ユキくん。私の特製ハーブティーです。聖女の祈りを込めたのですから、絶対に元気になりますよ」
見た目は完璧だった。透き通る琥珀色の液体は揺らめき、立ち上る香草の香りは深いリラックス効果を約束しているかのように穏やかだ。
彼女の瞳には一切の打算がない。ただ「可愛い弟」を慈しみたいという、純粋で、そして重すぎる善意だけが満ちている。
俺は意を決し、震える指先でカップを持ち上げ、唇へと寄せた。
(――っ!?)
舌に触れた瞬間、脳髄を雷が貫いた。
しょっぱい。
とんでもなく、しょっぱい。
これは砂糖ではない。
致死量に迫る岩塩の塊だ。
ハーブの繊細な芳香と、舌を刺し貫く塩化ナトリウムの暴力が、口腔内で最悪の不協和音を奏でている。喉が収縮し、胃が本能的に拒絶を示す。
だが、フィーナは一ミリたりとも自分の失態に気づいていない。
これこそが彼女の「天然な破壊者」としての真骨頂。
期待に満ちた目が、無垢な信頼を乗せて俺を見つめている。
もし俺がここで倒れれば、彼女は自責の念に囚われるだろう。精神は揺らぎ、パーティは機能不全に陥る。ひいては、王都に潜むジャガーへの防壁が崩れる。それは許容できない未来だ。
(……やるしかないか)
俺はカップを傾け、飲み込むふりをした。同時に、足裏から大地へ微弱な魔力パルスを流し込む。
(《土魔法:原子レベルの精密操作》)
それは現象を超え、世界の理を書き換える領域。
レベル1617のステータス補正と、《神をも欺く偽装:レベル1890》が、発生する魔力反応さえも「自然現象」として上書きする。微細な土粒子を生成し、塩分を含む分子のみを瞬時に吸着・蒸発。
神話級の隠密処理は、わずか0.5秒。
「毒の海」は、「至高の滴」へと変貌した。
「……ふぅ。はい。すごく、美味しいです。フィーナさんの愛を感じました」
「まぁ! よかったわ!」
俺の完璧な嘘に、フィーナは安堵の笑みを咲かせ、そのまま吸い寄せられるように俺の隣へ腰を下ろした。密着した太ももから伝わる体温がじわりと熱を帯び、柔らかな指先が俺の白い髪を執拗に、愛おしげに撫で始める。
「ユキくんは、本当に可愛い弟ですね。よしよし。ずっとこうしていたいわ」
(……完全にペット扱いだな)
情けなさと、石鹸のような甘い香りがもたらす心地よさが胸の奥で絡み合う。
安堵と警戒、そのどちらもが消えないまま、フィーナは空になったカップを手に立ち上がった。
「いくらでもおかわり、ありますからね! 今、追加のポットを持ってきます!」
(……勘弁してくれ……!)
ポットの中には、まだあの「死の塩湖」が残っているはずだ。
二杯目を処理する精神的負荷は、さすがに無視できない。
「待ってください、フィーナさん!」
反射的に伸ばした手が、彼女の白く細い腕を掴む。
勢いのまま引き戻し、ソファへと押し留めた。
ドサッ、と高級なクッションが沈み込む柔らかな音が、静まり返ったリビングに響く。
「ゆ、ユキくん……?」
至近距離で見開かれたサファイアブルーの瞳。吐息が唇を掠め、衣擦れの音がやけに大きく耳へ届く。指先に触れる肩の細さが、逆に彼女の存在感を強調していた。
「フィーナさんは、座っていてください。次は、俺が最高のティータイムをプレゼントします」
逃げ場を与えぬよう、その瞳を真っ直ぐ見据え、低く、芯のある声で告げる。
それは「レベル1の少年」の声音ではない。アルトリア王国の王子――ルキーユ・ルド・アルトリアとしての覇気と、圧倒的実力者の威圧が、無自覚に滲み出ていた。
フィーナの頬が、みるみるうちに完熟した林檎のような朱へ染まる。胸元が激しく上下し、潤んだ瞳が熱を帯びて俺を見上げた。
「あ……う、うん。じゃあ、座って待ってるね……ユキくん」
力なく頷くその姿には、「弟」ではなく一人の「男性」を意識した動揺が浮かんでいる。俺は高鳴る鼓動を押し殺し、背筋を伝う冷や汗を感じながらキッチンへと足を向けた。
「もう……急に『男の子』になるんだから……」
背後から届いた、艶を帯びた蕩けるような呟きに、耳の裏まで熱が広がる。
最強の力を隠したまま、愛すべきポンコツお姉さんの「善意の猛毒」から日常を守り抜く。俺のスローライフを賭けた戦いは、今日も甘い余韻と胃痛を抱えながら、静かに続いていく。




