第12話 剣聖の庇護欲
朝の光がやわらかく差し込むパーティハウスには、ようやく「生活の体温」が戻っていた。
完璧に修復されたキッチンでは、銅鍋の中でスープが静かに湯気を立て、じっくり煮込まれた野菜と肉の旨味が、焼き立てのパンの芳ばしい香りと混ざり合って室内に満ちている。
木製のテーブルには白い湯気がゆらめき、窓から入り込む朝日がそれを淡く照らしていた。
「……うまい。ユキのスープは世界を救うわ」
「あらあら、本当においしいです。ユキくんは、私たちの英雄ですね」
青髪のルナと、プラチナブロンドのフィーナが、幸せそうにスプーンを運ぶ。その穏やかな光景の中で、ただ一人だけ、沈痛な面持ちでスープを見つめている人物がいた。
燃えるような赤髪の剣聖――アリアだ。
「……アリアさん? お口に合いませんでしたか?」
俺が声をかけると、アリアはハッとしたように顔を上げた。ルビーレッドの瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。その奥に宿るのは、迷いのない、熱を帯びた決意だった。
「ユキ! 私は決めたぞ!」
ガタッ、と椅子が大きな音を立てる。彼女は勢いよく立ち上がり、一直線に俺のもとへ歩み寄ると、がっしりと肩を掴んだ。
Sランクの握力。
加減されているはずなのに、骨がきしむほど重い。
「昨日は、私たちがだらしなかったせいで、危うくパーティが壊滅するところだった。……お前に、最低限の『護身術』を教える!」
理屈としては、どう考えても飛躍している。
本来なら「アリアが今後家事をしない」という結論に至るはずだ。
だが、いったん火がついた剣聖の行動力は、誰にも止められない。
「ポーターの君に戦闘をしろとは言わん。だが、万が一、私たちが守りきれなかった時――君が死ぬのは……私は、絶対に嫌なんだ」
その声音は真剣そのものだった。
純粋で、真っ直ぐで、そして少しだけ重たい庇護欲。
その熱を真正面から向けられて、俺は結局、抗うことができなかった。
連行された先は、冒険者ギルドの訓練場。
早朝の冷えた空気が肺を刺す。吐く息は白く、地面には夜露が残っている。既に多くの冒険者が木剣や槍を振るい、汗と土埃の匂いが入り混じる中――アリアが姿を現した瞬間、場の空気が一変した。
「なんだあのレベル1、またアリア様にくっついて……」
「ヒモ野郎が……」
嫉妬と嘲りが混ざった視線が、突き刺さるように俺へ向けられる。
だがアリアは、そんな雑音を一顧だにしない。わずかに放たれた剣気だけで、周囲のざわめきはぴたりと止まった。空気が張り詰める。
彼女は無造作に訓練用の木剣を俺へ放った。
「いいかユキ。基本は『受け流す』ことだ。私が軽く打ち込むから、剣の腹で受けて流してみろ」
軽く、と彼女は言った。
だが、構えた瞬間に理解する。
木剣を持っているだけのはずなのに、そこに立つのはSランクの剣聖だ。彼女の周囲だけ空気が歪み、肌がひりつく。何気なく握られた棒切れが、名剣『紅蓮丸』にも劣らぬ凶器に見える。
「行くぞ、ユキ!」
踏み込み。
振り下ろし。
――コツン。
耳に届いたのは、拍子抜けするほど軽い音だった。
(さて、どうリアクションするのが正解だ……)
答えは決まっている。
レベル1のポーターとして、相応しく振る舞えばいい。
俺は意識を極限まで集中させ、筋肉をわずかに弛緩させる。衝撃を逃がすのではなく、あえてバランスを崩す方向へ身体を流す。
「うわっ!」
大げさな声とともに、足をもつれさせ、派手に尻餅をつく。
完璧な「弱者」の演技。
「あ……」
見上げると、アリアはまるで捨てられた子犬を見るかのような表情で、俺を見下ろしていた。
「すまない、強すぎたか? もうこの辺でやめておこう。……そうだよな、ユキはポーターだもんな……」
憐憫。
悪意は一切ない、ただ純粋な心配。
その視線が、胸の奥に沈めていた小さな棘を刺激した。
「……いえ、ちょっと躓いただけです。まだやれます」
自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。
それから一時間。
朝日が高くなり、冷気は薄れ、訓練場の土はすっかり踏み固められた。
俺は文字通り汗だくになっていた。
魔法を一切封じ、人並みの体力だけで動き続ける。剣を受け、転び、立ち上がり、また受ける。その繰り返しは、ある意味で本気の戦闘よりも過酷だ。荒い呼吸が喉を焼き、額から滴る汗が視界を歪ませる。
「随分上達したじゃないか。今日はここまでにしよう」
アリアもまた、俺に合わせて手加減を続けたせいか、うっすらと頬を上気させている。額に滲んだ汗が、赤い髪の間を伝って光を弾いた。
ふらつく俺へ、彼女が歩み寄る。
肩を貸してくれるのかと思った、その瞬間。
視界が反転した。
「え……?」
気づけば、俺はアリアの腕の中にいた。
いわゆる――お姫様抱っこ。
「あ、あの、アリアさん! 自分で歩けますから!」
「遠慮するな。足が笑っているぞ。それに、主人が従者を運ぶのは当然だ」
爽やかな笑顔で、彼女はさらに抱え直す。
冷たいミスリル銀の鎧越しに、運動後の熱がじわりと伝わる。戦乙女特有の、野生の花を思わせる甘い香りが、ふわりと鼻先をかすめた。
(うわあああ……最悪だ……!)
周囲の視線が変わる。
蔑みから、驚愕へ。
そして、血走ったような嫉妬へ。
衆人環視の中、レベル1の男が、最強の美少女剣士に抱き抱えられている。
これ以上の羞恥があるだろうか。
穴があったら入りたい。
そう本気で思いながらも、俺を支える彼女の腕は驚くほど安定していて、その力強さに包まれていると、不思議と心の奥が静まっていく。
守られている、という感覚。
それは屈辱であると同時に、どこか救いにも似ていて――
俺は結局、何も言い返せないまま、朝の訓練場を後にしたのだった。




