田んぼに落ちた光と、幼なじみの最強スキル
田んぼの水面に、まだ白い筋を残した山が逆さまに映っていた。
新潟県南魚沼の春は、だいたい信用ならない。日差しだけ見れば初夏みたいな顔をしているくせに、田んぼに足を入れた瞬間、雪解け水の冷たさが骨まで刺さる。
俺、塩沢大和は、その冷たい水に膝下まで浸かって、苗箱を両手で抱えていた。
米農家の息子だからといって、田んぼに立つ姿が様になるわけじゃない。少なくとも俺はならない。長靴の中にはとっくに水が入っているし、腰は痛いし、首筋には汗が流れている。親父は「若いんだから平気だろ」と言うが、若さで解決するなら湿布なんかこの世に存在していない。
「大和ー、そっち曲がってる」
田んぼの端から声が飛んできた。
振り返ると、五十沢六日が畦の上に立っていた。五十沢と書いて、いかざわ。六日と書いて、ろくひ。初対面のやつはだいたい一回読み間違える。本人は慣れていると言うが、慣れているわりには「むいかちゃん」と呼ばれると目が笑わなくなる。
六日は麦わら帽子を片手で押さえながら、もう片方の手で俺の植えた苗を指差していた。
「曲がってねえよ」
「曲がってるって。ほら、そこ。性格出てる」
「俺の性格が曲がってるみたいに言うな」
「違うの?」
「違うわ」
六日は楽しそうに笑った。
昔からそうだ。俺が少しムキになると、六日はだいたい満足そうな顔をする。幼稚園の頃からの付き合いで、小学校も中学校も高校も同じ。家も近い。俺の家が田んぼで忙しい時期になると、六日はなぜか当然のように手伝いに来る。
別に六日の家がうちの小作人というわけでもない。ただ、いつの間にかそういうことになっていた。
親父もお袋も、六日が来ると驚かない。むしろ「ああ、来たか」くらいの扱いだ。うちの犬ですら、俺より先に六日に尻尾を振る。
「休憩しよ。おばさんが麦茶持ってけって」
「まだ半分残ってる」
「だから休憩するんじゃん。全部終わってから休憩したら、それただの終了だよ」
理屈としては正しい気がしたので、俺は苗箱を軽トラの荷台に戻し、畦に上がった。長靴から水がぐぽっと嫌な音を立てる。六日はそれを見て、また笑った。
「農家の息子なのに、長靴の中びしゃびしゃじゃん」
「農家の息子は水を弾く体質じゃない」
「えー、違うの?」
「違う。お前は米農家に何を期待してるんだ」
六日は麦茶の入ったペットボトルを俺に渡してきた。手が触れた。別に初めてじゃない。そんなことでいちいち反応するほど初心でもない。……はずなのに、なぜか今日は妙に意識してしまった。
たぶん、春だからだ。
高校を卒業して、俺たちは少しだけ宙ぶらりんだった。俺は家を手伝いながら、地元に残るか、いったん外へ出るか決めかねている。六日は新潟市の専門学校に行く予定で、夏前には準備のために向こうへ移るかもしれない。
ずっと隣にいたものが、少しずつ距離を持ちはじめる。
それが嫌なら、何か言えばいい。
好きだとか、行くなとか、一緒にいたいとか。
けれど、そんな言葉は田んぼの泥より重くて、俺の口からはなかなか出てこなかった。
「なに見てんの」
六日がペットボトルに口をつけながら言った。
「別に」
「嘘だ。今、すごい真面目な顔してた」
「田んぼの将来について考えてた」
「かっこつけても泥ついてるよ、ほっぺ」
六日は自分の頬を指でつついた。俺が手の甲で拭うと、六日は首を横に振る。
「逆。そっちじゃない」
「こっち?」
「違う。あーもう」
六日が畦から一歩近づき、俺の頬についた泥をタオルで拭った。
近い。
帽子の影から覗く目が、少しだけ細くなる。六日は昔からよく笑うが、こういう時だけ、笑い方が静かになる。何か言いたそうにして、けれど結局言わない。
俺も同じだった。
「……取れた?」
「うん。男前になった」
「元からだろ」
「そういうとこだよ、大和は」
六日は呆れたように言って、けれど最後には笑った。
その時、空が光った。
雷だと思った。けれど音がしなかった。
田んぼの水面に映っていた山が、白く潰れた。雲の切れ間でも、太陽の反射でもない。空の一点が、まるでそこだけ紙を焼いたみたいに丸く明るくなっている。
「なに、あれ」
六日が呟いた。
俺は麦茶のペットボトルを握ったまま、空を見上げた。光は少しずつ大きくなっていた。落ちてきている。そう気づいた瞬間、背中に冷たいものが走った。
「六日、下がれ!」
俺は六日の腕を掴んだ。
だが遅かった。
光は音もなく落ちてきた。流れ星なんて綺麗なものじゃない。白い杭が空から地面へ打ち込まれるような、そんな無茶苦茶な光だった。
足元の水が白く染まる。田んぼの泥も、畦の草も、軽トラも、六日の麦わら帽子も、全部が輪郭を失っていく。
六日が俺の名前を呼んだ。
俺は六日を庇うように抱き寄せた。水に足を取られて、泥の中で半分転びかける。六日の指が俺の服を掴む感触だけがやけにはっきりしていた。
次の瞬間、目の奥を直接殴られたみたいな白が来た。
最後に思ったのは、親父に怒られるな、だった。
田んぼの真ん中で倒れたら苗が駄目になる。そんな場違いな心配を最後に、俺の意識はあっさり途切れた。
目を開けた時、まず思ったのは、天井が高すぎる、だった。
見知らぬ天井、なんて言い方をすると落ち着いているようだが、実際にはかなり混乱していた。そもそも俺の人生で見知った天井なんて、自分の部屋と学校と病院くらいしかない。だが今見えている天井は、そのどれとも違った。
木じゃない。コンクリートでもない。白い石を削って作ったような天井に、葉っぱみたいな模様が細かく彫られている。蛍光灯はない。代わりに壁際の燭台みたいなものが青白く光っていた。
体を起こそうとして、頭がぐらついた。
「っ……」
「大和くん!」
聞き慣れた声がした。
横を見ると、六日がすぐそばにいた。俺と同じように、見たことのない薄い布の服を着せられている。田んぼで泥だらけだったはずなのに、髪も顔も綺麗になっていた。麦わら帽子はない。
六日は俺の肩に手を添え、泣きそうな顔で覗き込んできた。
「よかった……起きた……」
「ここ、どこだ」
「わかんない。私もさっき起きたばっかりで……大和くん、覚えてる? 田んぼで、光が」
「覚えてる。最悪な感じでな」
俺は自分の手を見た。泥は落ちている。爪の間まで綺麗だ。誰かが洗ったのか。いや、それを考え始めると、服を着替えさせたのは誰だという話になって気分が悪くなりそうだったのでやめた。
部屋の隅に人影があった。
俺は反射的に六日を背中に庇った。体はまだ重いが、立てないほどじゃない。
そこにいたのは、少女だった。
年は俺たちと大きく変わらないように見える。黒い髪を肩のあたりで切りそろえ、青い紐で結んでいた。服は巫女装束に似ているが、俺の知っている神社のそれよりずっと装飾が多い。白と青を基調にした布が幾重にも重なり、胸元には若葉の形をした飾りが光っていた。
少女は俺たちを見ると、深く頭を下げた。
「お目覚めになりましたか。塩沢大和様、五十沢六日様」
俺は眉をひそめた。
名前を呼ばれたことより、その発音が気になった。日本語に聞こえる。けれど、ほんの少しだけ違う。口の動きと耳に届く音が噛み合っていないような、妙な違和感がある。
「誰だ、あんた」
「私は杜野青葉と申します。この青葉王城に仕える巫女です」
「青葉……王城?」
「はい。ここはダーテー王国、王都青葉にございます」
「ダーテー?」
思わず聞き返した。
六日も隣で小さく呟く。
「伊達……じゃなくて?」
少女、杜野青葉は困ったように目を伏せた。俺たちの反応の意味はわからないらしい。
「混乱されるのは当然です。お二人は、我々の世界とは異なる世界より召喚されました」
部屋が一瞬、静かになった。
六日の手が、俺の服の裾を掴んだ。
俺は青葉を睨んだ。
「召喚って、勝手に連れてきたって意味か」
青葉は唇を噛んだ。ほんの少しだけ、痛そうな顔をした。
「……はい」
謝罪の言葉を探しているのがわかった。だが、俺はそれを待つほど人間ができていなかった。
「帰してくれ。今すぐ」
「それは……」
「できないのか」
「現時点では、私の一存では」
「つまりできないってことだろ」
言い方がきつくなった自覚はあった。青葉が悪いのかどうかもわからない。けれど、俺たちは田んぼにいたのだ。親の手伝いをして、泥だらけになって、麦茶を飲んでいた。それが突然、わけのわからない場所に連れてこられた。
怒るなという方が無理だった。
六日が小さな声で言った。
「大和くん……」
その声に、俺は息を吐いた。六日に怖い顔を見せたいわけじゃない。けれど笑える状況でもない。
青葉は深く頭を下げたまま言った。
「お怒りは当然です。ですが、まずは八乙女レオン殿下にお会いください。殿下から、すべての説明がございます」
「殿下?」
「この国を治める八乙女王家の第一王子です」
王子。巫女。王城。召喚。
単語だけ並べれば、誰かが深夜に考えた物語みたいだった。けれど、俺の足の裏には冷たい石床の感触があり、六日の指はまだ俺の服を掴んでいる。夢ならもう少し都合よく覚めてほしい。
俺たちは青葉に連れられて部屋を出た。
廊下は広かった。広いというより、無駄に長い。壁には青い布が垂れ、若葉の紋章が刺繍されている。窓の外には、見たことのない街が広がっていた。瓦屋根に似た建物もあれば、石造りの塔もある。遠くには城壁が見え、その向こうに森と山が連なっていた。
空の色は、俺たちの世界と変わらないように見えた。
それが逆に気持ち悪かった。
もっと紫色の空とか、二つの月とか、いかにも異世界ですという景色なら、まだ諦めがついたかもしれない。けれど窓から差し込む光は普通に暖かくて、風の匂いも土と草の匂いだった。
ここがどこであれ、現実なのだと体が勝手に理解していく。
「ねえ、青葉さん」
六日が恐る恐る声をかけた。
「はい」
「私たち、死んだわけじゃないんですよね」
青葉は足を止めた。
その質問が、俺の胸にも引っかかった。田んぼに落ちた光。白く塗り潰された視界。意識が途切れた感覚。死んだと言われたら、納得できてしまいそうな材料は揃っている。
青葉は少しだけ迷ったあと、首を横に振った。
「少なくとも、魂のみの存在ではありません。お二人は肉体ごとこちらへ来られています」
「肉体ごと……」
六日は自分の手を握ったり開いたりした。
俺は言った。
「じゃあ、元の世界には俺たちの体が消えたってことか」
青葉は答えなかった。
答えられない沈黙というものがある。俺はそれを見て、胃の奥が重くなるのを感じた。
親父とお袋はどうなっている。田んぼに俺たちがいなくなって、騒ぎになっているだろう。六日の家もそうだ。行方不明者二人。田んぼに残された長靴と軽トラ。警察が来る。ニュースになるかもしれない。
そんな当たり前の想像が、急に遠い世界の出来事みたいに感じられた。
青葉は再び歩き出した。
やがて、俺たちは大きな扉の前に着いた。扉の両脇には鎧を着た兵士が立っている。槍の穂先が本物っぽく光っていた。俺が近づくと兵士は表情を変えずに扉を押し開けた。
中は謁見の間、というやつだった。
高い天井。磨かれた床。奥に段差があり、その上に玉座がある。壁際には貴族らしき人間たちが並び、俺たちが入るなり一斉に視線を向けてきた。
好奇心。期待。値踏み。
その全部が混ざった視線だった。
六日が俺の隣で体を固くした。俺はなるべく平気な顔で歩いた。こういう時、ビビっていると思われるのが一番腹が立つ。
玉座の前に、一人の男が立っていた。
背が高い。顔がいい。顔がいいという事実だけで、世の中の面倒ごとの三割くらいを免除されてきたような顔だ。金色に近い茶色の髪を後ろで軽くまとめ、白い軍服みたいな服を着ている。胸元には青葉の紋章。腰には細身の剣。
男は俺たちに向かって、柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、ダーテー王国へ。異世界より来た尊き客人たちよ」
声までよかった。
だからこそ、俺は少しだけ警戒した。笑顔が上手すぎる人間を、俺はあまり信用しないことにしている。田んぼの水路を勝手にいじる業者も、だいたい最初はいい笑顔をする。
「私は八乙女レオン。この国の第一王子だ」
レオンは軽く胸に手を当て、優雅に頭を下げた。
「突然の召喚となったこと、まずは詫びよう。君たちにとっては理不尽極まりない出来事だろう」
「わかってるなら帰してください」
俺は即答した。
周囲の貴族がざわついた。無礼だとか、殿下に向かってとか、そんな空気が一瞬で広がる。だがレオンは笑みを崩さなかった。
「当然の要求だ。だが今すぐには難しい」
「難しいって便利な言葉ですね」
「塩沢大和様」
青葉が小さく俺をたしなめるように言った。
俺は口を閉じた。怒鳴り散らしても状況は変わらない。それくらいはわかっている。わかっているから余計に腹が立つ。
レオンは続けた。
「この世界はいま、危機に瀕している。代々、我らの地には魔王と呼ばれる災厄が現れる。今代の魔王はモリューカ。北の地に力を蓄え、いずれこの国へ侵攻すると予言されている」
魔王。
口に出されると、いよいよ冗談みたいだった。六日も困惑した顔で俺を見る。俺だって同じ顔をしていたと思う。
「その魔王を倒すために、俺たちを呼んだってことですか」
「正確には、異世界より召喚されし者には、この世界の理を超える特別な力が宿る。スキル、と呼ばれるものだ。君たちの力が、我らの希望になる」
「勝手に呼んでおいて希望扱いですか」
「耳が痛いね」
レオンは少しも痛そうではない顔で言った。
「だが、君たちに害をなすつもりはない。力を貸してくれるなら、衣食住も身の安全も王家が保証する。元の世界へ帰還する術についても、全力で調べさせよう」
帰還する術。
その言葉に、六日の指がぴくりと動いた。俺も無視はできなかった。
帰れるかもしれない。
たとえ嘘っぽくても、その可能性を人質にされたら、こっちは簡単に突っぱねられない。
「そのスキルっていうのを、どうやって調べるんですか」
俺が聞くと、レオンは青葉を見た。
青葉は一歩前に出る。
「巫女である私が鑑定を行います。召喚者様の魂に刻まれた技能を読み取り、文字として顕現させる儀式です」
「魂とか言われても困るんだけど」
「痛みはありません。危険もないはずです」
「はず?」
青葉はそこで少しだけ目を逸らした。
この子、嘘が下手だ。
俺はそう思った。少なくともレオンよりは、ずっとわかりやすい。
謁見の間の中央に、透明な板のようなものが運ばれてきた。水晶ともガラスとも違う。厚みのある氷を磨いたような板で、表面には淡い青い光が流れていた。
青葉がその前に立ち、両手を重ねる。
「まずは五十沢六日様。こちらへ」
六日はびくりと肩を震わせた。
俺は小声で言った。
「嫌なら断れ」
六日は俺の顔を見て、少しだけ笑った。
「大丈夫。大和くんもいるし」
そう言って、俺の手を軽く握った。子どもの頃から何度も繋いだ手だった。用水路を飛び越える時、夏祭りの人混みを歩く時、雪道で転びそうになった時。
だけど今は、その手が妙に頼りなく感じた。
六日は鑑定板の前に立った。
青葉が静かに詠唱を始める。日本語ではないはずなのに、意味だけが頭の奥に染み込んでくる。風がないのに、青葉の髪がふわりと揺れた。鑑定板の中に青い光が集まり、やがて文字になって浮かび上がる。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
浮かんだ文字は、こうだった。
最強無敵超絶チート天上天下唯我独尊
長い。
まず、長い。
そして頭が悪い。
俺はこんな状況なのに、最初にそう思ってしまった。だって仕方ないだろう。あまりにも字面が強すぎる。誰が名付けたんだ。小学生が自由帳の最後のページに書く必殺技か。
だが、周囲の反応は俺とは違った。
貴族たちが一斉にどよめいた。兵士が膝をつく。誰かが「勇者様だ」と叫んだ。別の誰かが泣き出した。冗談抜きで泣いていた。
鑑定板の青い光はさらに強くなり、表面に細いひびが入る。青葉が慌てて手を引いた。
「こんな……これほどの表示は、記録にありません」
青葉の声は震えていた。
レオンの目が、初めてはっきりと輝いた。
「素晴らしい」
彼は六日の前に歩み寄り、その手を取った。
「五十沢六日さん。君こそ、我らが待ち望んだ救世主だ」
「え、あ、あの……救世主って、そんな」
六日は明らかに戸惑っていた。王子に手を取られて頬が赤くなった、というより、周囲の期待に押し潰されかけている顔だ。
俺は半歩前に出ようとした。
だが、その前に貴族たちが六日を取り囲むように動いた。
「なんという恩寵」
「これで魔王モリューカも恐るるに足りません」
「八乙女王家に天が味方したのだ」
言葉が飛び交う。
六日は困ったように俺を探した。俺は人垣の向こうから軽く手を上げた。
「すごいな、六日。名前だけで三回くらい勝ってる」
「そこ笑うとこじゃないから!」
六日は少しだけいつもの顔に戻って、俺にそう返した。
それで俺は少し安心した。
どれだけ周囲が騒いでも、六日は六日だ。田んぼで俺の頬の泥を拭って、長靴の中を笑った幼なじみだ。急に救世主とか勇者とか呼ばれても、俺たちの関係が変わるわけじゃない。
その時は、まだ本気でそう思っていた。
「では次に」
青葉の声で、場の視線が俺に向いた。
さっきまで六日に向いていた熱が、すっと冷めるのがわかった。期待がないわけじゃない。だがそれは、六日と同じ奇跡がもう一度出るかもしれないという、くじ引きの二枚目を見るような視線だった。
俺は鑑定板の前に立った。
六日が人垣の隙間から言う。
「大和くん、平気?」
「平気。俺もすごいの出してやるよ。最強無敵なんとかより長いやつ」
「絶対覚えられないやつだ」
そんな軽口を叩きながら、俺は手を鑑定板に置いた。
冷たかった。
田んぼの水より冷たい。指先から腕へ、腕から胸へ、何かがすっと通り抜けていく感覚があった。痛くはない。ただ、自分の内側を他人に覗かれているような気持ち悪さがある。
青葉が詠唱を始めた。
青い光が板の中に集まる。
さっき六日の時は、光が溢れるようだった。だが俺の時は違った。光は集まったあと、ふっと消えかけた。青葉の眉が寄る。周囲の貴族たちも顔を見合わせる。
もう一度、光が灯った。
今度は青ではなく、白に近い透明な光だった。
鑑定板の表面に、文字が浮かぶ。
EX
それだけだった。
待っても、何も続かなかった。
説明もない。補足もない。長い名前も、派手な演出もない。ただ、二文字。
EX。
謁見の間は静まり返った。
俺は鑑定板を見下ろしたまま言った。
「……これだけ?」
青葉は答えなかった。
その顔を見て、俺は少し引っかかった。青葉は失望しているというより、驚いているように見えた。いや、驚きとも違う。何かまずいものを見てしまった人間の顔だった。
「杜野」
レオンが穏やかに呼んだ。
青葉の肩がわずかに跳ねる。
「鑑定結果を」
「……表示は、EX。詳細説明はありません」
「効果は?」
「読み取れません」
「分類は?」
「不明です」
また、ざわめきが広がった。
六日の時とは違う種類のざわめきだった。期待ではない。困惑と、軽い失望。そして、それを隠さない人間特有の無遠慮さ。
「前例がないのか」
「いや、表示異常では?」
「勇者様の同伴者だから何かあるかと思ったが」
「EXとは、外部規格の略ではないのか」
「エラーでは?」
最後の言葉に、何人かが小さく笑った。
俺は手を鑑定板から離した。
自分でも不思議なくらい、胸の奥が冷えていた。スキルなんてさっき初めて聞いた概念だ。期待する方がおかしい。なのに、こうして目の前で六日との差を見せつけられると、足元の石床が少し沈んだような気がした。
レオンが口を開いた。
「なるほど。外れか」
その声は大きくなかった。
けれど、謁見の間の全員に届いた。
外れ。
言葉は短いくせに、やけに重かった。
俺はレオンを見た。
「まだ何もわかってないんじゃないんですか」
「もちろん、断定は早計かもしれない」
レオンは微笑んだ。
「だが、スキルとは本来、発現した瞬間にその性質が示されるものだ。六日さんのようにね。説明がない、分類もない、効果も読み取れない。となると、実用性には疑問が残る」
「つまり役立たずって言いたいんですね」
「私はそこまで直接的な言葉は使っていないよ」
使っているのと同じだった。
青葉が何か言おうとして、唇を開きかけた。けれどレオンがちらりと視線を向けると、青葉は口を閉じた。
俺はそれも見ていた。
六日が人垣を押しのけるようにして前に出た。
「大和くんは外れなんかじゃない!」
謁見の間がまた静かになる。
六日は俺の隣に立ち、レオンをまっすぐ見た。さっきまで戸惑っていた顔とは違う。頬は赤いが、目は強かった。
「大和くんは、昔からずっと私を助けてくれました。用水路に落ちた時も、雪の日に転んだ時も、私が困ってる時はいつも来てくれた。スキルがどうとか、そんなのまだわからないじゃないですか」
「六日」
俺は思わず名前を呼んだ。
六日は俺の手を握った。
「一緒に帰るって決めたもん。大和くんだけいらないみたいな言い方、しないでください」
その言葉に、胸の奥の冷たさが少しだけ溶けた。
情けない話だが、俺はかなり救われた。
この世界に来てから、わけのわからないことばかりだった。召喚、王城、王子、魔王、スキル。自分の足元がどこにあるのかもわからない。そんな中で、六日だけはいつもの六日だった。
俺を見捨てない。
そう思えた。
レオンは六日を見つめ、それから柔らかく笑った。
「君は優しいんだね、六日さん」
「優しいとかじゃなくて、当たり前です」
「そうだね。君にとっては当たり前なのだろう」
レオンは俺に視線を移した。
笑顔は変わらない。
けれど、その奥にあるものが一瞬だけ冷えたように見えた。
「安心してほしい。勇者である君の大切な友人を、王家が粗略に扱うことはない。塩沢大和さんにも部屋を用意しよう。生活に不自由はさせない」
周囲の貴族たちが、ほっとしたように頷いた。
話は終わった、という空気だった。
六日はまだ何か言いたそうだったが、レオンが彼女の手を取って言った。
「ただ、君にはこれから多くのことを学んでもらわなければならない。魔王モリューカの脅威、スキルの扱い、この世界の歴史。君の力は大きい。だからこそ、正しく導かれなければならない」
「でも、大和くんも一緒に」
「もちろん、会うことはできるさ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
一緒にいることはできる、ではない。
会うことはできる。
俺は六日の手を握り返した。六日も気づいたのか、不安そうに俺を見る。
「大丈夫だ」
俺は小声で言った。
大丈夫な根拠は、ひとつもなかった。
鑑定の儀式はそのまま終わった。
貴族たちは六日の周囲に集まり、次々と祝いの言葉を述べていく。勇者様。救世主様。天に選ばれし者。聞いているだけで肩が凝りそうな呼び方が増えていった。
六日はそのたびに困った顔で笑い、ちらちらと俺を見る。
俺は少し離れた場所に立っていた。
誰も俺には近づいてこなかった。いや、正確には青葉だけが近くにいた。彼女は鑑定板を片づけるふりをしながら、何度も俺の方を見ていた。
何か言いたそうだった。
けれど言えない。
そんな顔だった。
「塩沢大和さん」
いつの間にか、レオンが隣に来ていた。
周囲の喧騒のせいで、六日はこちらに気づいていない。青葉も少し離れている。レオンは俺と同じ方向、六日を見ながら言った。
「彼女は素晴らしいね」
「……そうですね」
「明るく、純粋で、強い力を持っている。民は彼女を愛するだろう」
俺は黙っていた。
レオンの声は穏やかだった。だが、さっき謁見の間全体に向けて話していた時よりも、ずっと本音に近い気がした。
「君は幸運だ。あれほどの存在の幼なじみでいられたのだから」
その言い方に、腹の底が少し熱くなった。
まるで、もう過去形みたいだった。
「これからもそうです」
俺が言うと、レオンはゆっくりこちらを見た。
そして笑った。
「そうだといいね」
短い言葉だった。
けれど、その笑顔を見た瞬間、俺ははっきり理解した。
この男は、俺を邪魔だと思っている。
まだ何も始まっていない。俺は王子に逆らう力もなければ、この世界のことも知らない。ただ六日の隣にいただけだ。
それだけで、邪魔なのだ。
レオンは俺の肩に軽く手を置いた。親しげな仕草だった。周囲から見れば、王子が無能判定された召喚者を気遣っているように見えただろう。
だが、耳元に届いた声はひどく冷たかった。
「君には、あまり期待しない方がよさそうだね」
俺は何も言い返せなかった。
六日は少し離れた場所で、貴族たちに囲まれながら俺を探していた。目が合うと、彼女は安心させるように笑った。
俺も笑い返した。
うまく笑えたかどうかは、わからない。
ただ、その時にはもう、俺と六日の間に見えない線が引かれていた。
田んぼの畦みたいに細くて、けれど踏み越えるには妙に遠い線だった。




