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幼なじみを王子に奪われ、EXスキルだけで追放された俺は、捨てられ巫女と魔王領へ亡命する ~新潟の米農家息子、少女魔王とクソッタレ異世界を耕し直す~  作者: ラズベリーパイ大好きおじさん


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王妃になった幼なじみと、天上天下の勇者

平穏は、二度目の間引きまでしかもたなかった。


正確に言えば、平穏なんて最初から大してなかった。備蓄は薄いし、畑はまだ小さいし、枯れ瘴は油断すると水路の端からじわじわ戻ってくる。俺は毎朝、寝起きの頭で土を触り、黒ずんだ場所を見つけてはうんざりしていた。


それでも、砦には前より人の声があった。


苗床の前で子どもたちがしゃがみ込み、昨日より伸びたとか、こっちの葉っぱの方が強そうだとか、ほとんど意味のない議論をしている。兵士たちも鍬の持ち方が少しまともになった。遠野雫は「弓より鍬が似合ってきたんじゃない?」と笑い、言われた兵士に本気で落ち込まれていた。


俺も俺で、EXの使い方に少し慣れてきた。


土から枯れ瘴を抜くと、指先が冷える。水から濁りを抜くと、目の奥が重くなる。種の生命力を伸ばすと、腹が減る。わかりやすいのか、わかりにくいのか微妙な代償だった。


「大和さん、今日はそこまでです」


宮古凪が後ろから言った。


俺は黒い塊を封じ布の上に落として、息を吐いた。


「まだいけます」


「その返事をする人は、だいたいもう駄目です」


「凪さん、治癒師ってみんなそんなに厳しいんですか」


「倒れる人が素直なら、優しくできます」


それは俺が悪いという意味だった。


凪は俺の手を取り、掌に残った冷えを緑の光でゆっくり溶かしていく。治癒魔法は便利だが、本人いわく何でも治せるわけではないらしい。特に俺のEXの疲労は、傷というより消耗に近いので、休ませるのが一番だと何度も言われた。


休めるなら休んでいる。


そう言いたかったが、言ったら余計に怒られそうなので黙った。


「凪さん、大和さんは今日も限界値を超えましたか」


青葉が板を抱えてやってきた。最近の彼女は、巫女装束ではなく、動きやすい生成りの服を着ている。胸元の若葉の飾りだけはまだ外していないが、それ以外はすっかり泥仕事に馴染んでいた。


「超えました」


「超えてない」


「超えました」


凪と青葉が同時に俺を見た。


二対一はずるい。


「……少しだけ超えたかもしれない」


「記録しておきます」


「それ記録する必要ある?」


「あります。大和さんは自分の体力を多めに見積もる傾向があります」


「それも書くな」


青葉は少し笑って、板に何かを書き込んだ。絶対に書いた顔だった。


その時、砦の方から鐘が鳴った。


一回、二回、三回。


作業場の空気が変わった。


ただの呼び出しではない。緊急の鐘だ。兵士たちが鍬を置き、雫が見張り台の方へ顔を向ける。凪の表情もすぐに治癒師から砦の人間のそれに変わった。


「大和、青葉、楓様のところへ」


雫が言った。


「畑は?」


「畑より先に、燃えそうな火種」


嫌な言い方だった。


砦の広間に入ると、すでに花巻楓、北上紫波、平泉衣川が集まっていた。楓は椅子に座っていなかった。地図台の前に立ち、広げられた紙を見下ろしている。


紫波が俺を見るなり言った。


「宮城野連坊が消えました」


「連坊?」


「祭りの前日から水路工事に加わっていた流民です。名簿上は南東の焼け村出身。ですが、昨夜から姿がない。持ち場の近くで紙鳥の羽が見つかりました」


俺は少し遅れて理解した。


「王国の密偵か」


「その可能性が高いです」


雫が横から言った。


「見落としたのは私の失敗。いやー、地味な顔ってずるいよね。四歩目で射る前に一歩目から見えないんだもん」


軽い口調だったが、目は笑っていなかった。


紫波は地図の上に小さな木片を置いた。


「王国がここでの農地再生を知ったと考えるべきです。食料が戻る前に潰しに来ます」


「畑を?」


「畑を、です」


紫波の声は冷静だった。


その冷静さが、かえって腹に来た。


人を殺すより、畑を殺す方が効く。王国はそれをよく知っている。魔王領が飢えていれば、民は増えない。兵も動けない。王国が言う“魔王の荒れ地”という嘘も保てる。


けれど、緑が生えたら困る。


魔王領の人間が飯を食って笑ったら困る。


だから刈る。


「わかりやすくクソだな」


俺が言うと、衣川が鼻を鳴らした。


「わかりにくいクソよりは扱いやすい」


「そういう問題ですか」


「そういう問題でもある」


楓は地図から顔を上げた。


「大和、畑を守る手はある?」


「戦の手はない。でも畑の守りなら、少しは」


俺は地図を覗き込んだ。


砦の南側に苗床。東に復旧した水路。西の低地はまだ水が溜まりやすい。北側は沢へ続く。王国軍が来るなら、旧街道から南東へ回ってくるはずだ。兵士としての勘ではない。畑を潰すなら、どこから入るのが楽かという話だ。


「苗床の周りに水を回す。火を使われた時のために。枯れ瘴の矢を打ち込まれたら、俺が抜く。ただし全部は無理だ。濃い場所だけにする。人は畑に固めない方がいい。狙われる」


紫波がすぐに板へ書き込む。


「作業者の避難経路は?」


「水路沿いじゃなくて、畦の内側。水路はたぶん敵も見る。あと、西の低地はぬかるませられるなら、騎馬を止められる」


「水を入れすぎれば苗床に逆流します」


「だから衣川さんに聞く」


衣川が杖で地図を叩いた。


「西の旧溝を開ければ低地だけ沈む。だが、開けすぎれば戻せんぞ」


「戻せない水は開けない。親父に殺される」


「親父とは誰だ」


「実家の魔王みたいなもんです」


楓が少しだけ笑った。


その笑いはすぐに消えた。


「では、準備を」


紫波が頷き、雫がもう走り出していた。凪は医療所へ向かい、青葉は俺の横に残った。


「大和さん」


「ん?」


「もう一つ、報せがあります」


嫌な予感は、こういう時ほど当たる。


青葉は一枚の布告を差し出した。王国の文字で書かれているので、俺には読めない。青葉が読み上げる前から、胸の奥がざわついた。


「王都青葉よりの布告です。勇者五十沢六日様は、八乙女レオン殿下の正妃として迎えられ……」


青葉の声が一度止まった。


俺は先を促さなかった。


促したくなかった。


それでも青葉は、役目のように続きを読んだ。


「すでに王家の御子を宿されたこと、神殿の鑑定により明らかとなった。勇者王妃の御身をもって、王家と異世界の恩寵は一つとなり、魔王討伐の聖戦は新たなる光を得る」


音が消えた。


実際には、広間の外で人が走っている。鐘もまだ鳴っている。紫波の指示が飛び、雫の声が遠くから聞こえる。


でも、俺の耳には何も入ってこなかった。


六日が。


レオンの。


子を。


頭の中で言葉がばらばらになって、うまく繋がらない。繋げたくないのに、布告の意味だけは勝手に形になっていく。


俺は日数を数えかけた。


召喚されてから何日だ。王城にいた期間は。追放されてから。畑を作って。収穫祭があって。


数えている自分が気持ち悪くなった。


「嘘だろ」


声が出た。


青葉は答えなかった。


「青葉、嘘だって言えよ」


「……王国の布告には、嘘も混じります」


「そういう言い方じゃなくて」


「でも、神殿の鑑定が本当に行われたなら、初期でも胎脈を見ることはできます」


青葉の声は震えていた。


彼女だって言いたくないのだろう。けれど、嘘で俺を楽にすることを選ばなかった。


それが青葉らしいと思った。


残酷なくらいに。


「大和さん」


楓が静かに言った。


「今日は後方に下がってもいい」


年下の少女に気遣われている。


そう思うと、少し笑えた。笑えたと言っても、喉の奥が引きつっただけだ。


「畑は待ってくれない」


「あなたの心も、待たせすぎると壊れる」


「もうだいぶ壊れてるから、多少は平気だ」


青葉が何か言いかけた。


俺は首を横に振った。


今、慰められると駄目だ。たぶん崩れる。崩れている場合じゃない。王国が来る。畑を焼きに来る。六日も来るかもしれない。いや、勇者王妃なんて呼ばれているなら、来ないわけがない。


俺は布告を見た。


読めない文字が並んでいる。


その向こうに、白いドレスを着た六日の姿が浮かんだ。王城の広間で、レオンに手を取られていた六日。俺を見て、助けてとも、ごめんともつかない目をしていた六日。


そして庭で言った六日。


現実を見た方がいいよ。


「現実か」


俺は呟いた。


こんな現実、見たくもなかった。


王国軍が姿を見せたのは、その日の夕方だった。


青い旗が森の向こうに並んだ。


騎士団の旗。神殿兵の旗。八乙女王家の若葉紋。そして、白い布に金の刺繍を施した新しい旗。


勇者王妃の旗だと、青葉が言った。


砦の前には防衛線が敷かれていた。といっても、立派な城壁があるわけではない。水路を利用した浅い堀、ぬかるませた低地、土嚢代わりの袋、急ごしらえの柵。俺が知っている戦場とは、映画やゲームの中のそれだけだ。だから偉そうなことは言えない。


ただ、ここにあるものは全部、足りなかった。


人も、武器も、時間も。


それでも、皆が動いていた。


楓は砦の前に立ち、緑の外套を風になびかせていた。雫は弓兵を森の影に散らしている。紫波は地図ではなく実際の地面を見ながら指示を出し、凪は医療所と前線を何度も往復していた。衣川は水路のそばで、若者たちに怒鳴っている。


「そこは踏むな! 罠より畦を壊す方が罪が重い!」


戦場で畦を気にする老人は、たぶんこの人くらいだ。


でも俺は少し安心した。


畦を気にできるなら、まだ終わっていない。


王国軍の先頭に、長町泉がいた。


銀の鎧。短く切った髪。相変わらず感情の読みにくい顔。王城から俺を追放した時と同じ目で、こちらを見ている。


彼女の横に、勾当台国分が立っていた。宰相らしいが、戦場にも出るらしい。もっと安全な部屋で偉そうにしていればいいのに、と心から思った。


勾当台は杖を掲げた。


声が、空気を震わせて広がる。


「モリューカの民に告げる。偽りの領主、花巻楓を差し出せ。王国を裏切った巫女、杜野青葉を引き渡せ。異端の召喚者、塩沢大和は勇者王妃の慈悲により保護される。抵抗せぬ者には王国の寛大なる裁きが与えられる」


「寛大な裁きって、もう裁く気満々じゃないですか」


俺が言うと、隣の青葉が苦笑した。


「王国の布告文は、だいたいそうです」


「直した方がいいぞ」


「もう王国の巫女ではないので」


青葉はそう言って、俺の横に立った。


逃げない。


その姿を見て、少しだけ腹が決まった。


楓が一歩前に出た。


小さな体なのに、声はよく通った。


「ここはモリューカ。あなたたちが魔王と呼んだ土地です。私たちは誰も差し出さない。畑も、人も、もうあなたたちのものではない」


勾当台の顔が歪んだ。


だが、最初に動いたのは神殿兵だった。


後方から黒い矢が放たれる。


普通の矢ではない。矢じりの周りに黒い煙が絡んでいる。枯れ瘴だ。


狙いは兵ではなかった。


苗床。


俺の体が先に動いた。


「青葉、記録はいらない! 凪さん呼んで!」


「はい!」


俺は畑の手前に膝をつき、地面に手を当てた。


矢が苗床の端に刺さる。黒い染みがじわっと広がった。土が嫌な音を立てる。腐る音なんて本来聞こえないはずなのに、俺の耳には確かに聞こえた。


抜く。


余計なものだけを。


EX。


掌から腕へ、冷たいものが這い上がる。黒い煙が土から浮き、泥の塊のようにまとまる。凪が駆け寄り、封じ布を投げる。俺はそれを布の上に落とした。


一つ。


二つ。


三つ。


「大和さん、無理です!」


「無理でもやる!」


四つ目を抜いた時、視界が白く揺れた。


凪が肩を掴む。


「死にたいんですか!」


「畑が死ぬよりましだ!」


「人が死んだら畑は見られません!」


その通りだった。


正しすぎて腹が立つ。


俺は歯を食いしばり、立ち上がった。全部を救うのは無理だ。なら、優先順位を決める。苗床の中心。井戸に近い場所。子どもたちが毎朝見に来る畦。


それ以外は、あとで何とかする。


何とかできる保証なんてないが、今はそう決めるしかなかった。


前線では戦いが始まっていた。


雫の霧が王国軍の足元を包む。魔王軍の弓兵が森から矢を放つ。紫波の指示で、王国の騎馬が西の低地へ誘導され、泥に足を取られた。衣川が笑っていた。戦場で老人があんなに楽しそうにするのはどうかと思う。


長町泉はさすがだった。


騎士団の混乱を最小限に抑え、神殿兵を守りながら前へ出る。畑を狙う神殿兵に対して、彼女は一度だけ鋭い視線を向けた。だが止めなかった。止められないのか、止める気がないのか、俺にはわからなかった。


そして、霧が割れた。


白い光が走った。


雫の作った霧が、まるで薄い布を裂かれたように左右へ散る。


その向こうに、六日がいた。


白銀の鎧を着ていた。


胸には八乙女王家の青葉紋。腰には細身の剣。肩から白い外套が流れ、額には小さな金の飾りが乗っている。田んぼの畦で麦わら帽子を押さえていた幼なじみとは、あまりにも違う。


腹は鎧で隠れていて、何もわからなかった。


わからないのに、布告の文字が頭の中で勝手に読まれる。


王家の御子を宿された。


喉の奥が焼けた。


六日は俺を見つけた。


一瞬、昔の顔に戻った気がした。


だが、次の瞬間には勇者王妃の顔になっていた。


「大和くん」


声は届いた。


戦場の音の中なのに、そこだけまっすぐ俺の耳に入ってきた。


「迎えに来たよ」


笑っていなかった。


怒ってもいなかった。


ただ、正しいことを告げる人間の声だった。


「そこは、大和くんのいる場所じゃない。レオン殿下は許すって言ってる。魔王に騙されていただけだって」


俺は何か言おうとした。


けれど、声がすぐに出なかった。


青葉が俺の前に出かける。


「五十沢様、あなたは王命の術式に」


六日の目が青葉へ向いた。


冷たかった。


「裏切り者の巫女さんは黙ってて」


青葉の体が止まる。


俺は一歩前に出た。


「六日。俺を見ろ」


「見てるよ」


「違う。ちゃんと見ろ」


六日の眉が少し動いた。


「大和くんこそ、ちゃんと見て。ここは魔王領だよ。敵の場所だよ。そんなところで畑なんか作って、どうするの?」


まただ。


現実を見た方がいいよ。


あの時と同じ響きがあった。


「飯を食うんだよ」


俺は言った。


「ここの人たちは腹を空かせてた。王国に焼かれて、奪われて、魔王って名前を押しつけられて、それでも生きてた。だから飯を作ってる」


「そんなの、魔王に言わされてるだけだよ」


「お前はレオンに何を言わされてる」


六日の顔が歪んだ。


ほんの一瞬だった。


その一瞬で、俺はまだ何かが残っていると思ってしまった。


思ってしまったから、余計に苦しかった。


六日は剣を抜いた。


動きは速かった。けれど、剣を抜く手つきそのものは、どこかぎこちない。六日は剣道なんてやっていなかったし、喧嘩が強いタイプでもなかった。


なのに、構えた瞬間、空気が変わる。


世界が六日の味方をする。


そんな馬鹿な表現しか浮かばなかった。


雫が木陰から矢を放った。


六日は見てもいないのに、剣先でそれを弾いた。続けて飛んだ二本目と三本目は、なぜか軌道が少し逸れて、六日の外套だけをかすめた。


紫波の指示で、足元のぬかるみに誘導されたはずなのに、六日は沈まない。彼女が踏む場所だけ、偶然そこに石がある。槍を構えた兵士が横から出ると、兵士の足が滑る。六日が何かしたわけではない。ただ、相手が勝手に失敗する。


最強無敵超絶チート天上天下唯我独尊。


ふざけた名前だと思った。


今でもふざけていると思う。


けれど、目の前で見ると、笑えなかった。


あれは単に強いスキルではない。


六日が勝つために、周りの全部が帳尻を合わせている。


長町泉が声を張る。


「勇者様を中心に前進! 神殿兵、畑への術式射撃を継続!」


黒い矢がまた飛ぶ。


俺は走った。


苗床へ向かう矢を一本、手で掴もうとして失敗した。矢は畦に刺さる。黒い染みが広がる。抜く。吐き気をこらえる。次。抜く。次。


六日がこちらへ歩いてくる。


止めようとした魔王軍の兵士たちが、次々に崩れる。斬られているわけではない。剣の腹で払われ、足を取られ、武器を弾かれ、戦闘不能にされている。六日は殺さないようにしているのかもしれない。そう思うと、少しだけ救われそうになった。


でも、畑への矢は止めなかった。


それが答えだった。


「大和くん、もうやめて」


六日が言った。


「そんなことしても無駄だよ。レオン殿下が言ってた。大和くんは優しいから、必要とされると逃げられなくなるって」


「よくわかってるじゃねえか、あいつ」


「だから戻ろう。私がお願いすれば、きっと許してくれる」


「追放した相手に許してもらうのか、俺が」


「大和くんが意地を張らなければ、こんなことにはならなかったんだよ」


痛かった。


剣で斬られるより、たぶん痛かった。


青葉が隣で息を呑む。


俺は六日から目を逸らさなかった。


「六日、それはお前の言葉か」


「私の言葉だよ」


「本当に?」


「本当に」


六日は言い切った。


その時、彼女の胸元の青い宝石が薄く光った。


王家の指輪ではない。首飾りになっている。レオンのものと同じ色の石。


俺の中で、何かがざらりと動いた。


見える。


六日の体から、金色の線が伸びていた。


青葉の祈印を追跡していた青い糸とは違う。もっと太く、もっと傲慢な線だ。六日を中心に広がり、周囲の兵士たち、雫、楓、青葉、俺へ絡みついている。


敵。


障害。


倒すべきもの。


言葉ではないのに、意味だけがわかった。


六日のスキルは、俺たちを勝利の対象にしている。


対象に入った瞬間、六日が勝つように世界が動く。


なら。


対象から外せばいい。


俺は膝をつき、地面に手を当てた。


土は震えていた。水路の水も、兵士たちの足音も、畑の根も、全部が別々に動いている。その上から、六日の金色の線が乱暴に覆いかぶさっている。


水路に余計な水が入った時と同じだ。


切るのではない。


壊すのでもない。


流れから外す。


「EX」


声が勝手に出た。


頭の奥で、今までより大きな音がした。


扉が開く音に似ていた。


金色の線に指をかける。熱い。指先が焼けるようだった。俺は歯を食いしばり、その線から楓の兵士たちを剥がす。雫を剥がす。青葉を剥がす。苗床へ走る子どもを剥がす。


全部は無理だ。


広すぎる。


だから、今この瞬間、六日の剣が届く範囲だけ。


「外れろ」


俺は言った。


六日が剣を振った。


その剣は、雫の肩を捉えるはずだった。


だが、雫は何もしていないのに一歩だけ外へずれた。いや、違う。雫が避けたのではない。六日の剣が、雫を敵として認識しそこねたように見えた。


刃が空を切る。


六日の目が見開かれた。


「え?」


初めて、六日の動きが止まった。


その隙に、雫が六日の足元へ矢を撃つ。殺す矢ではない。地面を崩す矢だ。六日は飛び退いた。今度は普通に、足元を見て、判断して、退いた。


最強の自動補正が、一瞬だけ途切れた。


「大和さん!」


青葉の声が遠い。


俺は吐きそうだった。体の内側から水を全部抜かれたような感じがする。膝が崩れる。掌が熱いのか冷たいのか、もうわからない。


でも、六日を見た。


六日も俺を見ていた。


その目が揺れていた。


「大和、くん……?」


昔の声だった。


田んぼで泥を拭ってくれた時の声。


用水路に落ちたあと、泣きながら俺の名前を呼んだ時の声。


「六日!」


俺は立とうとした。


立てなかった。


六日は胸元の宝石を押さえ、苦しそうに息をした。


「逃げて……大和くん……レオンは、心を……」


言葉が途切れる。


六日は腹のあたりに手を当てた。


鎧の上からだった。何かを守るようにも、何かを拒むようにも見えた。


「この子を、王家の……器に……」


青い宝石が強く光った。


六日の表情が消えた。


本当に、消えた。


泣きそうだった顔も、苦しそうだった目も、全部がすっと引いていく。そこに残ったのは、勇者王妃の顔だった。


後方で、白馬に乗った男が見えた。


八乙女レオン。


戦場の土も血も届かない場所で、綺麗な鎧を着ている。彼は俺を見て、笑った。こちらまで聞こえるはずのない声が、青い宝石を通して響いた。


「六日さん。君の優しさは敵に利用されている。目を覚まして」


六日はゆっくり剣を構え直した。


「大和くんは、私を迷わせる」


声が冷たかった。


「だから、そこにいないで」


剣が振られた。


今度は俺に向かって。


青葉が前に飛び出した。


俺は叫んだつもりだったが、声にならなかった。


その瞬間、楓の緑の外套が視界に入った。


楓が両手を広げる。地面から薄い光の壁が立ち上がり、六日の剣圧を受け止めた。壁は一瞬でひび割れ、楓の体が後ろへ滑る。小さな靴が土を削った。


「楓!」


「大丈夫!」


大丈夫な顔ではなかった。


でも倒れなかった。


雫が霧を濃くし、紫波が叫ぶ。


「撤退線まで下がれ! 畑中心部は維持、外縁は捨てる! 大和を運べ!」


「俺は」


「運べ!」


紫波の声は、反論を許さなかった。


兵士二人が俺を抱え上げる。情けないが、抵抗する力は残っていなかった。視界が揺れる。六日が遠ざかる。レオンが見える。長町泉がこちらを見ている。


長町騎士団長の表情は硬かった。


彼女は六日とレオンを見て、それから畑を見た。ほんのわずかに唇を噛んだように見えた。


「長町騎士団長!」


神殿兵が叫ぶ。


「勇者様が押しています! このまま畑を焼き払えば」


「日が落ちる」


長町泉は短く言った。


「泥地に兵を取られ、前衛は分断されている。勇者様にこれ以上の単独前進を強いるな。全軍、後退」


「しかし殿下が」


「責任は私が負う」


その命令は通った。


王国軍はゆっくり退き始めた。


撤退というより、予定の半分を終えたから引くような動きだった。畑を完全には焼けなかった。砦も落ちなかった。だが、こちらも勝ったとは言えない。外縁の畑は黒く染まり、怪我人は多く、苗床の一部は潰れた。


六日は最後まで俺を見ていた。


いや、俺を見ていたのかどうかもわからない。


白い外套が夕暮れに揺れる。


その隣にレオンが馬を寄せ、六日の肩に手を置いた。六日は何も言わず、彼に従った。


俺はそれを見ていた。


また見ているだけだった。


王国軍が森の向こうへ消えたあと、砦には勝ち鬨も歓声もなかった。


残ったのは、呻き声と、焦げた匂いと、泥の中に落ちた矢だった。


俺は凪に医療所へ運ばれかけたが、途中で無理やり降ろしてもらった。凪は本気で怒った顔をしたが、俺が苗床の方を見ると、少しだけ黙った。


「三つだけです」


「え?」


「枯れ瘴を抜くのは三つだけ。それ以上やったら、今度こそ縛って寝かせます」


「治癒師の発言じゃない」


「患者が患者らしくないので」


俺は三つだけ抜いた。


本当は十も二十も抜きたかった。黒い染みはそこら中にある。でも三つ抜いたところで、視界が暗くなった。凪の判断は正しかったらしい。腹立たしい。


青葉が隣に膝をついた。


彼女も泥だらけだった。額に薄い傷があり、袖が裂けている。それでも板を抱えている。戦場でも記録を手放さなかったらしい。


「大和さん」


「青葉、六日が言ったこと」


「聞きました」


この子を、王家の器に。


その言葉が、耳の奥に残っている。


六日が本当に子を宿しているのか。


その子が何なのか。


王国が何をする気なのか。


考えるほど、胃の中が冷えていく。


「俺、あいつを助けたい」


声がかすれた。


「でも、許せるかはわからない」


青葉は頷いた。


「はい」


「六日が悪くないって言われても、俺が傷ついたことは消えない」


「はい」


「それでも、レオンの道具で終わらせたくない」


「はい」


青葉はそれ以上、余計なことを言わなかった。


ただ、俺の隣にいた。


夕暮れが終わり、夜が来る。


畑の一部は黒くなった。けれど、苗床の中心は残っていた。子どもたちが見に来ていた小さな緑は、泥をかぶりながらもまだ立っている。


楓が少し離れた場所で、怪我人に声をかけていた。


雫は折れた矢を拾い集めている。紫波はもう次の防衛線を考えている顔だ。衣川は焦げた畦の前で腕を組み、「直すぞ」とだけ言った。


直す。


そうだ。


壊されたなら、直す。


焼かれたなら、また植える。


奪われたなら、奪い返す。


ただし、同じやり方ではない。


青葉が静かに聞いた。


「復讐しますか?」


俺は黒く染まった土を握った。


冷たい。重い。腹が立つ。


けれど、その下にはまだ生きた土がある。


「する」


俺は言った。


「ただし、あいつらと同じやり方ではしない」


青葉は俺を見た。


俺は続けた。


「畑を焼いて、人の心をいじって、子どもまで道具にするようなやり方じゃない。もっと別のやり方で、あいつらの足元から全部ひっくり返す」


夜風が吹いた。


焦げた匂いの中に、土の匂いが少しだけ混ざっていた。


「ざまぁの種は、もう植えた」


自分で言って、少しだけ笑った。


笑えたことに、自分で驚いた。


「収穫まで、待たせてやる」

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