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悪夢を見なくなった夜 ~その向こうにあるもの~  作者: 刹那メシ


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第6話:壺の中の希望

「やっと見つけたわ……」

 鍵を買った場所から二区画ほど先の郵便局の前で、さつきは、ようやく例の白装束の老婆の姿を目にした。おぼつかない足取りで通りを横切る。走って来た大型トラックにクラクションを鳴らされながらも、彼女は、何とかパンドラの壺の前へと辿り着いた。

「おや、お前さんは……」

 気配に気づいて顔を上げた老婆に、鬼気迫る形相で、さつきはオネイロスの鍵を差し出した。

「この鍵が、どうかしたかの?」

 尋ねてから、瞳の色に気付いて、老婆は表情を険しくさせた。

「私、一度だけ約束を破ったの。この鍵を開けたままで、二時間以上も起きていたことがあったわ。きっとそれからだと思うの。私がおかしくなったのは」

 さつきは、セットの乱れた髪に手をやった。雑草を引き抜くかのように掻きむしる。

「最初は、周りを黒い虫か何かが飛ぶようになって。それから、人の名前や、コピーの取り方や、歯ブラシの使い方まで忘れるようになってきて。会社のみんなが、陰で私の悪口を言っているように思えたり、夜、家に帰る途中、誰かにつけられているような気がしたり……もう、気が変になりそうなの」

 さつきは、老婆の肩を掴むと激しく揺さぶった。

「教えて、この鍵のことを! あの約束には、どんな意味があるの? 今、何が起こっているの? 私はあれ以来、全く夢を見ないのよ!」

 その時だった。

「私が教えてあげるわ」

 水の底から聞こえてくるような、暗く虚ろな声が響いた。振り返ったさつきは息を飲んだ。

 淡い街灯の光で、アスファルトの上に伸びた彼女の影の中に、ぽっかりと浮かんだものがあった。灰色の沼から頭を出したかのような黒く丸い塊は、やがて大きく膨らんで、地面との境目に二つの目を覗かせた。憎悪にたぎる血走った目を――

 足元に落ちた闇の中から現れたのは、夢の中の彼女自身であった!

 あまりの衝撃に、さつきは声もなく、へなへなと地面に座り込んだ。

 舞台からせり出すかのように、現実の裂け目から、胸の辺りまでを現した夢の中の醜いさつきは、両腕で周りの地面に手をかけると、一気に体を引き抜いた。見えない裂け目はすぐに口を閉じたのか、夢の彼女は、現の彼女の影の上に悠然と立ち上がっていた。嘲笑を浮かべる紫色の唇の間から、黄ばんだ乱杭歯を覗かせて、彼女は血の気の失せた本物のさつきを見下ろした。

「人間にとって、夢を見るってことは、とっても重要なことなの。夢を見られなくなると、集中力がなくなって、イライラしたり、疑い深くなったり、それから、物忘れも激しくなるわ。そして、恐ろしい幻覚に襲われるようになって、最後には発狂して死んでしまうの」

 座り込んだまま体を震わせているさつきに、彼女は憐れむかのような表情で歩み寄った。

「でも大丈夫」

 そう言った口が、突然、耳元まで裂けた。無数の蛇が鎌首をもたげたかのように髪の毛が逆立って、生ぬるい風にざわめいた。

「そうなる前に、私が殺してあげるわ!」

 狂気の宣言と共に振り上げられた右手には、凶悪な黒い光を放つ、禍々しいはさみが握られていた。長い爪を毒々しい紫色に塗りたくった手が、さつきの襟首をつかむ。恐ろしい力で引き起こされたさつきには、もはや、抵抗するための何の力も残っていなかった。次の瞬間、はさみの鋭い切っ先が、唸りを上げて彼女の胸へと振り下ろされた。その時――

 鈍い金属音が響いた。

 不意に支えを失って、さつきはアスファルトの上に倒れた。

 夢の中のさつきは、風にでも掻き消されたかのように忽然と姿を消し、代わりに、目前には、オネイロスの鍵を手にした老婆が立っていた。

「もう大丈夫。あいつは、お前さんの『夢の扉』の中に閉じ込めた」

 そう言って、老婆は呆然自失のさつきに鍵を見せた。端麗な顔立ちのオネイロスは、元通りの青い瞳に戻っていた。

 また、幻覚だったのかしら?……

 老婆に手を差し伸べられて、さつきは何とか立ち上がった。まだ足元がふらつく。その時、彼女のつま先が何かを蹴飛ばした。地面の上でカラカラと回るそれは、街灯に怪しく光る黒いはさみであった。さつきは慄然とした。再び恐怖がこみ上げる。

「あれは、一体?」

 震えてうまく回らない舌で、さつきは尋ねた。

「あれは、お前さんの中の狂気じゃよ」

「狂気?」

 オネイロスの鍵を壺の中にしまうと、老婆は頷いた。

「夢とは、『眠りの扉』と『夢の扉』に閉ざされた空間に蠢く狂気が見せるものなんじゃ」

 夢?……扉?……狂気が見せる?……

 老婆の口からは、さつきには不可解な言葉が流れ出した。

「昔は、『あいつら』が世界をうろつくことなどなかった。『あいつら』は、完全に封じ込まれておったんじゃ」

 そこで一度息をつくと、老婆は顔を顰めた。足元を照らす街灯を仰ぎ見る。

「ところが、世の中が進んで、夜にも光が溢れるようになると、人間は前ほど眠らないようになった。文明ってやつが、人間に『ヒュプノスの鍵』を与えてしまったんじゃ。だから、『あいつら』が来ているのに、『眠りの扉』が閉じないようになってしまったんじゃよ」

 言いながら、老婆はパンドラの壺に手を入れていた。やがて中から出てきたのは、壺の深さよりも遙かに長い一本の杖であった。

「神様が、人間に二つの扉を与えたのは、一つでは不十分だったからなんじゃ。ところが、人間が『眠りの扉』を開け放つようになったもんだから、『夢の扉』の隙間から、『あいつら』は少しずつ滲み出した。全ての人間の扉の隙間からな。おかげで、世の中には、『狂気(あいつら)』が漂うようになった」

 老婆は、手にした杖で、壺が落とす影の上を突いた。奇怪な鳴き声がして、影の中に暴れるものがあった。老婆が杖を引き抜くと、その先には大きなムカデ――少なくとも、さつきにはそう見えた――が突き刺さっていた。ところが、光に晒されたムカデは、激しくのたうちながら、紫色の煙と緑色の泡を発して溶け出したのである。辺りには、魚の腐ったような異臭が立ち込めた。

「これが『狂気』じゃ。今じゃあ、そこら中の物陰に潜んでおる」

 ムカデに似た狂気がすっかり溶けてしまうと、老婆は、僅かに残った緑色の汁を払って、杖を壺の中にしまった。

「『あいつ』も同じじゃ。ただ、『あいつ』の場合は、もっとたちが悪いがの」

 道端に落ちたはさみを拾い上げて、老婆は言った。

「お前さんの悪夢も、狂気が作り出したものじゃ。じゃが、眠っている間、オネイロスの鍵を開けておくことで、狂気は、夢の空間から抜け出した。それで、夢を見ないようになったのじゃ。ただ、眠っている間は、『眠りの扉』が閉じておるから、狂気はお前さんの外に出ることはなかったんじゃが」

 そこで、老婆はチラリとさつきの顔を見た。不注意をなじられたように思えて、堪えられずにさつきは俯いた。

「お前さんが約束を破ったおかげで、二つの扉が同時に開いて、『あいつ』は五体満足のまま世界に飛び出した。闇と交わった『あいつ』は、昼の光の中でも生きていけるほどの力を蓄えたんじゃ」

 黒いはさみは、光の中でうっすらと煙を上げたが、ムカデのように溶けることはなかった。老婆は息をついた。もう一度さつきを見る。

「だがの、光のあるところに影ができるのは、当然のことじゃ。『あいつ』は、お前さんのもう一つの姿なんじゃよ」

「あれが、私?」

 驚いてさつきは聞き返した。あの狂気に醜く歪んだ顔が、私自身をはさみで刺し殺そうとした彼女が、私のもう一つの姿だというのか?……

「そう。物事には、全て理由がある。あんなお前さんが生まれたのにも、それなりの理由があるはずなんじゃ。お前さんは気付いておらんかも知れんがのう」

 あんな私が生まれた理由?……

 老婆の言葉に、さつきは記憶の糸を手繰り寄せてみた。あの夢を見るようになったのは、一体いつからだろう?……

 しかし、糸の端は暗闇に紛れて、彼女の眉をいたずらに顰ませるだけであった。その様子を予期していたかのように、老婆は頷いた。

「何にせよ、己自身から、簡単に逃げようとは思わんこった。お前さんがパンドラの壺から選んだものは、意識したにしろ、無意識だったにしろ、真実から目を逸らすための道具じゃった。それでは、何の問題も解決しやせん。悪夢を追い払うには、勇気を出して己と闘わんとのう」

 そう言った老婆は、微笑みを浮かべるとさつきの前に歩み寄った――パンドラの壺と共に。

「どうじゃ? もう一度、選んでみるかい? お前さんが本当に望むものを」

さつきは、差し出された壺の中を覗いた。中には、暗闇が詰まっている。

 あんな私が生まれた理由がわかれば、それを消し去る術も分かる――のだろうか?

 さつきは老婆の顔を見た。皺だらけの顔が作る微笑みには、信ずるに足る優しさと励ましが込められている――そう思えた。

 ――パンドラの壺の中には、たった一つだけ、希望が残されているという――

 私は逃げない。だから、どうか逃げていかないで……

 息を整えると、祈るような気持ちで、さつきは手を差し入れた。壺の中の闇に、ひっそりと息づく希望の光を求めて――

 しかし――

 闇の中に、果たして光は潜んでいるものなのだろうか?……

「どうした? 何か手にしたかの?」

 不意に手を止めたさつきの顔を、老婆は訝し気に覗き込んだ。

 ――どうして、壺の中には希望が入っていたのだろう?――

 瞼を閉じたさつきは、ひんやりとした壺の中から、絡み付く誘惑の糸に抗うように、ゆっくりと空のままの右手を抜き取った。その手を、慈しむように左手で包み込む。

 長い一呼吸分の沈黙の後で、彼女は目を開いた。

「どうした? 何も取らんのか?」

 老婆は不審を隠せない様子で尋ねたが、それに、さつきは穏やかな微笑みで答えた。

「よくは分からないけど、きっとこれが答えなんじゃないかと思うの」

「答え?」

「そう。パンドラの壺がかけた謎の答え」

 壺の中に、様々な災厄に混じって、希望が封じ込まれていたのは何故か? 希望だけが、壺の底に残ったのは何故か?――

 壺の中の希望を安易に求めることこそが、人に禍いを為すのではないだろうか。

「おばあちゃんも言ったでしょ。悪夢を追い払うには、勇気を出して自分と闘わなきゃいけないって。だから、他力本願じゃいけないと思う。答えは、壺の外にあるのよ」

 そこで、さつきは一人頷いた。何か晴れ晴れとした気分だった。悪夢が消え去った訳ではない。しかし、その原因は思い出せそうな気がした。きっと追い払える――そんな、確信にも似た予感がしていた。

「ほう……」

 老婆は目を細めた。先刻まで、形を成した狂気に怯え、すっかり色を失くしていたさつきの顔に、血の気が戻っていた。瑞々しさの蘇った白い肌に、ふくよかな頬が淡い薔薇色の色どりを添えて、小さな顔立ちは鮮やかな青い上着によく映えた。

 ……綺麗な顔になった……

 満足そうに、老婆はひとりごちた。

「じゃあ、ありがとう。おばあちゃん」

 深々と頭を下げると、さつきは踵を返していた。

 あれも、もう一人の私……

 星のない空を見上げて、彼女は思った。

 例えるなら、それは蜃気楼。逃げるほどに、追いかけてくる。拒むほどに迫ってくる。それなら、認めてみよう。醜く歪んだ私を、そのままに受け入れてみよう。目を惑わす空気の揺らぎのその向こうにあるのは、本当の私。

 ――怖がることはないわ。相手は自分自身なんだもの――

 しっかりとした足取りで帰っていく彼女の後ろ姿を、老婆はじっと見つめていた。老婆には見えていたのだった。さつきの右の掌から、眩い光が溢れ出しているのが。希望は彼女の手の内にあった。

「税込み千百円なんじゃがの……」

 ふと呟いて、老婆は抱えていた古びた壺に目を落とした。普段にも増して、パンドラの壺は、その内側に漆黒の闇を湛えていた。

「まあ、ええじゃろ。正解のご祝儀じゃ」

 微笑みを残して、老婆は、白装束の袖を夜の街に翻した。ヒュプノスの封印が解かれた、光と闇とが混沌をなす人間の世界に――


 そして、今日も人は眠りに就く。そこで夢見る狂気は、果たして幻か? それとも――

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