第4話:わからない
「水野君、これ、二十部コピーしてくれ」
ふと気が付くと、頭の禿げ上がった中年の男性が話しかけていた。
「はい」
机の上に置かれた書類を持って、さつきは立ち上がった。この頃、ぼんやりしていることが多い。あの日、オネイロスの瞳の色が変わってからも、以前の悪夢を見ることはなかった。睡眠はしっかり取れている。それで、さつきは胸を撫で下ろしていたのだが、やはり心に引っ掛かるものが全くない訳ではなかった。今朝も、歯ブラシを持ったまま、一瞬洗面台の前に立ち尽くしてしまった。自分が何をしようとしていたのか、思い出せなかったのだ。歯ブラシを持っていたのに、である。
ふと、彼女は振り返った。
……今の人、誰だっけ?……
机を立った一人の若い社員が、先刻の中年男の前に歩み寄った。
「係長、例の書類、できました」
……そうだ、係長だった……
どうして忘れたのだろう、と思う前に、さつきはまことしやかな理由を見つけていた。
係長って、印象薄いのよね……
部屋を出るところで、彼女は二人の新卒OLと出会った。まだ学生気分の抜け切れていない、どこか夢見がちな瞳と目が合う。すれ違ったその瞬間、彼女達の慎みにかける笑い声が背中に浴びせ掛けられて、さつきはギクリとして立ち止まった。
……何?……
彼女は平静を装って、しかし内心恐る恐る振り返った。二人は別々の席に着くと、素知らぬ顔で、自分の仕事に取り掛かっていた。
……何なの?……
胃袋のねじれるような感覚が湧いた。胸を圧迫するように、鼓動が不規則に高鳴る。
さつきは、書類を持ったまま化粧室に駆け込んでいた。
鏡に写った自分の顔をまじまじと覗き込む。寝癖はなし、ファンデーションもいつも通り、口紅もはみ出してはいない。スカーフの端も長さが揃っていた。
……私をわらったんじゃないんだ……
安堵の息を漏らして、さつきは洗面台に手をついた。
ふと、彼女は顔を上げた。もう一度鏡を見る。彼女の背後の壁には、馴染みのない縦長の白い便器がずらりと並んでいた。慌ててさつきは振り返った。
……嘘?!……
次の瞬間、さつきは化粧室を飛び出していた。羞恥で顔が焼かれるようであった。
「あら、さつき」
ところが、廊下に出た途端、運悪く彼女は杏子と鉢合わせしてしまった。
「どうしたの? 顔が赤いわよ」
咄嗟に言い訳することができず――しかし、男子トイレに入っていたことなど、どうやって言い訳すればいいのだろう――、湯気の上がるくらい赤面したまま立ち竦むさつきを、杏子は怪訝そうに覗き込んだ。
「あ……あのね杏子、これは、違うのよ」
「いいからどいてよ」
しどろもどろのさつきを押し退けて、杏子は化粧室の取っ手に手をかけた。
「あっ、待って杏子!」
しかし、慌てふためいたさつきの制止を待たずに、彼女は扉の向こうに姿を消した。
「杏子、こっちじゃないのよ!」
後を追って飛び込んださつきの声に、個室に入りかけていた杏子は振り返った。
「何がこっちじゃないの?」
「え?!」
化粧室の中は、全て個室に区切られていた。先刻の剥き出しの便器はどこにもない。
「何なのよ?」
訳も分からず生理現象を妨げられた杏子は、迷惑そうに顔を顰めていた。
「……ううん。何でもない。どうぞ、ごゆっくり」
ヘラヘラと意味のない薄笑いを浮かべて事をうやむやにすると、さつきは急いで化粧室を出た。扉には、確かに赤い丸と三角が表示されていた。間違いない。
……でも、さっきは確かに……
あれは一体、何を見たのだろう? 後輩に笑われたのではないかという疑心が、実際にはありもしない暗鬼を見せたとでもいうのだろうか?……男子トイレに入っていないという事実は喜ぶべきだったが、どうして男子トイレだと思い込んでしまったのかについては、さつきには全く納得の行くはずがなかった。
……そうだ、コピー……
危うく忘れかけていた仕事を思い出して、彼女は、浮かないまま複写室に入った。急須と共に使い慣れたコピー機の前に立つ。
……確か、二十部だったわよね……
部数をきちんと覚えていることに安心して、さつきはコピー機に手をかけた。書類を載せる。――どこに?
瞬間、彼女は凍り付いた。頭を激しく殴り付けられたような事実を前に、驚愕を通り越して、体に戦慄が走る。
そんな馬鹿な?!……
さつきは、現実に抗って震える手で、額に浮かんだ冷や汗を必死に拭った。パネルの上で、チラチラと緑色に瞬く数字の『1』が、不気味に赤く滲んで見える。その意味を忘れるはずはない。もう、三年もやってきたことだというのに……。しかし――
「コピーの仕方が、わからない……!」




