第3話:黒いもの
「どう? あれから」
ガラス張りの壁に夕陽を映した会社の前で、さつきは杏子に肩を叩かれた。
「まさか……」
彼女が振り返ると、杏子は眉を顰めた。意識したつもりはなかったが、どうやら、それと分かるほど嬉しそうな顔をしたらしい。
「効き目はバッチリよ」
ダメ押しに、さつきは拙いウインクをしてみせた。
「嘘?! ねえ、嘘でしょう?!」
予期せぬ答えに目を瞠る杏子に向かって、さつきは勝ち誇ったように胸を張った。
「やっぱり、信じる者は救われるのよ」
「くそう。千円でいい買い物したわね。私も試せばよかった」
悔しがる杏子の顔を、さつきはいたずらっぽく覗き込んだ。
「杏子にも悩みなんかあるんだ?」
「失礼ね。私だって、海より深い悩みが山ほどあるのよ」
杏子は、喜びに酔うあまり、いささか配慮に欠けるさつきの言葉に、怒ったように顔を顰めてみせたが、さつきの方は全く気にしなかった。
「あら、そう? じゃあ、今夜あたり聞いて上げようか?」
鼻を鳴らした杏子は、顎を上げると横目でさつきを見た。
「いいわよ。さつきのおごりならね」
杏子はそれで逆襲したつもりだったが、今のさつきに、その効き目があろうはずがなかった。
「ええ。結構ですわよ」
腰に手を当てて微笑む彼女に、杏子は降参したように肩をすくめた。
「言ってくれるじゃない。全く、幸せそうな顔しちゃって。心配したこっちが馬鹿みたいだわ」
「まあまあ、そう言わずに」
ふてくされる杏子の腕を取ると、さつきは颯爽と歩き出した。その勢いに、杏子は引きずられかけたが、やがてさつきに歩幅を合わせると、気を取り直して笑顔を作った。
「よおし、今日は飲むぞ!」
* * *
いつものようにベッドに腰掛けて、オネイロスの鍵を開けた時、電話が鳴った。
「あら、百合子?!」
久しく連絡のなかった高校時代の親友からであった。懐かしさに話が弾み、恋や仕事の悩みなどを打ち明け合って、電話を切った時には、既に二時間が過ぎていた。
再びベッドに戻ろうとして、さつきは慌てて天井を見上げた。何か、蛾のような黒いものが、スッと飛んだような気がしたのだった。
……ゴキブリ?……
その言葉が浮かんだ途端、背筋に寒気が走った。彼女は慌てて殺虫剤を手にした。
やっつけなければ!……
生理的な嫌悪と憎悪とが入り交じって、彼女にこの上ない強い使命感を与えた。
殺虫剤を構えたまま、天井から部屋の隅々までを睨んでいた彼女が、仇敵の気配のなさにようやく諦めた時、百合子との最後の会話から、更に三十分が過ぎようとしていた。
錯覚だったのかな?……
得心のいかないまま、ベッドに戻ったさつきは、そこで短い声を上げた。
オネイロスの鍵が開いている。二時間半はそのままになっていたはずだった。
「確か、寝る直前まで、開いちゃいけなかったんだよね」
彼女は、恐る恐る、眠ったように瞼を閉じる鍵の顔に尋ねた。夢の精オネイロスは沈黙を守っていた。
……まあ、大丈夫……
不安に揺れ出した心を無理になだめて、ベッドに入りかけた時、再び彼女の視界の端を黒いものが掠めた。さつきは慌てて床に飛び降りたが、約束を破った後ろめたさが、ベッドから離れることを躊躇わせた。
さっき探してもいなかったじゃない。もう、眠らなきゃ。鍵も開いたんだし……
葛藤に苛まれながら、それでも、忘れかけていた黒光りするはさみを思い出して、さつきはようやく枕に頭を沈めた。
そう、大丈夫だよね……
しかし、眠っている自分の顔の上を、縦横無尽に這い回るゴキブリの姿が、瞼の裏にちらついた。微かに開いた唇の間に、油ぎった黒い塊が入り込む……
「やだ!」
布団を蹴飛ばして、さつきは飛び起きた。黒板を爪で引っ搔いた時に感じるような嫌悪が、体中の神経を駆け巡っている。もう、そのまま眠る訳にはいかなくなっていた。
閉じておけば大丈夫よ……
踏ん切りをつけて、オネイロスの鍵を手にした彼女は、次の瞬間、短い悲鳴と共にそれを投げ出した。
リングを閉じたオネイロスの瞳は、真紅に染まっていたのである。穏やかだったはずの顔付も目尻が釣り上がり、口元はへの字に曲げられて、さつきが約束を破ったことを怒っているように思えた。
「何なのよ、これ……」
内臓が引きつり、縮み上がるような、不快な感覚が胸に湧いた。驚きと不安とが肺を締め上げて、さつきは息苦しさを覚えた。
床に就く直前まで開いてはならん……
老婆の言葉が思い出される。さつきは固唾を飲んだ。
開けると、どうなるのかしら?……




