無能EXと、王子に奪われる幼なじみ
その線は、次の日にはもう少し太くなっていた。
俺と六日は同じ王城の中にいた。壁も天井も同じ青葉模様で、窓から見える空も同じだった。なのに、朝食を取る場所は別々になった。
俺に用意された部屋は、王城の西側にある客室だった。客室といえば聞こえはいいが、六日に用意された部屋とはだいぶ違うらしい。俺の部屋はベッドと机と椅子がひとつずつ。窓は細く、外に見えるのは中庭の端っこと城壁だけ。まあ、南魚沼の自分の部屋に比べれば十分広いのだが、王子が「不自由はさせない」と言った時に想像する部屋ではなかった。
六日の部屋は東棟の上階だという。勇者様のための特別室。専属の侍女がつき、護衛がつき、食事も服も全部違う。
その差を教えてくれたのは、意地悪な貴族ではなく、朝食を運んできた若い使用人だった。
「五十沢様は今朝、殿下とご一緒に朝食を取られています」
彼は悪気なくそう言った。悪気がないぶん、こちらも怒鳴りにくい。
「俺は?」
「こちらで」
置かれた皿には、硬めのパンと薄いスープと、焼いた豆みたいなものが乗っていた。不味くはない。けれど、これが勇者様の幼なじみに出す飯かと言われると、たぶん違う。使用人は俺の顔色をうかがうでもなく、仕事を終えたらさっさと部屋を出ていった。
ひとりで食べる朝飯は、思ったより味がしなかった。
食後、六日に会いに行こうとしたが、東棟の入口で兵士に止められた。
「五十沢様は現在、八乙女レオン殿下ならびに榴岡大神官との講義中です」
「幼なじみなんですけど」
「許可のない者は通せません」
「昨日、会うことはできるって殿下が言ってましたけど」
「許可があれば、です」
兵士は感情のない顔でそう言った。俺が何を言っても、その顔は動かなかった。長靴に泥が入った時の方が、まだ反応がある。
仕方なく廊下を戻っていると、青葉と出くわした。
彼女は昨日と同じ白と青の巫女装束を着ていたが、少し疲れて見えた。俺を見つけると、小さく頭を下げる。
「塩沢大和様」
「様はいらない。気持ち悪い」
「では、塩沢さん」
「大和でいい」
青葉は一瞬迷ってから、控えめに頷いた。
「……大和さん。五十沢様にお会いしたいのですよね」
「会わせてくれるのか」
「今は難しいです。勇者としての説明が立て込んでいますので」
「勇者って、昨日スキルが出ただけだろ。まだ何もしてない」
「この国では、スキルの表示は神託に等しいものとされています。特に五十沢様のスキルは、記録にないほど強い。王城の方々が期待するのも、無理はありません」
「期待ね」
俺は窓の外を見た。
中庭では、兵士たちが槍の訓練をしていた。掛け声が石壁に跳ね返り、やけに大きく聞こえる。
「で、俺のEXは?」
青葉の表情が変わった。
ほんのわずかだが、昨日の鑑定の時と同じ顔になった。まずいものを見た顔。
「……まだ、詳しくは」
「外れなんだろ」
「私は、そうは申し上げていません」
「でもレオン殿下はそう言った」
青葉は唇を閉じた。
レオンの名前が出ると、彼女はいつも少しだけ黙る。その沈黙が、俺にはどうにも気になった。
「大和さんの表示は、通常のスキルとは違いました」
「違うって?」
「普通、鑑定板はスキルの名称と、その輪郭を読み取ります。たとえば火の魔術なら熱、剣術なら刃、治癒なら生命の流れが見えます。でも大和さんのEXは……」
青葉はそこで言葉を探した。
「読めなかったのではなく、読ませてもらえなかった、ように見えました」
「誰に」
「わかりません。スキルそのものに、です」
俺は少しだけ笑った。
「俺のスキル、人見知りかよ」
青葉は笑わなかった。
かわりに、真面目な顔で言った。
「念のため、再鑑定を申請します。私がもう一度調べれば、何か」
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
青葉はすぐに口を閉じ、姿勢を正した。やってきたのは、白い神官服を着た女だった。年は三十前後だろうか。美人だが、目元が冷たい。青葉の装束よりも豪華で、胸元には青い宝石がついている。
「杜野青葉」
女は青葉を名字で呼んだ。
「こんな場所で何をしているのです」
「榴岡大神官。私は、召喚者様の体調確認を」
「それは侍医の仕事です。あなたには勇者様の補佐があります。余計なことに時間を使わないように」
榴岡と呼ばれた女は俺を一瞥した。
そこには敵意すらなかった。道端の石を見るような目だった。
「塩沢様も、城内を不用意に歩き回らぬよう。あなたはこの世界に不慣れです。怪我をされては困りますので」
言葉だけ聞けば親切だ。けれど、要するに部屋に引っ込んでいろということだった。
青葉はもう一度俺に頭を下げ、榴岡大神官についていった。
廊下にひとり残されて、俺はしばらくその背中を見ていた。
この城は広い。けれど、俺が自由に歩ける場所は思ったより少なかった。
昼過ぎ、俺は訓練場に行ってみた。
何かできることがあるかもしれない、というより、何もせず部屋にいると頭がおかしくなりそうだった。六日は講義。青葉もいない。帰る方法もわからない。だったらせめて体を動かしたい。
訓練場は城の南側にあった。石畳の広場に砂を敷き、木剣や槍が並べられている。兵士たちが汗を流し、怒鳴り声と金属音が響いていた。
その中央に、六日がいた。
六日は白い訓練服を着て、木剣を持っていた。相手をしているのは、銀色の鎧を着た女騎士だ。背が高く、髪を短く切っている。鋭い目つきだが、怖いというより真面目そうな印象だった。
「長町騎士団長、お願いします!」
六日が声を上げる。
女騎士、長町泉は頷き、木剣を構えた。
次の瞬間、六日の体がぶれた。
俺には何が起きたのかわからなかった。六日が一歩踏み込んだ、ように見えた。その時にはもう、長町騎士団長の木剣が空中を舞っていた。
訓練場にいた兵士たちが歓声を上げる。
六日は自分でも驚いたように目を丸くしていた。
「え、今の私?」
長町騎士団長は飛ばされた木剣を拾い、六日に向かって膝をついた。
「見事です、五十沢様。剣を握って二日目とは思えません」
「いや、でも、私、適当に動いただけで」
「それがスキルの恩寵なのでしょう」
周囲の兵士たちが「勇者様」と口々に呼ぶ。
俺は入口でその光景を見ていた。
六日は昔から運動神経が悪いわけじゃなかった。雪道で転ぶのは多かったが、あれは足元を見ずにしゃべりながら歩くからだ。けれど、剣なんて握ったことはない。少なくとも俺の知る六日は、木刀を持って騎士団長を吹っ飛ばすタイプの幼なじみではなかった。
「すごいな」
思わず呟くと、近くの兵士が俺に気づいた。
「ここは訓練関係者以外立ち入り禁止です」
「俺も召喚者なんだけど」
「殿下より、塩沢様は見学のみと伺っております」
「じゃあ見学する」
「訓練の妨げになります」
どっちだよ。
言い返そうとした時、六日がこちらに気づいた。
「大和くん!」
ぱっと顔が明るくなる。その顔を見ただけで、胸の中のもやもやが少し晴れた。
六日は俺の方へ駆け寄ろうとした。けれど、その前にレオンが現れた。
いつからいたのかわからない。白い上着を羽織り、従者を数人連れて、まるで訓練場の空気まで自分のものみたいな顔で歩いてくる。
「六日さん、素晴らしい動きだった」
「レオン殿下。あの、私、大和くんと少し」
「もちろん。だが、その前に今の感覚を忘れないうちに記録させよう。君の力は貴重だ。一瞬の成長も無駄にしたくない」
レオンはそう言って、六日の肩にそっと手を置いた。
その指には、青い宝石のついた指輪が光っていた。
六日は一瞬だけ迷う顔をした。俺を見て、それからレオンを見る。
「でも」
「彼もわかってくれるさ。君が世界を救うために努力していることを、幼なじみなら誇りに思うはずだ」
レオンの声は優しかった。
優しいのに、逆らいにくい響きがあった。訓練場の兵士たちまで、その言葉に頷いている。長町騎士団長でさえ、表情を変えずに六日の次の訓練準備を始めた。
六日は小さく頷いた。
「ごめん、大和くん。あとで行くから」
「……わかった」
あとで。
その言葉は便利だ。だいたい叶わない約束に使われる。
その日の夜、六日は来なかった。
次の日も来なかった。
三日目、ようやく廊下で会えた時、六日は以前より少し綺麗な服を着ていた。青と白の上衣に、細い金の飾り。髪も侍女に整えられたのか、いつもの適当なひとつ結びではなく、後ろでゆるくまとめられていた。
俺が知っている六日より、少し遠い人間に見えた。
「大和くん、ごめんね。全然会えなくて」
「忙しいのは見てればわかる」
「うん。なんか、覚えること多くて。歴史とか、魔王のこととか、剣の使い方とか、礼儀とか。私、頭パンクしそう」
「帰る方法は?」
六日は一瞬、口を閉じた。
「それも、レオン殿下が調べてくれてるって」
「お前は調べてないのか」
「私が調べても、文字も読めないし」
「青葉に聞いたらいい」
「青葉さんも忙しいみたい。榴岡大神官が、巫女には巫女の仕事があるって」
何もかも、レオンとその周りを通さないと進まない。
そういう仕組みにされている気がした。
俺は少し声を落とした。
「六日。お前、あいつに気をつけろ」
「あいつって、レオン殿下?」
「そう」
六日は困ったように笑った。
「大和くん、最初からレオン殿下のこと嫌いだよね」
「向こうも俺のこと嫌いだと思う」
「そんなことないよ。殿下、大和くんの生活も保証するって言ってくれたじゃん」
「部屋からあんまり出るなって意味の保証なら、確かにされてる」
六日は眉を寄せた。
「でも、大和くんも少しは協力した方がいいと思う。ここ、本当に大変なんだよ。魔王が攻めてくるかもしれないって、みんな怖がってる。私にできることがあるなら、やらなきゃって」
「それはわかる。でも、勝手に呼ばれたんだぞ」
「うん。それはそうだけど」
六日は視線を落とした。
「でも、怒ってばっかりじゃ帰れないよ」
その言葉は、たぶん六日なりの正論だった。
けれど、俺には少し痛かった。
「俺が怒ってるだけに見えるか」
「そういうわけじゃ」
「俺は、お前と帰りたいだけだ」
言ってから、自分で驚いた。
思ったより直接的な言葉だった。六日も目を丸くしていた。廊下の窓から差し込む光の中で、彼女の頬が少し赤くなる。
「……うん。私も、帰りたい」
六日は小さく言った。
その一言で十分なはずだった。
それなのに、廊下の向こうから聞こえた足音が、またその空気を壊した。
「六日さん」
レオンが歩いてくる。
まるで俺たちが二人きりになる時間を、誰かが見張っているみたいなタイミングだった。
「探したよ。午後の講義が始まる」
「あ、はい。すみません」
六日は慌てて姿勢を正した。
俺は言った。
「五分くらいいいだろ」
レオンは俺を見た。
「五分で済む話かな」
「済ませる」
「君はそう思っても、彼女は優しい。君が不安そうな顔をすれば、ずっと付き合ってしまうだろう」
その言葉に、六日が少し困った顔をした。
俺は腹の底が冷えていくのを感じた。
レオンは続ける。
「大和さん。君の不安は理解する。だが、彼女はこの世界の希望だ。彼女が前へ進もうとしている時、君の寂しさで足を引っ張るのは、本当に彼女のためになるのかな」
周囲にいた侍女や兵士が、静かにこちらを見る。
誰も何も言わない。だが、視線だけで十分だった。
俺が悪いのか。
そう思わされる空気が、ゆっくりと廊下に満ちていく。
六日は唇を噛み、俺を見た。
「大和くん、また後で話そ」
「ああ」
その「後で」は、やっぱり来なかった。
王城での生活は、日に日に俺から客人の形を剥がしていった。
最初は客室にいた。次に、部屋が西棟のさらに端へ移された。理由は「勇者様の警護導線を確保するため」。その次は食事が部屋ではなく、使用人たちの食堂に変わった。理由は「城内の人員整理」。さらにその次は、俺に簡単な手伝いが割り振られた。
馬小屋の水運び。厨房の薪運び。倉庫の荷物整理。
別に働くのは嫌いじゃない。米農家の息子として生きてきて、手を動かすことには慣れている。重いものを持つのも、泥臭い作業も、今さら文句はない。
ただ、扱いが変わっていく速度だけは、笑えなかった。
「召喚者様」と呼ばれていたのが、「塩沢様」になり、そのうち「塩沢さん」になった。最後には、年上の使用人から「おい、そっち持て」と言われるようになった。
それでも俺は、六日に会う手段を探した。
手紙を書こうとしたが、この世界の文字は読めないし書けない。青葉に頼もうとしても、彼女も見かけなくなった。東棟には入れない。訓練場は門前払い。講義のある神殿区画も立ち入り禁止。
城の中にいるのに、六日はどんどん遠くなった。
一度だけ、夜の中庭で青葉に会った。
彼女は誰かを避けるように、足早に歩いていた。俺が声をかけると、ひどく驚いた顔をした。
「大和さん」
「久しぶり」
「すみません。なかなかお会いできず」
「青葉が謝ることじゃないだろ。忙しいんだろ」
「……はい」
嘘ではないが、全部でもない。そんな返事だった。
月明かりに照らされた青葉の顔は、以前よりやつれていた。
「再鑑定の話、どうなった」
俺が聞くと、青葉は周囲を見回した。
「申請は却下されました」
「誰に」
「榴岡大神官と、殿下に」
「理由は」
「不要、とのことです。五十沢様のスキル研究を優先すべきだと」
「まあ、そうなるか」
自分で言って、少し嫌になった。
青葉は俺の前に立ち、低い声で言った。
「大和さん。殿下の言葉には、気をつけてください」
「言葉?」
「この国では、王族の言葉はただの言葉ではありません。特に八乙女家の血は、人の感情に強く作用します。感謝、敬意、依存、恐れ。そういったものを、別の形に変えてしまうことがある」
「それ、どういう」
青葉は答えようとした。
だが、中庭の奥から別の声がした。
「杜野」
榴岡大神官だった。
青葉の体が強張る。彼女は俺に何かを言いかけたが、結局、頭を下げただけだった。
「夜に召喚者と密談ですか」
榴岡大神官はゆっくり歩いてきた。
「違います。体調確認を」
「その言い訳は聞き飽きました。あなたは巫女です。自分の立場を忘れぬように」
青葉は連れていかれた。
去り際、彼女は一瞬だけ振り返った。
その目が、逃げて、と言っているように見えた。
俺はその夜、初めて自分のスキルを本気で試した。
部屋に戻り、扉を閉める。机の上に置いた水差し、燭台、ナイフ代わりの小さな食器、窓辺に置かれていた枯れかけの花。何でもいい。発動しろ。火でも水でも超能力でも、何か起きろ。
「EX」
声に出してみた。
何も起きない。
「イーエックス」
何も起きない。
「発動」
何も起きない。
「抽出。拡張。例外。外れスキルじゃありませんでした、みたいな都合のいいやつ」
枯れかけの花は、枯れかけのままだった。
俺は椅子に座り込み、天井を見上げた。
情けない。まったく情けない。
六日は剣を握れば騎士団長を吹っ飛ばす。俺は枯れた花ひとつどうにもできない。
レオンの言う通りなのかもしれない。
その考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥がざらついた。
違う。
あいつの言う通りになってたまるか。
けれど、何が違うのかを証明するものは、何もなかった。
王城に来てから七日目の夕方、俺はようやく六日とまともに話せた。
場所は城の裏手にある小さな庭だった。洗濯物を運んでいた使用人のひとりが、気の毒そうな顔で「勇者様が夕刻に庭へ出られるらしい」と教えてくれたのだ。その人が親切だったのか、誰かの罠だったのかはわからない。だが、行かない選択肢はなかった。
庭には、青い花が咲いていた。
この世界の花は、微妙に形が違う。桜に似ているが花びらが六枚あったり、タンポポみたいなのに葉が銀色だったりする。そんな中で、六日はひとりで石のベンチに座っていた。
俺を見ると、六日は立ち上がった。
「大和くん」
声は小さかった。
俺は彼女の前まで歩いた。
「久しぶり」
「うん」
「元気か」
「元気、だと思う」
思う、という言い方が引っかかった。
六日は前より痩せたように見えた。服は綺麗だ。髪も整っている。けれど目の下に薄い影がある。笑顔もどこか借り物みたいだった。
「大和くんは?」
「馬小屋の掃除が上手くなった」
「え」
「あと薪割りも。異世界に来てまで筋肉痛だ」
六日は少し笑った。けれどすぐに、その笑顔は消えた。
「ごめん」
「お前が謝るなよ」
「でも、私のせいで」
「お前のせいじゃない」
そこまでは、本心だった。
六日は巻き込まれただけだ。スキルが出たのも、周りが持ち上げるのも、六日が望んだことじゃない。
ただ、その後に続く言葉が出なかった。
じゃあ誰のせいだ。レオンか。王国か。召喚した連中か。たぶん全部そうだ。けれど、目の前の六日が少しずつ変わっていることまで、全部他人のせいにしていいのか。
六日は俺を見上げた。
「大和くん、私ね、考えたんだ」
嫌な予感がした。
こういう時の「考えた」は、だいたい誰かに考えさせられた結果だ。
「私たち、元の世界に帰りたいよね」
「ああ」
「そのためには、この世界で役割を果たさないといけないんだと思う。魔王を倒すとか、王国に協力するとか、そういうことをちゃんとやれば、帰る方法も探してもらえる」
「レオンがそう言ったのか」
「殿下だけじゃないよ。榴岡大神官も、勾当台宰相も、みんな言ってる」
みんな。
便利な言葉だ。
「六日、お前はどうしたい」
俺が聞くと、六日は少し困ったように眉を寄せた。
「だから、私は」
「誰かが言ってることじゃなくて。お前がどうしたいかだよ」
六日は黙った。
風が吹いて、青い花が揺れた。
しばらくして、六日はぽつりと言った。
「私は、大和くんに隣にいてほしかった」
胸が痛んだ。
過去形だった。
「今は?」
聞かない方がいいとわかっていたのに、聞いてしまった。
六日は視線を逸らした。
「今は……私、勇者だから」
「勇者だから、俺はいらないのか」
「そうじゃない!」
六日は強く言った。けれど、その声はすぐにしぼんだ。
「そうじゃないけど……大和くんがそばにいると、私、弱くなる。帰りたいって思う。怖いって思う。逃げたいって思う。でも、そんなの駄目なんだよ。みんな私を信じてくれてる。レオン殿下も、私のために」
「俺はお前のためじゃないって?」
「違う。違うけど」
六日の目が潤んだ。
俺は手を伸ばしかけた。
その時、庭の入口から拍手が聞こえた。
「美しい友情だね」
レオンだった。
彼はいつもの笑顔で庭に入ってきた。後ろには兵士が二人。まるで最初からここで俺たちが会うことを知っていたみたいだった。
「殿下」
六日が立ち上がる。
レオンは彼女の横に立ち、自然な仕草でその肩に手を置いた。
俺はその手を見た。
青い宝石の指輪が、夕陽を受けて淡く光った。
「大和さん。彼女を責めるのはやめてくれないか」
「責めてない」
「君にそのつもりがなくても、彼女は責任を感じる。優しい子だからね」
「お前が言うな」
兵士が一歩前に出た。
六日が慌てて言う。
「大和くん、やめて」
その声が、俺を止めた。
レオンは少し悲しそうな顔をした。こういう顔まで上手い。見ているだけで腹が立つくらい、隙がない。
「君の苦しみはわかる。突然知らない世界に呼ばれ、力も与えられず、幼なじみだけが選ばれた。惨めだろう。不安だろう。だが、その痛みを彼女に背負わせるべきではない」
言葉が、刃物みたいに整っていた。
周りの兵士たちは、当然のようにレオンの言葉を受け入れている。六日も、顔を伏せている。
俺だけが、それを飲み込めなかった。
「六日」
俺は彼女を見た。
「俺を見ろ」
六日はゆっくり顔を上げた。
けれど、その目は俺を通り越しているようだった。俺を見ると傷つくから、見ないようにしている。そんな目だった。
「俺はお前を責めたいわけじゃない。一緒に帰りたいだけだ」
「……大和くんは」
六日が言った。
「現実を見た方がいいよ」
息が止まった。
たった一言だった。
怒鳴られたわけじゃない。罵られたわけでもない。けれど、その言葉は今まで食らったどんなものより重かった。
現実。
俺たちが田んぼにいた現実は、もう違うのか。
泥だらけになって笑っていた六日は、もういないのか。
六日はすぐに「違う、今のは」と言いかけた。だがレオンが肩に置いた手に力を込めると、彼女は口を閉じた。
俺はそれを見た。
見たのに、何もできなかった。
レオンは静かに言った。
「今夜、正式な発表がある。君にも出席してもらうよ、大和さん。彼女の新しい門出だ」
その発表は、大広間で行われた。
王城中の貴族が集まっていた。青い旗が壁に垂れ、楽師が弦楽器を鳴らしている。豪華な食事が並び、杯には香りの強い酒が注がれていた。俺は広間の端、柱の影に立たされた。服だけは少しまともなものを着せられたが、席はない。
壇上にはレオンがいた。
その隣に、六日がいた。
白いドレスを着ていた。
見たことがないくらい綺麗だった。悔しいくらい似合っていた。けれど、俺の知っている六日なら、あんな肩の凝りそうな服を着せられたら真っ先に「無理、動けない」と文句を言うはずだった。
今の六日は、ただ静かに立っていた。
宰相だという勾当台国分が、巻物を広げて声を張った。
「異世界より召喚されし勇者、五十沢六日様は、その比類なき御力をもって我らダーテー王国を救う光となられる。八乙女王家はこの尊き縁を永遠のものとすべく、ここに第一王子八乙女レオン殿下と五十沢六日様との婚約を宣言する」
拍手が起きた。
広間が揺れるほどの拍手だった。
俺だけが動けなかった。
婚約。
言葉の意味が、少し遅れて頭に入ってきた。
六日と、レオンが。
俺は壇上の六日を見た。
六日は俺を見ていた。ほんの一瞬だけ、目が合った。彼女の瞳が揺れた。助けて、と言ったようにも見えた。ごめん、と言ったようにも見えた。
でも次の瞬間、レオンが六日の手を取った。
六日は視線を伏せた。
拍手がさらに大きくなった。
俺は前に出ようとした。
すぐに兵士に腕を掴まれた。
「離せ」
「お控えください」
「離せって言ってんだろ」
長町騎士団長が俺の前に立った。彼女は無表情だったが、目だけは少し苦しそうに見えた。
「塩沢様。今ここで騒げば、あなたの立場がさらに悪くなります」
「これ以上悪くなるのかよ」
「なります」
短い答えだった。
壇上では、レオンが六日の手の甲に口づけを落としていた。
六日は笑っていた。
いや、笑わされていた。
俺にはそう見えた。
式の後、俺は広間から追い出されるように廊下へ連れていかれた。長町騎士団長ではなく、知らない兵士二人だった。抗おうと思えば抗えたかもしれない。だが、どこへ行けばいいのかわからなかった。六日のところへ向かっても、また止められる。叫んでも届かない。
廊下の奥で、レオンが待っていた。
さっきまでの式典用の笑顔は消えていた。いや、口元は笑っている。けれど目がまったく笑っていない。
兵士たちは俺をその場に残し、数歩下がった。
レオンはゆっくり近づいてきた。
「あぁ、いたね。君みたいなやつ」
その言葉を聞いた瞬間、体の中で何かが冷たく固まった。
「目障りだから消えてくれないか?」
ずいぶん軽い口調だった。
昼飯のメニューから嫌いな野菜を抜いてくれ、くらいの言い方だった。
「六日に何をした」
俺が言うと、レオンは心底不思議そうな顔をした。
「何を、とは?」
「お前の言葉を聞くたびに、あいつがおかしくなってる」
「彼女は成長しているんだよ。田舎の幼なじみから、世界を救う勇者へね」
田舎。
その言い方に、胃の奥が煮えた。
「お前に六日の何がわかる」
「少なくとも、君より今の彼女を理解しているつもりだ。彼女は強い。だが、同時に不安定だ。元の世界への未練、君への情、罪悪感。そういう余計なものが、彼女の力を鈍らせる」
「余計なもの?」
「そう。君だよ」
レオンははっきり言った。
「君は彼女にとって枷だ。何の力もなく、何の役にも立たず、それでも昔の関係だけを根拠に隣にいようとする。彼女が前に進むほど、君は自分の惨めさを突きつけられる。互いに不幸だろう?」
言葉が出なかった。
怒りで、ではない。
この男は、俺が自分で見ないようにしていたものを、正確に言葉にしてきた。
役に立たない。
六日の足を引っ張っている。
そう思わなかったと言えば嘘になる。
レオンはそこを突いてくる。優しく、丁寧に、逃げ道を塞ぐように。
「だから、私が解決してあげる」
レオンが指を鳴らすと、勾当台宰相が現れた。手には巻物を持っている。
「塩沢大和。王城内における再三の規律違反、勇者五十沢六日様への精神的負荷、ならびに王国防衛への非協力的態度を鑑み、八乙女王家の名において王都青葉より追放とする」
勾当台宰相は淡々と読み上げた。
規律違反。
精神的負荷。
非協力的態度。
便利な言葉はいくらでもあるらしい。
「六日は知ってるのか」
俺はレオンを見た。
「彼女には知らせない方がいいだろう。優しいから、きっと心を痛める」
「ふざけるな」
「ふざけてはいないよ。私は彼女を守っている」
「自分のものにしたいだけだろ」
レオンは初めて、笑みを消した。
ほんの一瞬だった。けれど、その顔には醜いものがはっきり浮かんでいた。
次の瞬間には、また綺麗な王子の顔に戻る。
「連れていけ」
兵士が俺の腕を掴んだ。
今度は抵抗した。
ひとりの腹を肘で打ち、もうひとりの手を振りほどく。農作業で鍛えた腕力を舐めるな、と言いたいところだが、相手は訓練を積んだ兵士だ。すぐに三人目が来て、膝を蹴られ、床に押さえつけられた。
頬が冷たい石に当たる。
レオンの靴が視界に入った。
「最後にひとつ教えてあげよう、大和さん」
レオンはしゃがみ、俺の耳元で囁いた。
「彼女はもう、君の知っている六日ではない。君が守ってきた女の子は、今夜、私の隣に立つことを選んだ」
「選ばせたんだろ」
「選ぶというのは、そういうものだよ。強い言葉、正しい場所、美しい未来。その中で人は、自分が望む答えを見つける」
指輪の青い宝石が、近くで薄く光った。
その光を見た瞬間、胸の奥でざらりとした違和感が走った。何かが俺の中に入り込もうとして、弾かれたような感覚。レオンもわずかに眉を動かした。
だが、すぐに興味をなくしたように立ち上がった。
「消えてくれ。君がいると、物語が濁る」
それからのことは、妙にはっきり覚えている。
部屋に戻ることも許されず、俺の私物らしきものが入った布袋だけ渡された。といっても、元の世界から持ってきた物はほとんどない。田んぼで着ていた作業着はどこかに消え、代わりに薄い上着と硬いパンが二つ、少しの銅貨が入っていた。
城門まで連れていったのは長町騎士団長だった。
彼女は無言で歩いた。俺も何も言わなかった。言ったところで、彼女が命令を破るとは思えなかった。
王城を出ると、王都の街が広がっていた。
石畳の道、青い屋根の建物、市場の匂い、人々の声。俺が王城に閉じ込められている間も、この街は普通に動いていたらしい。野菜を売る女、荷車を押す男、走り回る子ども。誰も俺のことなんて見ない。
世界は、俺が追放されても何も変わらない。
そんな当たり前のことが、やけに腹立たしかった。
城壁の外門まで来たところで、長町騎士団長が立ち止まった。
「ここから先は、あなたひとりです」
「どこへ行けって?」
「南へ向かえば農村があります。東は湿地帯。北は国境に近く危険です」
「魔王領か」
長町騎士団長は答えなかった。
俺は笑った。
「追放する相手に道案内とは親切だな」
「任務です」
「六日は、本当に何も知らないのか」
長町騎士団長は少しだけ目を伏せた。
「勇者様は、現在お休みになっています」
「寝てるのか。寝かされてるのか」
「私には答えられません」
またそれだ。
答えられないことばかりの国だ。
長町騎士団長は腰の小袋を外し、俺に投げた。受け取ると、中には銅貨と、小さな干し肉が入っていた。
「これは命令にないものです」
「いいのかよ」
「見逃してください」
彼女は短く言った。
「塩沢様。あなたが本当に無力なら、殿下はここまで急がなかったでしょう」
俺は顔を上げた。
長町騎士団長はそれ以上何も言わず、外門の内側へ戻っていった。
門が閉まる。
重い音だった。
俺はしばらく、その門を見ていた。
怒りも悲しみも、全部が腹の底でぐちゃぐちゃになっていた。叫びたい。殴りたい。戻りたい。六日に会いたい。帰りたい。けれど、どれもできない。
できるのは、歩くことだけだった。
俺は王都に背を向けた。
夕方の空は、田んぼで見た空とよく似ていた。腹が立つくらい普通の夕焼けだった。
城壁沿いの道をしばらく歩くと、人の気配は少なくなった。石畳は土の道に変わり、草むらから虫の声がした。異世界の虫も、鳴き声はだいたい虫だった。妙なところだけ現実的で嫌になる。
硬いパンをかじりながら、俺は六日のことを考えた。
現実を見た方がいいよ。
あの声が、何度も頭の中で再生される。
昔、六日は用水路に落ちたことがある。小学校三年の春だった。雪解け水で増えた用水路は流れが速く、六日は足を滑らせて落ちた。俺は何も考えずに手を伸ばして、二人まとめて泥だらけになった。帰ったらお互いの親にめちゃくちゃ怒られた。六日は泣きながら「大和くんがいてよかった」と言った。
あの時の六日と、今日の六日は同じ人間なのか。
同じに決まっている。
そう思いたいのに、レオンの言葉が頭に残る。
彼女はもう、君の知っている六日ではない。
「うるせえ」
誰もいない道で呟いた。
言ってから、急に虚しくなった。
夜が近づいていた。
どこかで寝る場所を探さないといけない。南へ行けば農村があると長町騎士団長は言った。だが、王国の追放者を泊めてくれるかどうかはわからない。北へ行けば国境。危険。魔王領。
どこを選んでも、ろくな未来が見えない。
俺は道端の大きな石に腰を下ろした。
疲れていた。
体よりも、頭と心が疲れていた。
空を見上げると、星が出ていた。南魚沼で見る星と少し違う気もするし、同じ気もする。星座なんて詳しくないから判断できない。こんな時、六日ならスマホで星座アプリを出そうとして、圏外だと騒ぐだろう。
スマホ。
そういえば、ポケットになかった。
田んぼで持っていたはずのスマホも、財布も、家の鍵も、全部ない。俺は本当に、何も持たずにこの世界へ放り出されたらしい。
いや、持っているものがひとつだけあった。
EX。
何ができるのかもわからない、二文字のスキル。
「最悪だな」
呟くと、草むらが揺れた。
俺は立ち上がった。
最初は獣かと思った。次に追手かと思った。どちらにせよ、ありがたい相手ではない。
だが、草むらから現れたのは青葉だった。
巫女装束は泥で汚れ、袖の一部が破れていた。髪も乱れ、息が上がっている。王城で見た時の整った姿とはまるで違っていた。
「青葉?」
俺が名前を呼ぶと、青葉はほっとしたように膝をついた。
慌てて駆け寄り、肩を支える。
「お前、何してるんだ」
「追放、されました」
青葉は苦しそうに笑った。
「召喚の大義は果たされた。巫女としての役目は終わったそうです」
「役目が終わったら、こんな夜に放り出されるのかよ」
「放り出されるだけなら、まだましでした」
その言い方で、だいたい察した。
神殿に下がれ。
榴岡大神官の声が頭に浮かぶ。あれは左遷ではなく、口封じだったのだろう。
「逃げてきたのか」
「はい」
青葉は頷いた。
「大和さんにも危険が迫ると思いました。殿下は、あなたをただの外れとは見ていません。少なくとも、排除すべき相手だと判断しています」
「買いかぶりだ。俺は何もできない」
「何もできない人を、殿下は恐れません」
長町騎士団長と同じようなことを言った。
俺は青葉を見た。
「俺のEXって、何なんだ」
青葉は少し迷った。
けれど今度は、逃げなかった。
「わかりません。ただ、あの鑑定板は大和さんを測れませんでした。王国の鑑定術も、王命の術式も、あなたの内側に届かなかった。そんな召喚者は記録にありません」
「王命の術式?」
青葉は唇を噛んだ。
「殿下の力です。王族の血に宿る、人の心を従わせる力。命令ではなく、感情を変える。尊敬を愛に、不安を依存に、感謝を忠誠に。強い心なら抗えます。でも、孤独や恐怖につけ込まれると」
六日の顔が浮かんだ。
訓練場で、庭で、大広間で。
レオンの手が肩に置かれるたび、指輪が光るたび、六日の目から何かが抜け落ちていくように見えた。
俺は拳を握った。
「やっぱり、あいつが」
「完全な操り人形にする力ではありません。だからこそ厄介なんです。本人の心にある感情を利用する。五十沢様はきっと、あなたへの申し訳なさや、帰れない不安や、期待に応えなければならない責任感を抱えていた。殿下はそこへ入り込んだのだと思います」
怒りが、今度ははっきり形になった。
六日が俺を傷つけたことは消えない。
あの言葉を忘れることはできない。
でも、それを仕組んだやつがいるなら、話は別だ。
「青葉。お前はなんで俺にそこまで話す」
俺が聞くと、青葉は泥のついた手を握りしめた。
「私は、召喚に加担しました」
声が震えていた。
「あなたたちを呼んだ儀式で、私は巫女として祈りました。世界を救うためだと言われて、疑いませんでした。でも、違った。王国は勇者を利用する気です。五十沢様も、あなたも、これまでの召喚者たちも」
「これまで?」
「はい。異世界召喚は、今回が初めてではありません」
夜風が吹いた。
草がざわめく。
青葉は顔を上げ、王都の方を見た。遠くに青葉王城の灯りが見える。綺麗な灯りだった。外から見れば、あそこに悪意が詰まっているとは思えないくらいに。
「私はもう、あの城には戻れません。大和さんも戻れば殺されます。五十沢様を救うにしても、今のままでは何もできません」
「じゃあ、どうする」
青葉は俺を見た。
目は疲れていた。怖がっていた。それでも、まっすぐだった。
「王国が魔王と呼ぶものの、本当の姿を知る必要があります」
「魔王モリューカか」
「はい。ただし、モリューカという名には不自然な点が多い。古い地図では、それは人名ではなく北の土地の名として記されています」
「土地?」
「王国は、何かを隠しています。魔王という敵を作り、勇者を必要とする理由を」
俺は北の道を見た。
暗い。
長町騎士団長は危険だと言った。国境に近い。魔物が出るかもしれない。王国の追手も来るかもしれない。
南へ行けば、少なくとも人里がある。どこかで働いて、食いつなぐことはできるかもしれない。だが、それでは六日には届かない。レオンにも届かない。俺はただ追放されたまま、あの城の外で腐っていくだけだ。
北へ行けば、魔王領。
笑える。
この世界に来て一週間で、俺は勇者側から魔王側へ行こうとしている。
「青葉」
「はい」
「魔王って、俺たちを殺すかな」
「わかりません」
正直すぎる返事だった。
俺は少し笑った。
「そこは嘘でも、殺しませんって言えよ」
「嘘をついて連れていくのは、もう嫌なんです」
青葉はそう言って、深く頭を下げた。
「大和さん。私はあなたに償わなければなりません。でも、今の私にできることは少ない。道を知っていることと、王国の嘘を少し知っていること。それだけです」
十分だった。
少なくとも、今の俺よりはずっと多く持っている。
俺は手を差し出した。
青葉は少し驚いた顔をした。
「立てるか」
「はい」
青葉が俺の手を取る。
冷たい手だった。
立ち上がった彼女は、北の闇を見つめた。王城で巫女として立っていた時より、今の方がずっと頼りなく見える。けれど、不思議と今の方が信用できた。
青葉は小さく息を吸った。
それから、震える声を無理やり整えるようにして言った。
「塩沢大和さん。いっそ、魔王に亡命しませんか?」




