第1話:私に殺される夢
遥か神話の時代、人間がこの世に生まれて間もない頃、光の象徴たる神と闇の象徴たる悪魔との間に、大地の覇権を賭けた戦いがあった。戦いは熾烈を極めたが、世界が激しく軋むに至っても勝敗を決することはできず、結局、彼らは大地を大きく二分し、その半分ずつをそれぞれが治めることで折り合いをつけた。大地に生きる人間は、その半身ずつが彼らの所有物となった。そして、大地が光に満たされている間、神は人間を『理性』で支配し、大地が闇に包まれている間は、悪魔が人間を『狂気』で支配することにした。しかし、賢明なる神は、悪魔に気付かれぬよう、人間の裡に二つの扉を与えていた。一つは、人間の肉体を封じる『眠りの扉』、そして、その内側にもう一つ、人間の精神を封じる『夢の扉』を――。この二つの扉は、大地から光が去ると、自然に閉じるようになっていた。だから、悪魔が人間に与えた『狂気』は、闇が訪れても、その扉の外へと出ることはできなかった。事実を知った悪魔は怒り狂ったが、既に後の祭りであった。それ以来、人間は、夜になると眠りに落ち、そして、夢の中に狂気を垣間見る……
* * *
雨が降っているのだろうか? 雨垂れの音が聞こえている。薄暗い。というよりは、色彩が欠如している感じだった。古ぼけた写真のような、茶色とも灰色ともつかない色だけが、辺りを満たしていた。どこだろう? 顔を上げた先には、階段があった。両側には、コンクリートの壁が迫っていた。私は、その階段を上り始めた。いや、始めから、私は階段を上り続けていたのかも知れない。
狭い階段を上り切った突き当たりには、木製のドアがあった。ためらいもなく、私はそれを開けた。
家具の一つもない、六畳ほどの小さな部屋が広がった。左右の壁には窓があり、そこから、赤い光が差し込んできていた。四角い窓枠の内側だけが、暗く色褪せた周囲と不協和音を奏でるかのごとく、強烈な色を放っていた。踏切の警報機か、深夜の信号機のように、光は明滅を繰り返した。
ふと気が付くと、部屋の真ん中には、誰かがうずくまっていた。
「誰?」
私は尋ねた。返事はない。
「誰なの?」
私が歩み寄った時、不意に彼女は立ち上がった。窓から差し込む不吉な光が、振り返った彼女の顔を赤々と照らし出す。長い髪を振り乱し、乱杭歯を剥き出して、憎悪にたぎる血走った目で私を睨む彼女は――
他ならぬ私自身だった!
「お前なんか、殺してやる!」
獣のように叫んで、目の前の私は、右手を振り上げる。そこには、黒光りする大きなはさみが握られていた。身をかわす間もなく、私は、突進してきた私でない私のはさみの一撃を胸に受けた。尖った黒い切っ先が、服ごと肌に分け入り、押し潰し、引き千切る。脳髄を焦がすような鋭い痛みに襲われて、よろめいた私は、胸の間に、骸骨の眼窩のようなはさみの取っ手だけが覗いているのを見た。傷口から血が滝のように滴って、みるみる床を濡らす。始めに聞こえていた、じっとりと湿った雨垂れの音が、部屋の中に響く。そして、彼女が笑っている。狂ったように。
私は、薄暗い寝室のベッドの上に飛び起きた。汗が全身を濡らしていた。思わず手がみぞおちを擦って、傷のないことを確かめる。夢と分かって、大きく安堵の息をついた私は、しかし、次の瞬間、急激な吐き気に襲われた。私は、布団を蹴飛ばして洗面所に駆け込むと、体を震わせて、喉元に込み上げた熱い塊を思い切り吐き出した。やがて、落ち着きを取り戻して、潤んだ目が再び焦点を結んだ時、洗面台の白い陶器は、半ばタールのようになった大量の血で、どす黒く染まっていた――
「ちょっと、何それ?!」
話を聞いていた杏子は、手にしたグラスを置くと、胸の辺りに湧き上がった不快感に口元を押さえた。
「そこで、本当に目が覚めるのよ」
慌ててさつきは付け加えた。
「何だ、じゃあ、血を吐くのも夢な訳ね。びっくりした。本当かと思うじゃない」
顔を顰めた杏子は、自分の早とちりを棚に上げて、驚かしたことを責めるようにさつきの顔を睨んだ。
「本当に血吐いてたら、こんなところで、暢気にお酒なんか飲んでないわよ」
苦笑いして息をついたさつきは、マルガリータを一口飲んだ。明かりを落とした狭い店内にはラテンの音楽が溢れ、カウンターの奥のテレビには、ところどころにサボテンが聳え立つ広大な砂漠の映像が映っている。
「でも、毎晩見るわけ? その夢」
グラスを空ける暫くの沈黙の後、小さなテーブルの上に片肘をついて、杏子は尋ねた。眉根を寄せて、さつきは頷いた。
「それで、最近全然眠れないの」
「それは大変ね。睡眠不足はお肌の大敵だからね」
いい加減に相槌を打って、ケサディージャの皿に手を伸ばそうとした杏子の手を、さつきは不機嫌に遮った。
「あなたね。人の悩みを真剣に聞く気あるわけ?」
「ごめんごめん」
謝りながら、杏子はお預けを食らったケサディージャの一切れを口にした。幸せそうに微笑む。カクテルに淡く頬を染めた杏子の屈託のない顔は、悩みを打ち明けたはずのさつきの心を一層憂鬱にさせた。
「はさみが、肉を引き裂いて胸の奥に入って来る、あの、焼かれるような痛みと鈍い音が忘れられないのよ」
忌まわしい記憶が肌の上を冷ややかに滑って、さつきは身震いした。杏子は、口元を弓なりに吊り上げて、その嫌悪に歪んだ彼女の顔をいたずらっぽく覗き込んだ。
「まるで初めての時みたいに?」
言葉の意味を悟って、さつきは憤りをテーブルに叩きつけた。
「あんたに相談した私が馬鹿だったわ。もういい! 帰る!」
店中の客が振り返る中、バッグを手に立ち上がろうとしたさつきを、杏子は慌てて引き留めた。
「ごめん、さつき。私が悪かったわ。あんたがそんなに悩んでるなんて思わなかったから」
頭を下げたり、両手を合わせたりと、必死に宥められて、さつきは渋々腰を下ろした。
「でも、マジな話、一度精神科にでも診てもらった方がいいかもよ」
テーブルの上に零れたマルガリータをタオルで拭くと、ふと真顔で杏子は言った。
……精神科……
異常者の烙印を押すようなその響きに、不安の黒雲がどんよりと心に垂れ込めていくのが分かった。さつきは、杏子の中に、薄れていく日差しを探そうと試みた。
「やっぱり、そうなのかな?」
いやでも次の言葉を期待させるような、一呼吸分の沈黙があった。
「……多分ね……」
無情にも――いや、そうではない。彼女のためを思えばこそ、と杏子は思ったのだが――、すがろうと手を伸ばしたさつきの目の前で、太陽は雲に覆い隠されてしまった。杏子の答えは、当然さつき自身も考えたことではあった。ただ、それを認めたくなかったのである。
不意に空気が薄くなったような錯覚に襲われて、さつきは大きく息を吸った。波立つ心を落ち着かせるように、努めてゆっくりと息を吐く。
「……そうかもね……」
観念したように、彼女は呟いた。




