新潟の米農家の息子、魔王領を耕す
その場が、妙に静かになった。
俺としてはかなり真面目に言ったつもりだったのだが、周囲の反応を見る限り、魔王に亡命してきた召喚者の第一声としては不適切だったらしい。
まあ、わからなくもない。
王国に追放されました。勇者の幼なじみを王子に奪われました。スキルはよくわかりません。でもまず飯を作ります。
並べてみると、俺でも少し心配になる。
最初に笑ったのは遠野雫だった。
「いいね。魔王討伐より先にご飯。私はそういうの嫌いじゃないよ」
「雫」
花巻楓が軽くたしなめると、雫は肩をすくめた。
「だって楓様、この人、王国の召喚者なのに剣も抜かずに畑見てるんですよ。変なの」
「変なのは否定しないけれど、話は聞く」
楓は俺をまっすぐ見た。
小さい。年下だ。たぶん、俺よりずっと。
なのに、その目は王城にいた大人たちより落ち着いていた。レオンの目は人を測る目だったが、楓の目は人の言葉を逃がさない目だと思った。
「飯を作ると言ったわね。どうやって?」
「それを見るために、畑と水と倉庫を見せてほしい」
周囲がざわついた。
「倉庫だと?」
「兵糧庫を王国の者に見せるのか」
「巫女も一緒だぞ」
当然の反応だった。俺が逆の立場でも同じことを言う。
その時、部屋の奥から女の声がした。
「楓様。確認しますが、本当に見せるおつもりですか」
現れたのは、髪をきっちり後ろで結んだ細身の女性だった。年は二十代後半くらい。派手さはないが、動きに無駄がなく、手には書き込みだらけの板を抱えている。王国の貴族とは違う意味で近寄りがたい。
雫が小声で言った。
「出た、北上紫波。数字で人を殴る女」
「雫。聞こえています」
「聞こえるように言ったからね」
北上紫波と呼ばれた女性は雫を無視し、楓の前で軽く頭を下げた。
「兵站と民生を預かる立場として申し上げます。召喚者と王国の巫女に食糧事情を開示するのは危険です。弱みを握られます」
「隠しても、食べ物は増えないわ」
楓は静かに言った。
紫波は少しだけ目を伏せた。反論はあるが、言葉としては出さない。そういう顔だった。
「では、私も同行します。勝手に触れられては困りますので」
「触る前に聞くよ」
俺が言うと、紫波は俺を見た。
「王国の方は皆そう言います」
「俺は王国の人間じゃない。勝手に呼ばれて、勝手に捨てられただけだ」
紫波の表情は変わらなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線が俺の手に落ちた。
田んぼで作業していた頃の傷や硬くなった皮は、この世界に来ても消えていない。王城で着替えさせられても、そこまでは変わらなかったらしい。
「……手は、貴族のものではありませんね」
「米農家の息子の手だよ。農家本人ってほど立派でもないけど」
「米?」
紫波は聞き慣れない言葉のように眉を寄せた。
「水を張った田で育てる穀物。まあ、こっちに同じものがあるかは知らない」
「水穀に近いものなら、古い記録にあります」
そう言ったのは、暖炉の近くに座っていた老人だった。
俺はさっきまで気づかなかった。壁際の影みたいに静かに座っていたからだ。白い髪を後ろで束ね、深い皺のある顔をしている。杖を持っているが、目は鋭い。
楓が言った。
「平泉衣川。古い水路と土地の記録を知っている人よ」
老人、平泉衣川は俺をじろりと見た。
「王国の小僧が、土を見るというのか」
「見るだけならただだからな」
「見てもわからぬ者が多い」
「それはたぶん、うちの親父も同じこと言う」
衣川は鼻を鳴らした。
認めたわけではないが、即座に追い返す気もないらしい。
楓は少し考えてから頷いた。
「倉庫、畑、水路を見せます。ただし、勝手な行動は許さない。雫、監視を」
「了解。四歩目で射るやつね」
「できれば射らないで」
「努力はします」
努力で済ませていい話ではない気がしたが、今の俺に贅沢は言えなかった。
砦の中を出て、まず倉庫へ向かった。
外に出ると、昼の光の下でモリューカの貧しさがよりはっきり見えた。夜明けや森の中ではわからなかったが、砦の壁は傷だらけで、家々の屋根も継ぎはぎだらけだった。子どもたちの服は大きさが合っておらず、何度も縫い直した跡がある。
だが、汚い場所ではなかった。
壊れている。足りない。疲れている。
でも、諦めて放り出された場所ではない。誰かが毎朝掃き、誰かが水を汲み、誰かが割れた板を打ち直している。そういう手の跡があった。
倉庫は砦の北側にあった。厚い木の扉を開けると、乾いた穀物の匂いと、少し酸っぱい匂いが混ざって流れてきた。
紫波が灯りを掲げる。
中には袋が積まれていた。だが、想像していたよりずっと少ない。袋の口を開けて見せられると、中には小粒の雑穀と豆、干した芋のようなものが入っていた。
「現在の備蓄は、通常配給で十二日分。切り詰めて十八日。さらに薄めれば二十二日です」
紫波が淡々と言った。
淡々としすぎていて、逆に胃が重くなった。
「二十二日過ぎたら?」
「森で採れるものと、狩りに頼ります。ですが、今年は獣も減っています。王国軍が国境沿いを焼きましたから」
「畑の収穫は」
紫波は少し黙った。
「見ればわかります」
その言い方が、十分な答えだった。
倉庫を出て畑へ向かう途中、例の男の子がいた。青葉を見て「父ちゃん返してくれるの」と言った子だ。母親らしき女性の後ろに隠れて、こちらを見ていた。
青葉の足が一瞬止まる。
俺は何も言わなかった。言えることがなかった。
青葉も言い訳しなかった。ただ、深く頭を下げた。
子どもは不思議そうな顔をした。母親は青葉から子どもを庇うように引き寄せたが、怒鳴りはしなかった。怒鳴る体力も惜しいのかもしれない。
畑は、近くで見るとさらに悪かった。
土が硬い。表面が灰色に乾いているのに、少し掘ると嫌な湿り気がある。水が抜けていない。畝は崩れ、水路は詰まり、ところどころ黒い染みが広がっている。雑草すらまばらだった。
俺はしゃがみ、土を指で崩した。
重い。
冷たい。
匂いが変だ。
田んぼの泥は、臭い時でも生き物の匂いがする。藻とか、藁とか、微生物とか、とにかく何かが動いている感じがある。ここの土は違った。何かに蓋をされている。息ができずに腐りかけているような匂いだった。
「この黒い染みは?」
「枯れ瘴です」
答えたのは宮古凪だった。彼女は薬箱を持ったまま、少し離れた場所に立っていた。
「王国はモリューカの呪いだと言っています。でも、実際には王国の神殿兵が撒いていった術式です。作物を枯らし、井戸を濁らせ、人の体にも悪い」
「神殿兵って、神様の名前で畑を殺すのか」
「はい」
凪は静かに言った。
その静けさがきつかった。
怒鳴るでも、泣くでもない。あまりに何度も見てきたから、感情が表に出なくなっているような声だった。
「触らない方がいいです。長く触れると熱が出ます」
「もう触った」
凪が少しだけ目を細めた。
「ではあとで診ます」
「いや、今そういう優しさで圧をかけるのやめてください」
雫が横で笑った。
「凪に逆らわない方がいいよ。治癒師って、体のどこが痛いか全部知ってるから」
「脅し方が独特だな」
俺はもう一度土を見た。
黒い染み。
枯れ瘴。
王国が撒いた、畑を殺す術式。
名前はどうでもいい。要するに、土に混ざった余計なものだ。水路に詰まった泥、田んぼに生えたヒエ、苗箱に入った石。それらとは規模も性質も違うのだろうが、俺の中では同じ場所に分類された。
抜くもの。
俺は指先に意識を集めた。
昨夜、青葉の祈印から伸びる糸を外した時の感覚を思い出す。切るのではなく、流れから外す。対象から抜く。
今度は土だ。
黒いものだけを抜く。
頭の奥で、また鍵が合うような音がした。
EX。
声に出したかどうかは、自分でもわからない。
指先の下で、土が震えた。
黒い染みが、細い煙のように浮き上がる。周囲の兵士たちが息を呑んだ。青葉が一歩近づき、楓が手を上げて周りを止める。
黒い煙は俺の手のひらの上で絡まり、泥の塊みたいになった。見た目は炭と油を混ぜたようなものだ。嫌な匂いがした。
胃の奥がひっくり返りそうになる。
「大和さん、手を離して!」
凪の声で我に返った。
俺は反射的にその塊を地面に落とした。凪がすぐに布を被せ、緑の光で封じる。布の内側で何かがじゅっと音を立てた。
途端に、体から力が抜けた。
膝が沈む。
青葉が支えてくれなかったら、そのまま土に顔から突っ込んでいたと思う。
「大和さん!」
「平気。ちょっと、貧血っぽいだけ」
「平気な人は今みたいな顔色になりません」
凪が俺の手を取った。
掌が少し黒ずんでいた。痛みはないが、ひどく冷たい。凪の治癒の光が触れると、じんわり血が戻ってくる感じがした。
楓がしゃがみ、俺が触っていた場所を見た。
黒い染みは消えていた。
ほんの畳一枚分くらいの狭い範囲だ。だが、その部分の土だけ色が違った。灰色が抜け、少しだけ茶色が戻っている。手で崩すと、さっきより柔らかい。
平泉衣川が杖を突いて近づき、土を摘まんだ。
指で揉み、匂いを嗅ぎ、しばらく黙る。
「……息をしたな」
「土が?」
「そうだ。今、この土は息をした」
衣川の声は、さっきより低かった。
周囲のざわめきが変わる。
警戒ではなく、戸惑いと期待が混ざった音だった。
青葉が小さく呟いた。
「抽出……」
「何?」
俺が聞くと、青葉は俺の手を見たまま言った。
「大和さんのEX。今のは、余計なものを抜き取る力に見えました。術式そのものを破壊したのではなく、土から枯れ瘴だけを抽出した」
「抽出」
英語で言えばExtractか。
EX。
俺は自分の手を握った。
何もできないわけじゃなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。だが同時に、頭がずんと重くなる。畳一枚分でこれだ。畑全部をやろうとしたら、たぶん俺が先に倒れる。
「この力で、全部の畑を戻せるか」
兵士の一人が言った。
その声には期待があった。
だからこそ、俺はすぐに首を横に振った。
「無理。少なくとも今すぐ全部は無理だ。俺の体が持たない」
空気が少し落ちる。
俺は続けた。
「でも、全部を一気に戻す必要はない。まず種を育てる場所と、水の通り道を戻す。そこから広げる」
「水路か」
衣川が言った。
「どこが生きてる?」
俺が聞くと、衣川は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「王国の小僧に水路を語る日が来るとはな」
「小僧でいいから教えてくれ。俺はここの土地を知らない」
「知らぬと言えるなら、まだ見込みはある」
老人は杖で畑の向こうを指した。
「北の沢から引く古い水がある。昔はこの砦の東まで巡っていた。今は土砂と焼け木で塞がっている。西の低地は水が溜まり、南の畑は乾く。水が死んでいる」
「水が死んでるなら、畑も死ぬ」
「わかっているではないか」
「親父に何回も言われた。水を見る前に肥料を撒くなって」
自分で言って、南魚沼の田んぼが頭に浮かんだ。
朝の冷たい水。苗箱の重さ。六日が畦の上で笑っていた顔。
胸がきしんだが、今はそこに触ると動けなくなりそうだったので、無理やり押し込んだ。
俺は畑を見渡した。
「最初にやることを決める。水路を掘り返す。枯れ瘴が濃い場所は俺が抜く。抜いた汚い塊は凪さんが封じる。使える土を集めて、小さい苗床を作る。種は全部撒かない。生きてる種を選ぶ」
「あなたが指揮するのですか」
紫波が言った。
声は冷たいが、目はさっきより真剣だった。
「指揮なんて偉そうなもんじゃない。俺は米農家の息子で、ここでは新入りだ。土地のことは衣川さんに聞く。人の割り振りは紫波さんがやってくれ。俺が知ってるのは、田んぼと畑が放っておいたらどう壊れるかくらいだ」
「十分、指揮に聞こえます」
「じゃあ仮で。失敗したら変えてくれ」
紫波は楓を見た。
楓は少し考え、頷いた。
「やりましょう」
その一言で、周りが動き始めた。
すぐに全部がうまくいったわけじゃない。
むしろ最初は、だいたいうまくいかなかった。
水路を掘り返せば、腐った枝と泥が詰まっている。取り除くと、下から枯れ瘴が染み出してくる。俺が抜こうとすると一回で気分が悪くなる。凪に止められる。止められた俺が「もう少しだけ」と言うと、青葉にも止められる。二人に止められると、さすがに引くしかない。
兵士たちは畑仕事に慣れていない者が多かった。鍬の持ち方ひとつで揉めた。力任せに掘って畦を崩す。水を通したい場所と止めたい場所の区別がつかない。水路を作れと言ったら、川みたいに深く掘ろうとするやつもいた。
そのたび衣川が怒鳴った。
「馬鹿者、そこを抜いたら低地が沼になる!」
「鍬は叩きつけるものではない、土に入れるものだ!」
「若いの、足で踏むな! そこは生かした土だ!」
老人の声はよく通った。
最初は嫌そうにしていた兵士たちも、半日もすると衣川の言うことを聞くようになった。理由は簡単で、聞かないと余計に疲れるからだ。農作業はそういうところがある。正しいやり方を知らないと、努力した分だけ地面に嫌われる。
雫は人を集めるのがうまかった。
「はいはい、動ける人はこっち。逃げてもいいけど、四歩目で射るからね」
「それ、冗談だよな?」
「さあ?」
「おい、笑顔で弓を撫でるな」
雫に追い立てられ、砦の若者たちが水路へ回った。彼女は軽口ばかり叩くが、誰が体力を残しているか、誰が足を悪くしているか、誰が子どもの世話で抜ける必要があるか、よく見ていた。
宮古凪は怪我人を治しながら、抜き取った枯れ瘴を封じていった。
「大和さん、次に倒れたら強制的に寝かせます」
「まだ倒れてない」
「膝をついた時点で半分倒れています」
「判定が厳しい」
「命の判定は厳しい方がいいんです」
青葉は記録係になった。
俺が「ここは高く」「そこは水を逃がす」「種は全部使うな」と口で言うたび、青葉は板に書き込んでいく。この世界の文字は俺には読めないが、彼女の手は速かった。王国で巫女として儀式の記録を取っていた経験が、こんなところで役に立つらしい。
「大和さん、畝の幅はこのくらいで良いですか」
「もう少し狭く。水はけ悪いから、根が窒息する」
「根も窒息するんですか」
「する。たぶん。うちの親父がそう言ってた」
「では、たぶんと書いておきます」
「そこは書かなくていい」
青葉は少しだけ笑った。
笑ったあと、すぐに自分でも驚いたような顔をした。
王城を出てから、青葉の笑い方は少しずつ変わっている。最初は謝る時の顔ばかりだった。今は、泥のついた頬で困ったように笑う。そっちの方がずっといいと思った。
作業が始まって三日目、俺たちは小さな苗床を作った。
砦の南側にある日当たりのいい場所だ。枯れ瘴を抜き、周囲から比較的ましな土を集め、腐葉土に近いものを混ぜた。肥料と呼べるものはほとんどなかったが、凪が薬草の残渣を持ってきてくれた。衣川は古い灰を混ぜろと言った。俺は量を聞いた。衣川は「勘だ」と言った。親父と同じことを言うなと思った。
種は少なかった。
小粒の雑穀、豆、寒さに強い葉物、根菜に近いもの。どれも名前は覚えきれなかった。米に似たものはなかった。
「昔は水穀もあった」
衣川が倉庫の隅から古い袋を出しながら言った。
中はほとんど空だった。底に、黒く痩せた籾のようなものが数粒だけ残っている。
「王国との戦で水田が潰れ、種も絶えた。これはもう死んでいる」
俺はその粒を掌に乗せた。
米ではない。けれど、形は近い。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「いつか、田んぼ作ろう」
ぽつりと言うと、衣川がこちらを見た。
「田んぼとは、水穀の畑か」
「ああ。水を張って、苗を植えて、腰を痛めながら世話する面倒くさいやつ」
「面倒なら、なぜ作る」
「うまいから」
衣川は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「それは、よい理由だ」
苗床に種を撒いた時、俺はもう一つの感覚に触れた。
土から余計なものを抜いた時とは違う。今度は、手のひらの下で小さな粒が眠っているのがわかった。死んでいるものもある。まだ生きているものもある。外から見れば同じ種なのに、内側の熱が違う。
生きている種だけを選ぶ。
それを、少し押す。
無理やり伸ばすのではなく、背中を押す。冬の終わりに雪をどけて、日を当てるような感じだ。種が本来持っている力に、少しだけ道を作る。
EX。
今度は頭の奥に、Extendという意味が浮かんだ。
拡張。
伸ばす。
指先の下で、種が微かに震えた。
「大和さん」
青葉が息を呑む。
土の表面が、小さく盛り上がった。
すぐに芽が出たわけではない。そんな都合よく畑はできない。けれど、半日後にはいくつかの種から白い根が覗いた。本来なら数日かかるはずだと衣川が言い、紫波が記録を三度見直した。
「発芽率、通常の三倍以上」
紫波が低い声で言った。
「成長速度も速い。ただし、全てではありません。死んだ種は反応しない」
「ないものは伸ばせないってことか」
「そのようですね」
青葉が頷いた。
「大和さんの力は、何かを無から生むものではないのだと思います。余計なものを抜き、本来ある力を伸ばす」
「すごいような、地味なような」
「国を作る力は、だいたい地味です」
紫波が言った。
意外な言葉だったので、俺は彼女を見た。
紫波は板に数字を書き込みながら続けた。
「派手な力は一日を変えます。食べ物は一月を変えます。水路は十年を変えます。地味なものほど、失うと取り返しがつかない」
「数字で人を殴る女、いいこと言うじゃん」
雫が口を挟むと、紫波は無表情で返した。
「雫、午後は低地の泥さらいに回します」
「暴力反対」
「数字上、あなたが最も逃げ足を泥に活かせます」
「ほら殴ってきた」
そのやり取りに、近くの若者たちが少し笑った。
笑い声があるだけで、畑の空気は変わる。
そこからの日々は、ひとことで言えば泥だった。
朝は水路を見る。詰まりを取り、流れを変え、崩れた畦を直す。昼は枯れ瘴を抜く。俺の限界はまだ低く、広い範囲を一気にはできない。だから、苗床、井戸の周り、水が集まる地点、子どもたちが通る道、優先順位を決めた。
夜は青葉と紫波の記録を見ながら、次の日の作業を決める。
俺は文字が読めないので、青葉が読み上げる。
「第三苗床、発芽二十一。枯死三。水分過多の可能性」
「そこ、水を逃がす溝を一本増やす」
「西の低地、黒染み再発」
「周りから流れ込んでる。上流側を先に抜く」
「作業者二名発熱」
「凪さんに診てもらって、明日は休ませる」
「本人たちは出ると言っています」
「休ませる。倒れたら余計に人手が減る」
青葉は書きながら、ふと俺を見た。
「大和さん、こういうことに慣れているんですか」
「慣れてない。うちでは親父が決めてた。俺は文句言いながら手伝う係」
「でも、迷わず決めています」
「迷ってるよ。めちゃくちゃ迷ってる」
実際、毎日胃が痛かった。
俺の判断で種を使う。人を動かす。水を流す。失敗したら、ただの失敗では済まない。食べ物が減る。誰かが腹を空かせる。最悪、死ぬ。
王城で無能と言われた時より、ずっと重い。
でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
怖い。責任は重い。手は足りないし、知識も足りない。俺は農家本人ではなく、米農家の息子でしかない。親父ならもっとちゃんとやるだろう。そう思うことは何度もあった。
それでも、土を触っている時だけは、自分が完全な役立たずではないと思えた。
「大和さん」
青葉が静かに言った。
「ここでは、あなたは必要とされています」
俺は言葉に詰まった。
そういうことを真正面から言われると困る。
「……必要なのは飯だろ」
「その飯を作ろうとしているのが、あなたです」
「青葉も記録してる。雫も人を集めてる。凪さんも治してる。衣川さんがいなきゃ水路もわからない。紫波さんがいなきゃ配分もできない。俺一人じゃ何もできない」
「それでも、あなたが『まずは飯を作る』と言ったから始まりました」
青葉は板を胸に抱えた。
「私はずっと、誰かに命じられた祈りを正しいことだと思っていました。でも今は、泥まみれで種の数を数えています。変な話ですが、こちらの方が祈っている気がします」
「種の数を数えるのが祈りか」
「はい。少なくとも、誰かを召喚するよりは」
青葉は少し笑った。
その笑顔にはまだ罪悪感が混ざっていた。たぶん、すぐには消えない。消す必要もないのかもしれない。ただ、罪だけで立っていると人は折れる。今の青葉には、折れずに済むだけの仕事があった。
俺にも、たぶん。
十日が過ぎる頃には、砦の空気が変わっていた。
腹いっぱいになったわけではない。倉庫の中身も相変わらず少ない。だが、苗床には緑が見え始めた。水路には濁った水ではなく、ちゃんと流れる水が戻った。井戸の一つは、凪の検査で飲用に戻せる見込みが立った。
小さな変化だ。
だが、飢えている場所では、小さな緑が旗になる。
子どもたちは毎朝、苗床を見に来るようになった。
最初は遠くから眺めるだけだったが、そのうち「これ食べられるの?」「いつ食べるの?」「今食べたらだめ?」と聞くようになった。最後の質問は気持ちはわかるが困る。
「今食べたら、明日のおかわりが消える」
俺が言うと、例の男の子が真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、明後日なら?」
「明後日もまだ早い」
「けち」
「農業はけちなんだよ。少し我慢して増やす」
「増える?」
「増やす」
男の子はしばらく苗を見て、それから青葉を見た。
青葉は少し身構えた。
男の子は言った。
「巫女さまも、増やすの手伝ってる?」
青葉は驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい。手伝っています」
「じゃあ、いい」
何がいいのかはわからない。
でも青葉は、その場で泣きそうな顔をした。
俺は見なかったふりをした。こういう時、見ていると泣けなくなることがある。
二週間が過ぎた夜、楓が畑に来た。
その頃、俺は水路の横に座り込んでいた。作業が終わっても、なんとなく水の流れを見てしまう。田んぼの癖だ。水門を閉め忘れると親父に怒鳴られるので、夕方の水回り確認は体に染みついている。
楓は外套の裾を持ち上げながら、畦の上を歩いてきた。
「まだ起きていたの」
「楓様こそ」
「様はいらないと言ったら、あなたは呼び捨てにする?」
「しない。怒られそうだから」
「誰に?」
「紫波さんに」
楓は少し笑った。
彼女が笑うと、年相応に見える。だがその笑顔は長続きしない。すぐに砦の方へ視線を戻す。
「あなたは不思議ね」
「よく言われる」
「この世界に来て、王国に捨てられて、大切な人を奪われた。それなのに、最初にしているのが復讐ではなく畑仕事」
「復讐したい気持ちはあるよ」
俺は正直に言った。
「レオンを殴れるなら殴りたい。六日も助けたい。王国にざまあ見ろって言いたい」
「なら、なぜ」
「腹減った子どもを前に、復讐の演説できるほど器用じゃない」
水路の水が、月明かりを受けて細く光っていた。
「あと、今の俺が王都に戻っても何もできない。六日にも届かない。なら、できることを増やすしかない」
楓は黙って聞いていた。
「俺のEXは、たぶん剣みたいな力じゃない。抜いて、伸ばす。そんな力だ。だったら、最初にやるべきなのは畑だと思った」
「耕す人なのね」
「息子だけどな」
「そこはこだわるの?」
「こだわる。親父に農家名乗るなって怒られそうだから」
楓は今度こそ少し長く笑った。
それから、畑の緑を見つめた。
「王国は、私たちを魔王と呼ぶ。人ではないと言う。だから奪っても、焼いても、飢えさせても、正義になる」
「便利な敵、だろ」
「ええ」
楓の声は静かだった。
「私はずっと、強くならなければと思っていた。魔王と呼ばれるなら、それに負けないくらい強く。砦を守り、兵を動かし、王国を憎む。それが私の役目だと」
「今もそうなんじゃないのか」
「そうね。でも、あなたが畑を見てから少し変わった」
楓は俺を見た。
「守るというのは、敵を倒すことだけではないのね」
そんな当たり前のことを、彼女は当たり前ではない顔で言った。
この年で、その当たり前を誰かに教わる暇もなく、魔王と呼ばれてきたのだと思うと、胸の奥が少し重くなった。
「飯を食えないと、守られてる気がしないからな」
「あなたの言葉は、時々とても雑なのに、妙に正しい」
「褒めてる?」
「たぶん」
どこかで聞いたような返事だった。
三週間目の朝、最初の葉物を収穫した。
収穫と言っても、両腕いっぱいの野菜が採れたわけではない。まだ小さい葉を間引き、育ちすぎる前の根菜を少し抜き、早く実をつけた豆をほんのわずか摘んだだけだ。
普通なら、収穫祭なんて大げさなものではない。
だが、砦の人たちはそれを祭りにした。
紫波は最初、配給計画上は通常食に混ぜるべきだと言った。衣川は「初物は皆で食うものだ」と言った。雫は「祭りって言えば作業量が増えてもみんな文句言いにくいよ」と言った。凪は「疲れた人には祝いも薬です」と言った。
楓は全部聞いた上で、小さく頷いた。
「では、祭りにしましょう。豪華ではなくても、今日の緑は皆のものだから」
そうして、その日の夕方、砦の広場に大鍋が出た。
中身は雑穀粥だ。薄い。正直、南魚沼の実家でこれが晩飯に出たら、俺は冷蔵庫を漁ると思う。だが、その粥には刻んだ葉物と豆が少し入っていた。根菜も細かく切ってある。塩もほんの少し。
匂いが違った。
ただ腹を膨らませるための粥ではなく、食べ物の匂いがした。
子どもたちは椀を抱えて並んだ。老人たちも、兵士たちも、畑で働いた者も、働けなかった者も、全員が少しずつ受け取った。
俺も椀を渡された。
「主役だから多めね」
雫が勝手に盛ろうとしたので、紫波が横から量を調整した。
「配給量は均等です」
「こういう時くらい甘くしようよ」
「甘くすると明日の分が消えます」
「数字で祭りを殴るなあ」
俺は椀を受け取り、粥を一口食べた。
うまかった。
味が濃いわけじゃない。肉が入っているわけでもない。米ですらない。けれど、体が欲しがっていたものが入ってくる感じがした。
隣で青葉も粥を食べていた。
彼女は一口飲み込んで、目を伏せた。
「おいしいです」
「硬いパンよりはな」
「比べる相手が低すぎます」
青葉はそう言って笑った。
少し離れたところで、例の男の子が粥を食べていた。母親の隣で、椀の底まで舐めそうな勢いだ。彼は青葉を見つけると、小さく手を上げた。
「巫女さま、これ、うまい」
青葉は何も言えなかった。
ただ、何度も頷いた。
その横で凪がそっと布を渡していた。泣く前提の準備がよすぎる。
楓は広場の中央に立ち、皆を見ていた。
魔王と呼ばれる少女。
その周りで、人々が粥を食べている。
王国の絵本に描かれる魔王の城とは、たぶんだいぶ違う光景だろう。黒い雷も、毒の沼も、骸骨の兵士もいない。あるのは継ぎはぎの砦と、薄い粥と、ようやく戻り始めた緑だけ。
でも、俺には王城の晩餐よりずっとまともに見えた。
食事が終わる頃、衣川が俺の隣に来た。
老人は椀を片手に、畑の方を見ていた。
「小僧」
「大和でいいです」
「では大和。あの水穀の種、死んでいると言ったな」
「はい」
「一粒だけ、まだ諦めきれぬものがあった」
衣川は懐から小さな包みを出した。
中には、黒ずんだ籾が一粒だけ入っていた。
「わしには死んだ種に見える。だが、お前なら違うものが見えるかもしれん」
俺はその一粒を掌に乗せた。
小さい。
軽い。
ほとんど死んでいる。
けれど、完全ではない。
本当に気のせいみたいな熱が、奥に残っていた。
「今すぐは無理だ」
俺は言った。
「ちゃんと土を作って、水を作って、失敗してもいい場所を用意してからじゃないと、この一粒を無駄にする」
衣川は頷いた。
「それでよい。急ぐ者に種は預けられぬ」
「いつか、田んぼを作る」
「その時は、わしも腰を痛めるとしよう」
「腰は大事にしてください」
「若造が年寄り扱いするな」
十分年寄りだと思ったが、言わないでおいた。
その夜、俺は久しぶりに少しだけよく眠れそうだった。
もちろん、問題は山ほどある。畑はまだ小さい。食糧不足は解決していない。王国はきっと黙っていない。六日はまだ王城にいる。レオンの顔を思い出すだけで、腹の奥に冷たい怒りが戻ってくる。
それでも、今日の広場には笑い声があった。
俺のEXは無能ではなかった。
俺は誰かの足を引っ張るだけの存在ではなかった。
その事実だけで、今夜は少し呼吸が楽だった。
寝床に向かう途中、青葉が隣に並んだ。
「大和さん」
「ん?」
「私は今日、少しだけ救われました」
「粥で?」
「はい。粥で」
青葉は真面目に頷いた。
「大げさだな」
「大げさではありません。たぶん、人は正論ではあまり救われません。温かいものを食べた時に、ようやく明日を考えられるのだと思います」
「それは、わかる」
王城で出された豪華な食事より、今日の薄い粥の方が体に残っている。
青葉は少し迷ったあと、言った。
「あなたがここに来てくれて、よかったです」
「俺は追放されただけだ」
「それでも、です」
返事に困ったので、俺は頭をかいた。
「じゃあ、明日も泥まみれだな」
「はい」
「嬉しそうに返事するなよ」
「少し、嬉しいので」
青葉はそう言って笑った。
俺はまた返事に困った。
その時、遠くの見張り台で雫が口笛を吹いた。
「大和ー、青葉ー。夜道でいい雰囲気出してると四歩目で射るよー」
「もうその脅し、何にでも使えるな!」
「便利でしょ!」
青葉が慌てて距離を取ったので、俺は少し笑ってしまった。
こんな夜に笑えるとは思っていなかった。
だからこそ俺は、その時、砦の外れで一人の男が広場から離れていたことに気づかなかった。
俺がそれを知るのは、もう少し後のことになる。
その男の名は、宮城野連坊。
祭りの間、彼は水路工事を手伝った流民の一人として、人混みに紛れていた。痩せた顔で、目立たない服を着て、誰よりも静かに椀を受け取っていた男だ。
夜更け、連坊は森の中で小さな紙片を取り出した。
紙片は折られると鳥の形になり、青白い光をまとって飛び立った。
そこに記された報告は短い。
EXは無能にあらず。
土より瘴気を抜き、水を浄め、種の生命を伸ばす。
召喚者塩沢大和は、魔王領の民心を得つつあり。
あれは剣ではない。
国を作る力である。
紙の鳥は夜を越え、王都青葉へ向かった。
そして王城の奥でその報告を読んだ八乙女レオンは、しばらく黙っていたという。
やがて彼は、薄く笑った。
「なら、刈り取らないとね」




