第11話 ユキのいない「白銀の乙女」(ポンコツ日常)
クレセントの一等地、白亜の豪邸『白銀の乙女』パーティハウス。
石畳の通りに面したその屋敷は、陽光を受ければ宝石のように輝き、夜ともなれば窓から漏れる灯りと笑い声で人々の視線を集める、Sランクパーティの象徴だった。
だが今日に限っては違う。
重厚な門扉の向こう、広い玄関ホールに満ちているのは、活気ではなく沈黙。
空気はどこか淀み、家そのものが息を潜めているようだった。
「――というわけで、今日は一日、実家に仕送りを届けに帰らせてください」
今朝、俺がエプロンの紐を解きながらそう告げた時の、彼女たちの表情を思い出す。
赤髪の剣聖アリアは即座に魔剣『紅蓮丸』へ手を伸ばし、「護衛が必要だ!」と本気で出立の準備を始めた。
金髪の聖女フィーナは胸に手を当て、「荷物持ちなら私が……」と慈愛に満ちた微笑みを向けてきたが、その腕力では荷車一つまともに押せないことを俺は知っている。
青髪の大賢者ルナに至っては、「浮遊魔法で村ごと運ぼうか?」と、合理的で不穏な提案をさらりと口にした。
「目立つのでダメです」
俺――ユキは、レベル1のポーターとしての仮面を崩さぬよう、穏やかな声音でそう言って三人を説得した。
もちろん、実家に仕送りを届けるというのは嘘ではない。
だが、それだけではない。
セバスたちとの定期的な密会。
亡国アルトリア王国の王子、ルキーユ・ルド・アルトリアとしての“真の仕事”を果たすための外出だった。
夕刻。
用件を済ませた俺は、夕闇が迫る王都の空を背に、『白銀の乙女』の玄関扉を開いた。蝶番が小さく軋む音が、妙に大きく響く。
「ただいま戻りました……」
返事は、ない。
いつもなら、俺の気配を察知したアリアが弾丸のように突進してくるか、ルナが「……餌」と幽霊じみた足取りで現れるはずだ。
フィーナもまた、穏やかな笑みで出迎えてくれる。
だが今日は、静寂だけが広がっている。
鼻腔をくすぐるのは、かすかな――
しかし確実な、焦げた魔力の臭い。
嫌な予感が、背筋を撫でた。
俺は足音を殺すことも忘れ、リビングへ駆け込む。
「ルナさん!?」
ソファの上で、青髪の大賢者ルナが青白い顔のまま横たわっていた。
紫の瞳は半ば虚ろで、長い睫毛がかすかに震えている。
「……ユキ……? 戻ったのね……。空腹……。細胞が、死滅して……」
「いや、目の前のテーブルに俺が作ったサンドイッチがあるでしょう!」
俺が今朝用意した皿は、彼女の手の届く位置にきちんと置かれている。
それにもかかわらず、ルナはそれを未知の古代遺物でも見るかのように凝視した。
研究に没頭すると、食事という“現象”そのものを意識の外へ追いやる。
それが、この天才の悪癖だ。
「ん……再生した……。だが、不十分。生存戦略上、お前の肉料理が……必要」
干し肉すら食べ忘れる大賢者。
世界最高峰の頭脳を持ちながら、自分の生命維持は最低水準。
溜息が、自然と漏れた。
だが――惨劇は、まだ序の口だった。
キッチンに足を踏み入れた瞬間、俺は言葉を失う。
「……何ですか、この地獄は」
「あ、ユキ……おかえり……。いや、はは。意外と強敵だったぞ、料理」
顔中ススまみれのアリアが、ひしゃげたフライパンを握ったまま立ち尽くしていた。燃えるような赤髪は灰にまみれ、ルビーレッドの瞳だけが申し訳なさそうに揺れている。
厨房は半壊。
壁には謎の黒い物体が突き刺さり、高価な魔導コンロはアリアの規格外の筋力(STR)に耐えきれず、真っ二つに割れていた。
「……アリアさん。コンロは『叩いて』加熱するものではありません」
俺が静かに告げると、彼女は「そうなのか……」と本気で驚いた顔をする。
さらに、洗面所から「モコモコ」という不穏な音が響いてきた。
胸騒ぎを覚えながら扉を開けると――
そこは、雲海だった。
「あらあら、ユキくん……たすけてください……」
大量の泡に埋もれ、首だけを出して途方に暮れるフィーナがいる。
プラチナブロンドの髪も、サファイアブルーの瞳も、白い泡に囲まれて所在なげだ。
洗濯石鹸の量を誤り、その泡を消そうとして高位の聖魔法を叩き込んだらしい。
結果、泡は聖なる力を得て異常増殖し、彼女自身を物理的に包囲してしまったのだ。
たった一日。
俺が不在だった、それだけで。
王国最強のSランクパーティは、餓死寸前、爆発事故、泡の氾濫という三重苦で壊滅しかけていた。
ススだらけの剣聖。
ふらふらの大賢者。
泡まみれの聖女。
三人は示し合わせたように、泣きそうな顔で俺を見つめる。
「「「ユキ(くん)! おかえりなさい(!)」」」
その声に宿る安堵と必死さに、俺は深い諦観と、わずかな充足を同時に覚えた。
エプロンを締め直す。
「……アリアさんとフィーナさんは、お風呂へ。ルナさんはこれを食べて待っていてください。すぐに家を直します」
彼女たちを風呂場へ追い立てた後、俺は誰にも気づかれぬよう、小さく息を吐く。
――《土魔法》。
真っ二つに割れたコンロの分子構造を、地面を通じて把握し、再構築する。
土と鉱石の情報が指先に流れ込み、歪んだ構造が音もなく整列していく。
数秒後。
キッチンは、何事もなかったかのように修復されていた。
レベル1ポーター。
それが俺の表向きの姿。
この程度の修復など、亡国の王子にとっては呼吸に等しい。
一息ついた頃、脱衣所の扉が開く。
「あー、生き返ったぞ! やっぱり家にはユキがいないとな!」
上気した肌をバスタオル一枚で包んだアリアが、濡れた赤髪を振る。
隙間から覗く肢体に、思わず視線が泳いだ。
「ふふっ、本当に。ユキくんがいないと、世界が暗闇に見えますわ」
フィーナもまた、石鹸の香りをまとい、蕩けるような微笑みを向けてくる。
無自覚な色気。
無防備な信頼。
顔が熱くなるのを感じながら、俺は視線を逸らした。
「……みろ、ユキが照れている。可愛い奴め」
「まあ、本当。おませさんですね、よしよし」
ルナの風魔法で髪を乾かしながら、三人は俺をからかう。
騒がしく、手がかかり、目を離せばすぐに世界を半壊させかねない。
だが――
この賑やかな場所こそが、俺の隠れ蓑。
フェルゼン王国の辺境クレセントの町で築いた、かりそめの居場所。
胃痛を伴う充足感が、胸の奥にじわりと広がる。
亡国の王子、ルキーユ・ルド・アルトリア。
最強の力を隠し、レベル1を演じる少年の真の任務は、今日もまた――愛すべきポンコツお姉さんたちの生命線を、人知れず繋ぎ止めることにあるのだった。




