第2話:オネイロスの鍵
「そこの、青い服の娘さん!」
店を出た二人が呼び止められたのは、大通りにある立体駐車場の入口の前であった。一人の老婆が、アスファルトに敷いたござに座って、さつきに向かって手招きをしていた。時代劇に出てくるような白装束を身に付け、大きな数珠を首から下げた、白髪のおかっぱの老婆は、古めかしい壺を一つ、緋毛氈の上に置いている。占い師の類だろうか。
「お前さん、悩んでおるの」
立ち止まって眉をひそめる二人に、老婆は続けた。どうやら、そうらしい。
「行こう。関わらない方がいいよ」
杏子が促して、さつきは歩きかけたが、老婆の次の言葉に、彼女の心は完全に捕らえられてしまった。
「夜、眠るのが怖いのじゃろ?」
まるで、胸の内を見透かしたかのようであった。それは、今のさつきにとってこの上のない誘惑の言葉となった。暗い雲間から、一条の眩い光が差し込んだ――彼女はそう確信した。
止めようとした杏子の手を逃れて、さつきは、誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、老婆の前に歩み寄った。
「どうしてわかるの?」
老婆の目線に腰を落として、さつきは尋ねた。が、老婆は微笑んだだけで、それには答えなかった。
「わしが助けてやろう」
そう言うと、老婆は目の前の黒くすすけた壺に手をかけた。
「こいつはパンドラの壺といっての。ここに手を入れた人間の欲しいものが入っておる」
パンドラ?……それは、老婆の容姿にはまるでそぐわない、西洋の神話に出てくる少女の名前であった。ある時、彼女が、好奇心から禁断の壺の蓋を開けてしまったために、中に封じ込められていた様々な災厄が、世の中に飛び出してしまうことになった。しかし、壺から溢れた不吉な気配に、彼女が慌てて蓋を閉じたため、壺の底には、『希望』だけが残ったという。
「選んでみるがいい」
老婆は、さつきの前に壺を差し出した。口から覗く壺の中には、暗闇が詰まっていた。
「さつき」
背後で杏子が声をかけた。振り返ったさつきに、眉根を寄せたまま、無言で首を振る。しかし、さつきは古びた壺に目を戻した。
――本当に願いが叶うなら――
恐る恐る、彼女は壺の中に手を入れた。中はひんやりとしている。息を整え、何かを探り当てようと動かした手に、カチリと触れるものがあった。さつきはそれを取り出した。
銀色に光るペンダントのようであった。鎖の先には、少年のものとも少女のものともつかない、青い宝石の瞳を持った端麗な顔がついていた。耳のところには、小さな翼がある。髪の上には、天使の輪のようなリングの一部が覗いている。
「ほう、オネイロスの鍵とは、随分と短絡的な望みじゃの。まあいい」
眉を顰めるさつきに向かって、意味ありげに老婆は言った。
「オネイロス?」
耳慣れない響きに、さつきは聞き返した。
「ギリシャ神話に出てくる夢の精じゃよ」
老婆は手を差し出して、彼女から、その『オネイロスの鍵』なるものを受け取った。
「これは、人の裡にある『夢の扉』の鍵でな」
そう言って、老婆は、顔の横についた翼を手前に倒した。ブキン、と鈍い金属音がして、頭にあるリングの一方の端が開いた。逆に、青く輝いていた瞳は瞼を閉じた。ペンダントだと思ったそれは、鍵穴のない南京錠であった。
「こうすると、その扉が開くようになっておる。これで、悪夢はお前さんの夢の中からは出ていくじゃろ。どうじゃ? 税込み千百円でいいぞ」
翼を戻すと、老婆はさつきの顔色を窺った。
……『夢の扉』の鍵か……
彼女は小さく唇を噛んだ。例え全くのイカサマだったとしても、惜しい金額ではない。むしろ、それで悪夢が消えるなら、安い買い物だった。
「いいわ。買います」
背中に杏子の溜息を聞きながら、さつきは財布を取り出した。二千円を渡す。老婆は、袖の中から百円玉を取り出しかけて、ふとさつきの顔を見直した。
「ただし、この鍵を開くのは、床に就く寸前じゃ。決して、夜起きている間に開いてはならん。この約束が守れるかの?」
「寝る前に?」
老婆は頷いた。この手の魔法の道具にはつきものの、おまじないの一種なのだろう。
「わかりました」
さつきは、お釣りと一緒にオネイロスの鍵を受け取った。
「無駄な買い物しちゃって」
再び歩き出すと、杏子が呆れ顔で言った。
「今は、ただのお守りでも構わないわ」
目の前に鍵をぶら下げながら、さつきは仕方なさそうに笑った。
「とにかく、私はあの夢から解放されたいの」
思いを込めて見つめる彼女の前で、街灯を映すオネイロスの青い瞳は七色に輝いた。




