第5話:壊れていく
「この店、蠅が多いわね」
いつものようにマルガリータとケサディージャを注文した後、さつきは、煩わしそうに顔の前の空気を手で払った。羽音が、神経を逆撫でするように耳の中を搔き乱す。
「蠅?」
杏子は眉を顰めた。店内には、うっすらと紫煙が漂っているだけである。
「蠅なんかいないけど」
今度は、さつきの眉が顰められる。杏子の周りにも、大きな蠅が飛び交っているというのに、彼女にはまるで気付いている様子がない。
「見えないの?」
しかし、杏子に怪訝な顔を向けられて、さつきはうんざりしたように息をついた。
……まただわ……
始めのうちは恐慌に陥っていたさつきも、もはや虫が飛び回る幻覚や幻聴には慣れつつあった。
「大丈夫?」
杏子が、心配そうにさつきの顔を覗き込んでいた。
「あんまり大丈夫じゃないかも」
言いながら、それでも、さつきは笑顔を作ってみたが、顔に色濃く浮かんだ憔悴の兆しを取り繕うことはできなかった。最近、鏡を見るのが怖い。夜を重ねるごとに肌は荒れ、目元は青紫色に落ち窪んでいくのであった。
「ねえ。それで、いつからなの?」
頬杖をつくさつきに、杏子は、来る途中に聞いたコピー機の件を始めとする、一連の不可解な出来事のことを訪ねた。
が、さつきは億劫そうに首を振った。
「わからない」
「思い当たることは?」
もう一度首が振られて、杏子は仕方なさそうに息をついた。
「あの鍵とでも関係あるのかしらね」
天井を仰いで呟いた彼女の言葉に、さつきはふと顔を上げた。
「そういえば……」
霧に霞む記憶を確かめるように、虚空を凝視する。
「最近、夢を見ないのよ」
「あの夢? それはそれでいいじゃない」
「違うの。何の夢も見ないのよ」
杏子は一瞬眉をひそめたが、もっともらしい答えを見つけられずに肩をすくめた。
「夢なんて、普通は起きたら忘れちゃうもんじゃないの?」
「そうなのかな?」
その時だった。突然の悲鳴を上げて、さつきは立ち上がった。
「どうしたのよ? 急に」
「今、誰かが首筋を触ったのよ」
思わず身をすくめた杏子の前で、うなじの辺りに手を当てたさつきは、蒼い顔で周りを窺っていた。
「誰かって……あなたの後ろは壁よ」
二人が腰掛けたテーブルは、店の一番奥にあった。さつきは角を背にして座っている。彼女の言うような人間がいたとしたら、杏子の左を通って、彼女の後ろに回り込まなくてはならない。そんな人間を、杏子が目にしない訳はなかった。第一、触ったとして、その後、どこに隠れるというのだ。しかし――
「でも、本当に今誰かが……」
言葉に耳を貸さず、しきりに後ろを振り返るさつきに、杏子は背筋が寒くなった。確かに、彼女はどこかおかしい。
「さつき、一度病院に行こう。私が付いてってあげるから」
強張った笑顔でなだめるように言った杏子を、さつきは恐ろしい形相で睨んだ。
「わたしは普通よ! 杏子の方こそ、どうして今の男が見えなかったの? じっとりと汗ばんだ気味の悪い手で、私の首を……」
「さつき!」
恐怖に心臓を鷲掴みにされながら、それでも何とか親友を助けようと、杏子は取り乱すさつきの両腕を掴んだ。
「落ち着いて! そんな男どこにもいないわ」
杏子に揺さぶられて、さつきの瞳に浮かんでいた危うい紫色の光が消えた。と、糸の切れた操り人形のように、彼女は、杏子の胸の中に倒れ込んだ。雨に濡れた捨て猫のように、ガクガクと震え出す。
「杏子……私、怖いの」
彼女の腕にしがみつきながら、さつきは青ざめた唇の間から言葉を押し出した。
「私が、私がどんどん壊れていくのよ!」




