第10話 秘密の住まいと侍従の存在
クレセント辺境伯領の一等地。
白亜の壁に囲まれた『白銀の乙女』のパーティハウスは、磨き上げられた石畳と整えられた庭園に囲まれ、昼は陽光を受けて輝き、夜は魔導灯の淡い光に包まれる。
世の男たちが夢見る理想郷――その言葉が誇張ではないほど、華やかで、温かく、そして甘い空気に満ちている。
だが、その実態は。
熱を帯びた「甘い檻」でもあった。
「ユキ、訓練だ! 私の背中を片時も離れるなよ!」
「……ユキ。糖分が足りない。私のそばでアップルパイを焼いて」
「ユキくん、お疲れ様です。さあ、私のお膝へ……。今日はたっぷり甘やかしてあげますね」
アリアの真っ直ぐすぎる庇護欲は、炎のように真正面から俺を包囲し、ルナの静かな独占欲は、逃げ場を塞ぐ霧のように気配を絡め取る。そしてフィーナの圧倒的な母性は、抗うことを許さぬ慈愛の重力で、俺を優しく、だが確実に引き寄せる。
三者三様の「重すぎる好意」。
それに晒され続ける日常は、レベル1617のステータスを持つ俺の精神をも、確実に摩耗させていた。
(……ありがたい。だが、胃にくる)
笑顔の裏で、俺はひっそりと息を吐く。このままでは『スローライフ』どころではない。俺が隠れ蓑として築いたこのハウスが、内側から溶け落ちてしまう未来すら見える。
限界だった。
食材の不足と洗濯を口実に、俺は這う這うの体でハウスを脱出する。背後から飛んでくる「気をつけてくださいね!」「夕飯までには戻れよ!」という声を受け流しながら、大通りへと足を踏み出した。
石畳に靴底が触れる感触。人々のざわめき。荷車の軋む音。
人混みに紛れた瞬間、俺は《偽装》の出力を微調整する。ただのレベル1ポーターとしての気配を保ちながら、《土魔法:探知》を足裏から大地へ走らせた。
波紋のように広がる感覚。
半径百メートル。
地を伝う振動、建物の基礎を叩く微細な衝撃、路地裏で足を止める者の重心移動までもが、掌の上に乗る。
尾行なし。
監視の目なし。
王子の逃亡は、常に完璧でなければならない。
たどり着いたのは、郊外の町アステル、その静かな路地裏に佇む一軒家だ。蔦の絡まる古びた扉の前に立ち、俺は特定の律動で三度、二度、一度とノックする。
重厚な蝶番が、音もなく回った。
「おかえりなさいませ、ユキ坊っちゃま」
出迎えたのは、背筋を定規で引いたように伸ばした初老の男だった。
きっちりと整えられた白髪。知性を湛えた灰色の瞳。無駄のない執事服の着こなし。彼の立ち姿ひとつで、この家の空気が引き締まる。
セバス。
滅びたアルトリア王国の筆頭侍従にして、俺――ルキーユ・ルド・アルトリアの教育係。
「セバス。その呼び方はやめてくれと、何度も言っているだろう」
「これは失礼いたしました。ですが、私にとっては今も、貴方様こそが唯一の主でございますので」
恭しく一礼し、俺の外套を受け取る。その所作には、かつての王宮の空気が色濃く宿っていた。滅びてもなお消えない誇りと、忠誠の重み。
「ユキ様ーーっ! 会いたかったです!」
奥から弾けるような声が飛ぶ。
栗色のポニーテールを揺らし、メイド服を翻した少女が駆け寄ってきた。
ミミだ。
勢いのまま、遠慮なく俺の首に腕を回す。
「お怪我はありませんか? もう、一人で危ないところに行っちゃダメって言ったのに!」
ぎゅっ、と。
年上の「お姉さん」である彼女の柔らかな体温が、至近距離で伝わる。エメラルドの瞳が真っ直ぐ俺を覗き込み、陽だまりのような甘い香りが鼻孔をくすぐった。
顔が、熱い。
「よせ、暑苦しい……。怪我などするものか、ただのD級ダンジョンだ」
強がりの仮面を被り、俺は必死に視線を逸らす。豊かな胸元から逃れるように身を引きながらも、胸の奥では別の感情がほどけていた。
三聖女の過保護とは違う。
ここには、家族のような近さがある。
張り詰めていた神経が、ようやく緩むのを自覚する。
リビングに通され、セバスの淹れた紅茶が置かれる。立ち上る香りは深く、静かに肺を満たした。窓の外では、夕暮れの光が壁を橙に染めている。
俺は近況を報告した。
Sランクの彼女たちが、戦闘では無双する一方で、生活面では壊滅的にポンコツであること。俺が「偶然」を装いながら、裏で補修し、補給し、調整し、パーティの心臓部を支えていること。
「なるほど。心臓部としての地位を確立し、内側からパーティを掌握されたわけですか。さすがは王子、見事な潜伏工作です」
「……セバス、君の解釈はいつも極端すぎるんだ」
苦笑しつつカップを置く。
だが、次の言葉を口にする時、俺の瞳には王子の鋭さが戻っていた。
「帝国の動きはどうだ?」
空気が変わる。
セバスの表情が、一瞬で騎士のそれへと切り替わった。
「リゼルド帝国は依然として『失われた王家の血脈』……すなわち貴方様を血眼で探しております。また、アルトリア王国の生き残りたちが、ユキ様を旗印に祖国奪還の『反乱』を準備しており……」
「待て。反乱? 初耳なんだけど。俺は平穏に生きたいだけだぞ?」
「当然です。王子にはレベルアップに専念していただくため、我々が勝手に動いておりましたので」
満面の笑みを浮かべるミミ。
真顔で頷くセバス。
俺は深く、深く息を吐き、額に手を当てた。
ハウスに戻れば、過保護なお姉さんたちの「甘い地獄」が待っている。
この隠れ家には、俺を「希望の星」として勝手に革命を企てる、最高に忠実で厄介な家族がいる。
どちらも、俺の望んだ未来ではない。
それでも――。
「……セバス。その話は一旦、棚上げだ。俺は、今の賑やかな日常を守りたいだけなんだ」
それが本音だった。
戦場ではなく、笑い声のある場所を。王座ではなく、食卓を。
俺は《アイテムボックス》に補充された食材を詰め込み、再び《偽装》を起動する。
レベル1のポーター。
平凡で、無害で、目立たない少年。
亡国の王子、ルキーユ・ルド・アルトリア。
俺の戦場は、どうやら魔王の城よりも、この愛おしくも面倒な「二重生活」の維持にあるらしい。




