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幼なじみを王子に奪われ、EXスキルだけで追放された俺は、捨てられ巫女と魔王領へ亡命する ~新潟の米農家息子、少女魔王とクソッタレ異世界を耕し直す~  作者: ラズベリーパイ大好きおじさん


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捨てられ巫女は魔王領への道を知っている

「塩沢大和さん。いっそ、魔王に亡命しませんか?」


夜道で女の子に言われる台詞としては、かなり上位に入る危なさだった。


南魚沼で同じことを言われたら、まず相手の体調を心配する。次に近くの交番を探す。けれど今の俺は、王子に幼なじみを奪われ、王城を追い出され、異世界の街道脇で硬いパンをかじっている身だ。


つまり、かなり終わっていた。


「魔王に亡命って、言葉の並びが最悪だな」


「自覚はあります」


青葉は真面目な顔で頷いた。泥だらけの巫女装束でそれをやられると、妙に説得力がある。


「ただ、王国に残るよりは可能性があります。南へ逃げても、殿下の手は届きます。王都周辺の村も街も、八乙女王家の目がありますから」


「北は?」


「国境を越えれば、モリューカの領域です」


「魔王モリューカの?」


青葉は少しだけ首を横に振った。


「王国ではそう教えています。でも、古い地図ではモリューカは人名ではありません。北の土地を指す名です」


俺は王都の灯りを振り返った。


遠くに見える青葉王城は、夜でもぼんやり青く光っていた。あの中に六日がいる。レオンの隣で、綺麗な服を着せられて、勇者だの婚約者だの呼ばれている。


胸の奥が嫌な音を立てた。


「そこに行けば、六日を助けられるのか」


「わかりません」


青葉は即答した。


「でも、今ここにいても何もできません」


正論だった。


腹立たしいくらいに。


俺は布袋を肩にかけ直した。中身は硬いパンがひとつ半、干し肉が少し、銅貨がいくらか。勇者の幼なじみの所持品としては貧相だが、追放者の荷物としてはこんなものなのかもしれない。


「案内できるんだな」


「はい。正式な街道は使えません。追手が来ます。古い巡礼道と、森沿いの水路跡を通ります」


「水路跡?」


その単語だけ、少しだけ耳に馴染んだ。


青葉は北の暗がりを指した。


「昔、王国とモリューカの間で交易があった頃の道です。今は使われていません」


「交易があったのかよ。魔王と」


「昔は、魔王ではありませんでしたから」


青葉はそう言って、歩き出した。


俺もその隣に並んだ。


夜の道は思ったより冷えた。田んぼの春の夜みたいな寒さではない。もっと乾いていて、肌の表面を薄く削ってくるような冷たさだ。青葉は薄い巫女装束のままで、袖も裾も汚れている。走って逃げてきたせいか、足元の草履も片方の紐が切れかけていた。


「その格好で歩けるのか」


「歩きます」


「根性論じゃなくて」


「では、少しだけ待ってください」


青葉は道端に膝をつき、装束の長い裾を両手で掴んだ。ためらうように一瞬止まり、それから布を裂いた。びり、と夜に大きく聞こえる音がした。


王城で見た時の青葉なら、たぶんそんなことはしなかった。


あの時の彼女は、白と青の装束を乱さず、背筋を伸ばして、巫女という役割そのものみたいに立っていた。今は違う。泥を払い、破れた裾を結び直し、邪魔な飾り紐を外して道端に捨てている。


その方が人間に見えた。


「その飾り、いいのか」


「巫女の証です。今の私には、もう重いだけです」


青葉は胸元の若葉の飾りを最後まで握っていた。捨てるかどうか迷っているのがわかった。


結局、彼女はそれを外さなかった。


「未練か?」


「罪の証です」


短い答えだった。


俺はそれ以上聞かなかった。


俺たちは街道を外れ、草の多い斜面を下った。青葉が言った通り、しばらく歩くと細い水路跡があった。石で組まれた浅い溝が森の縁に沿って続いている。水はほとんど流れていないが、ところどころ湿っていて、苔が生えていた。


「こんな道、よく知ってるな」


「神殿の古文書を整理していた時に見ました。王国が隠したがるものほど、古い記録には残っています」


「王国って、隠しごと多すぎないか」


「多いです」


そこは否定しないらしい。


歩きながら、青葉は少しずつ話した。


異世界召喚は、今回が初めてではないこと。


王国は代々、異世界から呼び出した人間を勇者として利用してきたこと。


強いスキルを持つ者は王家に取り込まれ、力を失った者や都合の悪い者は記録から消されてきたこと。


「記録から消すって、死んだってことか」


「死んだ方もいると思います。国外へ追放された方も。王国の家臣として生涯を終えた方もいます。公式記録には、皆、魔王との戦いで尊い犠牲になったと書かれています」


「便利だな、魔王」


俺が言うと、青葉は目を伏せた。


「はい。王国にとっては、とても便利な敵です」


水路跡の石に足を滑らせ、青葉が小さくよろけた。俺はとっさに腕を掴んだ。


「すみません」


「謝るの禁止」


「え?」


「さっきから謝りすぎだ。疲れる」


青葉は困ったように瞬いた。


「ですが、私はあなたに」


「償うとか罪とかは、あとで聞く。今は歩け。置いていかれる方が困る」


「……はい」


青葉は小さく頷いた。


少し歩いてから、彼女は低い声で言った。


「追手が来るなら、長町泉騎士団長が出ると思います」


「式の後、門まで連れていった人か」


「はい。王国で最も実直な騎士です」


「実直な人間が追放の手伝いするのか」


「実直だからこそ、王命に逆らえません」


嫌な話だった。


真面目な人間が真面目に間違った命令を実行すると、だいたい被害が大きくなる。農作業でもそうだ。やる気のある素人が水門を勝手にいじると、田んぼ一枚が簡単に終わる。


「長町騎士団長は、あなたを殺すと思うか」


「命令があれば」


「青葉は?」


「私は、神殿に戻されれば処分されます」


青葉の声は平らだった。


感情を殺している声だ。


「処分って」


「王国の秘密を知りすぎました。召喚の役目も終わりました。巫女は代えがききます」


そんな言い方をするな、と思った。


言おうとしたが、言葉が出てこなかった。


俺だって、王国から見れば代えがきくどころか、最初から不要品だった。六日の隣にいたから一応生かされ、邪魔になったから捨てられた。それだけだ。


夜が深くなるにつれ、森の中の音が増えた。


草を踏む音。虫の声。遠くで獣が鳴く声。異世界の獣がどういうものなのか、俺はまだ知らない。知らないものが暗闇の中にいるというのは、想像以上に神経を削る。


しばらくして、青葉が急に足を止めた。


俺も止まった。


「どうした」


「追跡術です」


青葉は耳ではなく、首の後ろに手を当てた。そこには薄く青い印が浮かんでいた。いつからあったのかはわからない。王城では髪で隠れていたのだろう。


「巫女には、王城へ帰還するための祈印が刻まれています。普段は安全のためと教えられていましたが、逃げる時には首輪になります」


「消せないのか」


「表面は消しました。でも根が残っています」


「根って、植物みたいに言うな」


「似たようなものです。魂に絡む術式なので」


本当にこの世界は、何でも魂に絡めたがる。


青葉は小さく息を吐いた。


「走ります」


「どっちへ」


「水路跡を外れて、下の川へ。足跡をごまかせます」


青葉が斜面を駆け下りた。


俺も続いた。


草が足に絡む。石に靴底が滑る。長靴ではない、王城で渡された安物の靴は頼りなく、足首が何度も捻られそうになった。青葉の方が軽いぶん速いが、巫女装束の裾が邪魔で、走りにくそうだった。


背後で、遠く馬のいななきが聞こえた。


灯りが見えた。


一つではない。森の向こうで、いくつもの青白い光が揺れている。


「早くないか」


「王城の追跡隊です。祈印が反応したなら、距離は関係ありません」


「便利すぎるだろ」


「追われる側には最悪です」


青葉がそう言った直後、足元の石が崩れた。


彼女の体が前へ倒れる。


俺は腕を伸ばして掴んだが、支えきれずに二人で斜面を転がった。背中を石にぶつけ、息が詰まる。青葉の体を庇うように抱え込んだせいで、肘と肩を派手に擦った。


止まった場所は、浅い川の手前だった。


水音が近い。


「青葉、平気か」


「はい……大和さんこそ」


「擦っただけだ」


嘘だった。かなり痛い。


でも立てないほどではない。


俺は青葉を起こし、川に入った。水は足首より少し深い程度だったが、冷たかった。田んぼの水とは違う。流れがあるぶん、容赦なく体温を奪ってくる。


俺たちは川の中を歩いた。


足跡は残らない。たぶん。


けれど背後の灯りは消えなかった。むしろ近づいている。


青葉が顔をしかめる。


「だめです。足跡ではなく、祈印を追っています」


「じゃあ川に入った意味は?」


「少しでも時間を稼ぐためです」


「稼げてる?」


「たぶん、少しは」


その少しが命を分けることもあるのだろう。そう思うしかなかった。


川沿いに進むと、倒木が流れを塞いでいる場所に出た。木の根が岸に絡み、枝が低く張り出している。青葉はその下に身を滑り込ませようとしたが、途中で膝をついた。


息が荒い。


無理もない。王城から逃げてきて、そのまま夜道を歩き、今は追手から走っている。巫女として祈る訓練はしていても、逃亡の訓練はしていないだろう。


「大和さん」


青葉が言った。


「私を置いていけば、あなたは逃げられるかもしれません」


その言葉を聞いた瞬間、頭のどこかが冷たくなった。


「言うと思った」


「私は追跡されます。あなたは祈印がありません。少なくとも、私よりは」


「また俺に誰かを置いていけって言うのか」


青葉が息を呑んだ。


俺は自分で思ったより低い声を出していた。


六日の顔が浮かんだ。


王城の庭で、俺を見て言った声。


現実を見た方がいいよ。


レオンの手。青い指輪。大広間の拍手。閉まる城門。


「もう嫌なんだよ。何もできないまま、誰かが遠くなるのを見てるだけなのは」


「でも」


「黙ってろ。考える」


考えると言っても、策があるわけではない。


俺は倒木の陰に青葉を座らせ、自分も膝をついた。背後の灯りは近づいている。人の声も聞こえ始めた。


長町騎士団長の声が混ざっていた。


「祈印の反応は?」


別の男が答える。


「川沿いです。二人とも近くにいます」


二人とも。


俺も捕捉されているのか。


いや、青葉と一緒にいるからまとめて追われているのかもしれない。


俺は自分の手を見た。


何もない手だ。


剣も魔法もない。六日みたいなふざけた最強スキルもない。ただ、EXという二文字だけがある。発動方法もわからない。意味もわからない。


でも、さっきレオンの指輪の光を見た時、何かが弾かれた感覚があった。


青葉は言った。


王国の鑑定術も、王命の術式も、俺の内側に届かなかった。


読めなかったのではなく、読ませてもらえなかった。


もし本当にそうなら。


「青葉」


「はい」


「追跡術って、どういう仕組みだ」


「今、ですか」


「今だからだ」


青葉は一瞬戸惑ったが、すぐに答えた。


「祈印を核にして、術式が対象の位置を求めます。魂の波形、魔力の残滓、肉体の熱。複数の情報を束ねて、追跡者に方角を示します」


「つまり、青葉が対象ってことか」


「はい」


「その対象から外せばいいんだな」


「そんなことは普通、できません。祈印を破壊するか、術式そのものを妨害するしか」


「普通は、だろ」


俺は川の流れを見た。


夜の水面は黒い。倒木の根にぶつかり、泡を立てて、また流れていく。


田んぼの水を思い出した。


水は勝手に流れる。けれど、畦を作れば止まる。水門を開ければ抜ける。どこへ通すか、どこから外すか。それを知らないと、苗は簡単に腐る。


不要な水を抜く。


余計なものを外す。


本来あるべきところから、外れたものを除く。


俺は青葉の首の後ろに浮かぶ青い印を見た。


印から、細い光の糸のようなものが伸びている気がした。最初は気のせいだと思った。けれど、一度見えると、それははっきりそこにあった。青い糸が森の向こうへ伸び、追手の灯りと繋がっている。


「見える」


俺が呟くと、青葉が目を見開いた。


「何が」


「糸」


俺は手を伸ばした。


本当に掴めるかどうかはわからなかった。けれど、田んぼの水草を指で引っかける時みたいに、その青い糸へ意識を向けた。


触れた瞬間、頭の奥で小さな音がした。


鍵が合ったような、硬い土に鍬が入ったような、そんな音。


「EX」


声に出したつもりはなかった。


それでも、喉の奥から勝手にこぼれた。


青い糸が震えた。


俺はそれを切ろうとした。けれど、切れない。糸は強い。王国の術式だか祈印だか知らないが、簡単に壊せるものではなかった。


なら、切らない。


水門を壊すのではなく、流れを変える。


対象から外す。


青葉と俺を、この追跡の枠から抜く。


糸の中に書かれている名前のようなものを、指先で引っかいて剥がす感覚があった。もちろん文字が見えたわけではない。ただ、そこに俺たちを指す何かがあり、それを「違う」と押し出した。


次の瞬間、青い糸がふっと薄くなった。


切れてはいない。


ただ、俺たちの上を素通りしていく。


森の向こうで、追手の声が乱れた。


「反応が消えました!」


「馬鹿な。印は残っている」


長町騎士団長の声がした。


「範囲を広げろ。川沿いを捜索。足跡を見ろ」


灯りが近づいた。


俺は青葉の肩を掴み、倒木の根の下へ身を潜めた。水が服に染み込む。冷たい。息を殺すと、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。


騎士たちが川岸に現れた。


長町泉もいた。鎧姿の彼女は、松明ではなく青白い魔術灯を持つ兵士を従えている。表情は相変わらず硬い。けれど、目だけは周囲を鋭く見ていた。


彼女の視線が、倒木の方へ向いた。


見つかった、と思った。


しかし長町騎士団長は、こちらへ近づかなかった。


「反応が途切れた地点から南西を洗え。川を下った可能性が高い」


「北では?」


「北へ向かうなら、ここで川を渡る必要がある。足跡がない」


「ですが」


「命令だ」


兵士たちは南西へ散っていった。


長町騎士団長は最後までその場に残った。彼女は倒木を一度だけ見た。俺には、目が合ったように思えた。


それでも彼女は何も言わず、背を向けた。


灯りが遠ざかっていく。


完全に見えなくなるまで、俺たちは動かなかった。


青葉が小さく震えている。寒さだけではないだろう。俺も指先が震えていた。何かをした。たぶん、初めてスキルを使った。けれど達成感より、背筋の冷たさの方が大きかった。


自分の中に、知らない部屋があった。


その扉が、少しだけ開いたような感じがした。


「今の」


青葉が囁いた。


「追跡術を壊したんじゃありません」


「じゃあ何をしたんだ」


「術式は生きています。祈印も残っています。でも、追跡対象から私たちが外れました。術から見れば、ここにいるのに、ここにいないことになっている」


「意味わからん」


「私にも、完全には」


青葉は俺を見た。


その目には、恐怖と驚きと、ほんの少しの希望が混ざっていた。


「大和さんのEXは、外れではありません」


「だったらいいけどな」


俺は倒木の下から這い出した。服は濡れ、体は冷え、擦り傷はじくじく痛む。スキルを使った反動なのか、頭の奥が少し重かった。


でも、歩ける。


それだけで今は十分だった。


俺たちは川を渡った。


青葉の祈印はまだ首の後ろに残っていたが、光は弱くなっている。完全に安全というわけではないらしい。青葉は何度も後ろを振り返ったが、追手の灯りは戻ってこなかった。


夜明け前、森の中で少しだけ休んだ。


大きな木の根元に身を寄せ、濡れた服を絞る。火は焚けない。煙で見つかるかもしれないからだ。俺は残っていたパンを半分に割って青葉に渡した。


青葉は受け取ろうとしなかった。


「大和さんの分が」


「食べろ。倒れられる方が困る」


「でも」


「謝るのも遠慮するのも禁止」


青葉は少しだけ笑った。


初めて見た、巫女ではない笑い方だった。


「大和さんは、乱暴に優しいですね」


「褒めてるのかそれ」


「たぶん」


青葉はパンを小さくかじった。


硬すぎたのか、顔が少し歪んだ。俺も食べた。歯が折れるかと思った。


「王城の飯、今思えばまだマシだったな」


「勇者様の食事は、かなり豪華でした」


「聞きたくなかった」


「すみません」


「謝るの禁止」


「……難しいですね」


青葉はパンを両手で持ったまま、膝を抱えた。


しばらく沈黙が続いた。


木々の間が少しずつ白んでくる。鳥らしきものが鳴き始めた。異世界の鳥も、朝はちゃんと鳴くらしい。


「五十沢様は」


青葉が言った。


「完全に奪われたわけではないと思います」


俺は顔を上げなかった。


「鑑定の時、あなたを庇った気持ちは本物でした。庭での言葉も、すべてが殿下に作られたものではありません。だからこそ、殿下は時間をかけて感情をすり替えたのだと思います」


「本物だったから痛いんだよ」


自分でも驚くくらい、素直な声が出た。


青葉は黙った。


「全部操られてたって言われた方が、まだ楽だった。あいつの中にあった不安とか罪悪感とか、そういう本物をレオンが利用したんだろ。じゃあ、俺に向けた言葉も半分くらいは本物だ」


現実を見た方がいいよ。


あの声は、まだ耳に残っている。


「俺は六日を助けたい。でも、元に戻れるかって言われたら、わからない」


「それでいいと思います」


青葉は静かに言った。


「救うことと、元通りになることは、同じではありませんから」


その言葉は、朝の冷気より深く胸に入ってきた。


俺は何も返せなかった。


日が昇るころ、俺たちはまた歩き出した。


森はだんだん深くなり、道らしい道は消えた。青葉は古い石柱や、木の幹に刻まれた傷を頼りに進んだ。途中で何度か足を止め、方角を確かめる。巫女というのは祈るだけかと思っていたが、案外サバイバル能力がある。


「この先です」


昼近くになって、青葉が言った。


木々の間に、低い石の列が見えた。苔むした古い境界石だ。いくつかは倒れ、いくつかは割れている。王国の青葉紋が彫られていた跡もあったが、半分ほど削られて読めなくなっていた。


「ここが国境か」


「はい。ここから先が、モリューカの古い領域です」


俺は境界石を越えた。


何か劇的なことが起きるかと思ったが、何も起きなかった。空は同じ。木も同じ。足元の土も、いきなり紫色になったりしない。


ただ、空気が少し変わった。


冷たいというより、乾いている。山の匂いが濃い。木々も王国側より背が高く、枝が太い。遠くに見える山並みは、新潟の山とは違う形をしていた。


「魔王領っていうから、もっとこう、溶岩とか毒の沼とかあるのかと思った」


「王国の絵本ではそうですね」


「絵本かよ」


「子どもの頃から教えるには、絵本が一番です」


青葉の声は苦かった。


敵を怪物として描き、それを子どもに覚えさせる。大人になった時には、もう疑う前に怖がるようになっている。ずいぶん手の込んだやり方だ。


境界を越えてから、俺たちはさらに北へ進んだ。


だが、そう簡単に魔王の城へ到着、とはならなかった。


森の中を一時間ほど歩いたところで、急に霧が出た。


さっきまで晴れていたのに、木々の間から白いものが流れ込み、あっという間に視界が狭くなる。青葉が足を止めた。


「大和さん、動かないで」


「何だ」


「囲まれています」


俺は布袋を握りしめた。武器になるものなどない。せいぜい硬いパンで殴るくらいだ。あれなら多少の殺傷力はあるかもしれない。


霧の向こうから、女の声がした。


「はい、そこまで。あと一歩進んだら罠。王国の人って、どうしてこう前しか見ないのかな」


声は軽い。


けれど、足元が冷たくなるような圧があった。


霧の中から、一人の少女が現れた。


年は俺たちより少し上か同じくらい。灰色の外套を羽織り、背中に短弓、腰に細い刃物を下げている。髪は黒に近い茶色で、後ろで雑に結んでいた。目元が猫みたいに細く、口元には楽しそうな笑みがある。


ただし、その笑みは優しくない。


「王国の巫女が一人。見慣れない男が一人。しかも国境越え。珍しい拾い物だね」


青葉が前に出た。


「私たちは亡命を望んでいます。モリューカの領主にお目通りを」


少女は一瞬きょとんとした顔をして、それから吹き出した。


「亡命? 魔王領に? 王国の巫女様、職場選びが大胆すぎない?」


「冗談ではありません」


「冗談だったら笑って済ませたんだけどね」


少女の指が少し動いた。


その瞬間、俺の頬の横を何かが通った。風を切る音。振り返ると、すぐ後ろの木に短い矢が刺さっていた。


青葉が息を呑む。


俺は彼女を背中に庇った。


少女は目を細めた。


「へえ。召喚者の方が巫女を庇うんだ」


「なんで召喚者だってわかる」


「服。歩き方。あと顔。王国の人間って、こっちを見る時はもっと憎そうな顔をするから」


「俺もまあまあ憎んでるけどな。王国を」


少女の笑みが少しだけ変わった。


「名前は」


「塩沢大和」


「そっちは」


「杜野青葉です」


青葉が名乗ると、少女の目が冷えた。


「青葉。王都の名を持つ巫女か」


空気が重くなる。


森の中に、他にも人の気配があった。見えないが、弓を構えられているのがわかる。逃げるのは無理だ。戦うのはもっと無理だ。


少女はしばらく青葉を見ていたが、やがて肩をすくめた。


「私は遠野雫。斥候。逃げるなら三歩までは見逃してあげる。四歩目で足を射るけど」


「それ見逃してないだろ」


「気持ちの問題」


遠野雫は軽く笑い、指を鳴らした。


霧の中から、革鎧の兵士たちが現れた。王国の騎士とは違う。装備は統一されておらず、剣も槍も弓もばらばらだ。けれど、全員がこちらから目を離さない。疲れた顔をしているが、隙はない。


「武器は?」


雫が聞いた。


「ない」


「本当に?」


「パンならある。凶器寄りの硬さだ」


雫は一瞬真顔になり、次に笑った。


「いいね。そういうくだらない返事が出るなら、まだ余裕はある」


「余裕はない」


「じゃあ根性かな。どっちでもいいや」


俺たちは手を縛られた。


きつくはなかった。逃げられない程度に、だ。青葉は抵抗しなかった。俺も抵抗しなかった。抵抗できる状況ではないし、少なくとも矢を射られて死ぬよりは、連れていかれる方がまだましだった。


雫たちに囲まれながら、俺たちは森の奥へ進んだ。


霧はいつの間にか晴れていた。魔法なのか、地形のせいなのかはわからない。どちらにせよ、あの霧の中で道を見失っていたら、罠にかかるか崖から落ちるかしていただろう。


「王国の追手は?」


歩きながら雫が聞いた。


「撒いた」


俺が答えると、雫は意外そうに眉を上げた。


「へえ。青葉の巫女を連れて?」


「大和さんの力です」


青葉が言った。


雫の視線が俺に向く。


「召喚者のスキル?」


「たぶん」


「たぶんって何」


「俺にもよくわからない。鑑定結果がEXだけだった」


その瞬間、周囲の兵士たちの空気が少し変わった。


馬鹿にしたわけではない。むしろ警戒が増した。


雫だけは、面白そうに笑った。


「EX。王国が嫌いそうな響き」


「どういう意味だ」


「決めた枠からはみ出すもの、王様って嫌いでしょ」


妙に納得した。


しばらく歩くと、森が開けた。


そこにあったのは、魔王城ではなかった。


少なくとも、俺が想像していた黒い城とか、尖った塔とか、空に渦巻く雷雲とか、そういうものではない。


木と石で作られた砦だった。古い。何度も直した跡がある。外壁はところどころ焦げ、門の上には継ぎはぎの旗が垂れている。旗には葉と川を組み合わせたような紋章が描かれていた。


砦の周りには、粗末な家がいくつも並んでいた。


人がいた。


普通の人間だった。


角もない。牙もない。尻尾もない。子どもが走り、老人が薪を割り、女たちが鍋を囲んでいる。兵士らしい者もいるが、魔王軍というより村の自警団に近い。


ただ、みんな痩せていた。


子どもたちの頬はこけ、老人の背中は丸い。鍋から上がる匂いも薄い。腹が鳴るほど美味そうな匂いではなく、何とか食べ物らしきものを煮ている匂いだった。


俺は足元の畑を見た。


砦の周りには畑があった。だが、土の色が悪い。灰色がかっていて、ところどころ黒い染みのようなものがある。畝は崩れ、水路は詰まり、枯れた草が絡んでいた。


痩せた土地、というより、痛んだ土地だ。


死んでいるわけではない。


でも、このままではろくに育たない。


そういう感じがした。


「魔王軍っていうから、もっと怖いのを想像してた」


俺が呟くと、雫が横目で見た。


「がっかりした?」


「いや」


俺は鍋のそばで木の椀を持つ子どもを見た。


「腹減ってそうだと思った」


雫の笑みが消えた。


一瞬、失言だったかと思った。


けれど雫は怒鳴らなかった。ただ、前を向いて言った。


「その感想は、たぶん正しい」


門をくぐると、人々の視線が一斉に集まった。


特に青葉へ向けられる視線はきつかった。


王国の巫女。


それがここでどういう意味を持つのか、俺にも少しわかった。俺たちにとって王国はひどい場所だったが、この人たちにとってはもっと長い間、敵だったのだろう。


小さな男の子が、青葉を指差した。


「巫女さまだ」


その声に、大人たちが慌てて子どもを引き寄せた。


男の子は母親の服を掴みながら、青葉をじっと見た。


「父ちゃん、返してくれるの?」


青葉の顔から血の気が引いた。


俺は何も言えなかった。


王国が何をしたのか、青葉がどこまで関わっていたのか、俺は知らない。でも、あの子にとって巫女とは、父親を奪った側の人間なのだ。


青葉は膝をつきかけた。


その前に、白い外套を羽織った女性がやってきた。柔らかい顔立ちで、髪を低い位置でまとめている。年は二十代前半くらいだろうか。手には薬箱らしきものを持っていた。


「雫さん。また面倒な方を拾ってきましたね」


「拾い物は大事にしろって言うでしょ、宮古凪」


「拾う前に相談してください」


宮古凪と呼ばれた女性は、俺たちの手首の縄を見て、それから青葉の足元に目を向けた。


「怪我をしていますね」


「私は」


「ここでは、傷を見てから立場を聞きます」


凪はそう言って、青葉の前にしゃがんだ。


青葉は戸惑っていた。王国の巫女である自分が、敵地で手当てされるとは思っていなかったのだろう。


凪は青葉の足首に手をかざした。


淡い緑の光が灯る。腫れていた足首が少しずつ落ち着いていく。治癒魔法というやつらしい。初めて見たが、六日の最強スキルよりよほど現実的でありがたく見えた。


「あなたも」


凪が俺を見た。


「肩と肘を擦っています」


「大丈夫です」


「大丈夫かどうかは、治す側が決めます」


言い方は柔らかいのに、逆らえない圧があった。


俺はおとなしく腕を出した。凪の手が近づくと、擦り傷の熱が引いていく。完全に治ったわけではないが、痛みはかなり楽になった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。これで逃げ足も戻りますね」


「逃げない方がいいですよ」


雫が横から言った。


「四歩目で足を射るんだろ」


「覚えてて偉い」


この人たちは、王国が言うような魔物ではなかった。


少なくとも、俺が一週間いた王城よりは、人の怪我にまともな反応をする場所だった。


俺たちは砦の中央にある大きな建物へ連れていかれた。


中は広いが、豪華ではない。床は木。壁には地図や武器がかけられている。暖炉には火が入っていたが、薪を節約しているのか小さい。奥に段差があり、その上に椅子が置かれていた。


玉座、というには素朴すぎる椅子だった。


そこに、少女が座っていた。


年は、六日より明らかに下だ。十四か、もしかすると十三くらいかもしれない。黒い髪を肩の下で切りそろえ、深い緑の外套を羽織っている。外套の留め具には、砦の旗と同じ葉と川の紋章があった。


小さい。


最初にそう思った。


けれど、弱そうとは思わなかった。


少女の背筋はまっすぐで、こちらを見る目は静かだった。子どもが無理をして大人の椅子に座っているのではない。椅子の方が、彼女の年齢に追いついていないだけのように見えた。


雫が軽く頭を下げた。


「楓様。国境で拾いました。王国の巫女一名、召喚者一名。返品は難しそうです」


「雫。人を荷物みたいに言わないで」


少女が言った。


声は若いが、落ち着いていた。


「私は花巻楓。王国が魔王と呼ぶ者です」


その場の空気が、少しだけ重くなった。


青葉が膝をつく。


「杜野青葉と申します。ダーテー王国の巫女でした。亡命を願います」


俺も頭を下げるべきか迷ったが、結局その場に立ったまま言った。


「塩沢大和。異世界から召喚されました。王国から追放されて、ここに来ました」


周囲の兵士たちがざわついた。


「召喚者か」


「また勇者を寄越したのか」


「子どもたちを下げろ」


敵意が肌に刺さる。


無理もない。


王国にとって勇者は希望でも、ここにとっては侵略の象徴なのだろう。


楓は片手を上げた。


ざわめきが止まった。


「あなたのスキルは?」


「EX」


俺が答えると、楓の眉がわずかに動いた。


「意味は?」


「わかりません。王国では外れ扱いでした」


「王国が外れと言ったなら、少しは期待できるかもしれない」


雫が小さく笑った。


楓はそれを無視して、青葉を見た。


「あなたは王国の巫女。召喚に関わったのね」


「はい」


青葉は頭を下げたまま答えた。


「私は、塩沢大和さんと五十沢六日さんを召喚する儀式に加担しました。王国の嘘を疑わず、魔王討伐の大義を信じていました。今さら許されるとは思っていません」


「許されたいから来たの?」


「いいえ」


青葉の声は震えていたが、逃げなかった。


「王国を止めたいから来ました。五十沢様は王子の術式に囚われています。塩沢さんは追放されました。召喚者を利用する仕組みが、今も続いています」


楓はしばらく青葉を見ていた。


それから、俺へ視線を移した。


「あなたは?」


「俺は」


言いかけて、詰まった。


何のために来たのか。


六日を助けたい。


レオンをぶん殴りたい。


王国を見返したい。


どれも嘘ではない。けれど、どれかひとつをここで言うと、たぶん何かが違う気がした。


楓は静かに言った。


「王国では、私を魔王モリューカと呼ぶそうね」


「ああ」


「モリューカは、この土地の古い名。人の名前ではないわ」


やっぱり、と青葉が小さく呟いた。


楓は続けた。


「王国は地名を怪物の名前に変えた。ここに住む人たちの顔を消して、魔王という一つの影にした。その方が攻めやすいから。その方が奪いやすいから」


その言葉は、すんなり理解できた。


人間から奪うのは罪悪感がある。怪物から奪うなら正義になる。


王国はずっと、そうやってきたのだ。


「じゃあ、本当の魔王はいないのか」


俺が聞くと、楓は少しだけ困った顔をした。


「王国がそう呼ぶ相手なら、ここにいるわ。私の父も、祖父も、そう呼ばれた。否定しても聞かないから、最近は返事くらいはすることにしたの」


「雑だな」


「真面目に怒る体力も惜しいの」


その返しは、年齢のわりに妙に疲れていた。


俺は周囲を見た。


壁の地図。傷だらけの兵士。薄い鍋の匂い。外でこちらを見ていた痩せた子ども。砦の外の灰色の畑。


王国が魔王と呼んだ場所は、魔の国ではなかった。


飢えている土地だった。


楓は椅子から立ち上がった。背は低い。けれど、俺を見る目はまっすぐだった。


「塩沢大和。あなたは王国に捨てられた。なら、ここで何をするの?」


その問いは、思ったより重かった。


復讐します、と言うのは簡単だ。


レオンを倒します、と叫ぶのも気持ちいいだろう。


六日を取り戻します、と誓えば、物語っぽくはなる。


でも、俺の目はさっきから窓の外に向いていた。


砦の外の畑。


崩れた畝。


詰まった水路。


黒ずんだ土。


俺は勇者じゃない。


剣も振れない。魔法も知らない。スキルもまだよくわからない。


ただ、米農家の息子だった。


田んぼの水の冷たさを知っている。苗箱の重さを知っている。畦が崩れた時の面倒くささも、土が死にかけている時の匂いも、少しだけ知っている。


そして何より、腹が減っている時に理屈を聞かされるしんどさも、今ならよくわかる。


「まずは」


俺は言った。


声は大きくなかった。


でも、部屋の中にはちゃんと届いた。


「飯を作る」

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