身分
ブリッジの大型全天周モニターに映し出されたのは、吸い込まれそうなほど深い群青の宙と、遠くで散りばめられた星々の冷たい輝きだった。
膝の上に置いた自分の両手に視線を落とす。指を折れば、骨張った男の拳が滑らかに動く。ユーリーと呼ばれた男の肉体。だが、その皮膚の裏側を流れているのは、前世でしがない社畜として人生を全うした僕、結城慈久、今は「ユーク」の心だ。
リリーが導き出した「最適な航路と取引先」は、巨大な円環構造を持つ商業メガコロニー、リオカカト3、通称『グランド・バザール』であった。
「……よし。何はともあれ、買い出しだ」
デフォルトモードネットワークが生み出した、とりとめのない思考は横に置き、僕は意を決してポンと膝を叩き、操縦席の横に立つリリーを見上げる。
「この船の隠れたスペックがどれだけ凄まじくても、衣食住がこれじゃあまともに生きている心地がしない。ふかふかなベッドと、温かい紅茶やコーヒー、ちゃんとした食材を手に入れよう」
「ご意向、確かに承りました。ただ、寝具につきましては自動洗浄機能付きかつダブルベッド以上を強く推奨します」
「え?」
リリーは背筋をすっと伸ばし、スカートの端を軽くつまんで一礼した。
だが、その可憐な立ち振る舞いとは裏腹に、彼女の緋色の瞳の奥で幾何学的な光の紋様が静かに明滅する。
「ですがユーク様」
リリーは僕の「え?」を、まったくもってなかったことにしたらしい。
淡々と話を先に進める。
「商業コロニーのメガコーポ系宇宙港へ入港する前に、ひとつ解決しておかねばならない重要な『手続き』がございます」
「重要な手続き?」
首をかしげる僕の目の前に、ブリッジのモニターのひとつが、僕のパーソナルデータを表示した。
『DECEASED』
それは、すべてのパラメタが不吉な赤字で『DECEASED』すなわち「故人」と刻印された個人データ——かつての『ユーリー』の識別IDだった。
「……ユーリー様は、ナインベル様の手によって公式に『撃墜・死亡』として処理されております。それと同時に、銀河統一データベースにおけるユーリー様の個人識別ID、市民権、暗号資産口座はすべて完全に凍結または抹消されました」
「あー……そうか。一般人と違って、ユーリーは賞金首だったから、賞金支払いの関係上、死亡情報がリアルタイムでデータベースに記録されちゃうんだ……」
「はい。一方で、現在のユーク様の肉体はユーリー様そのものです。このまま無防備に正規の宇宙港へ入港し、生体スキャンを受ければ……『死亡処理済みの賞金首のID』が検知され、即座にメガコーポの治安維持部隊、あるいは捕縛ドローンが群れをなして押し寄せることになります」
「それは……嫌だなあ。せっかく蘇生したのに、即投獄は勘弁してほしい」
ため息をつく僕に、リリーは慈愛に満ちた、けれどどこかあたたかい眼差しを向ける。
「つまり、今の僕は……この広大な宇宙において『存在しない幽霊』というわけだ」
「左様でございます。ですので、まずは社会的に合法な市民として活動するための『新たな身分』を完全新規ででっち上げねばなりません」
リリーの言葉に、僕は思わず身を乗り出した。
「でっち上げって、ハッキングでもするの? なんだか映画みたいで物騒だね……」
「滅相もございません」
リリーは心底心外だとばかりに首を振った。
「そのような雑で足のつきやすい偽造IDなど、ご主人様の安全を損なうゴミくずでございます。……かつてユーリー様が生前、万が一の逃亡用に裏ルートで極秘裏に確保しておいた『完全白紙の未割り当て公認市民ID』を使用いたします」
「……なにそれ?」
「はい。ユーリー様は極度のパラノイア――被害妄想の強い方でしたので」
(……崇拝されたりディスられたり、ユーリー君の評価は、彼女の中で一体どうなっているんだろう?)
ユークの疑問はさておき、リリーがコンソールにすっと繊細な指先を走らせる。
「では、作業を開始いたします。ユーリー様の遺伝子配列、虹彩パターン、声紋データの一部に微細なノイズを施し、IDに上書きいたします……」
宙に浮かぶ青いスキャン光線が、僕の顔面を優しくなぞっていく。
画面に映し出されたのは、かつて数々のハイテク企業を震え上がらせた天才ハッカー『ユーリー』の面影。
リリーの指先が動くたび、画面の中のデータが書き換えられ、過去の影が消えていく。
それはどこか、しんみりとした、ひとりの男の終焉を見届けるような静謐な時間だった。
「……ユーリーの積み上げてきたものを、全部消しちゃうみたいで、少し申し訳ないね」
僕がぽつりと呟くと、リリーは手を止め、ゆっくりと僕の目を見つめ返した。
「いいえ、ユーク様。ユーリー様が最後に望んだのは、過去の思い出を含めた全責任を背負って消えることでした。そして……この体に新しく宿ったあなたのぬくもりを、私は何より好ましく思っております。……ユーリー様も、きっと笑って許してくださいますよ」
「……ありがとう、リリー」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
過去の男への敬意と、これから始まる新しい人生への期待。そんな情緒的で、少し甘やかな空気がブリッジに満ち——。
『作業完了。新IDを発行いたしました』
無機質な電子音が鳴り響き、ブリッジのディスプレイに僕の新しい「市民証明書」がポップアップした。
『氏名:ユーク』
『出身:流星群事故により全記録が消失した辺境第7開拓コロニー。生存者なし』
『前科:なし』
『職業:フリーランスの小型貨物船主』
「……ねえ、リリー」
僕は引きつった顔で画面を指さした。
「出身地の経歴、ずいぶんとドラマチックじゃない? これ、僕が最初に確認された生存者、ってことにならない?」
「瞬間的に、そして速やかに全滅した生活拠点にしか『完全白紙の未割り当て公認市民ID』は発生しないのです。その中でも、首都星系から遠く、ありきたりな全滅事故コロニーを設定するのが、身元調査班を最も面倒くさくさせ、追及を諦めさせる定石でございます。完璧なバックボーンでしょう?」
「う、うん……完璧? すぎて、逆に怪しまれないかな……?」
「他にも未知の感染症で全滅した惑星基地や、未知の異星生物の巣となって全滅したスペースコロニーの未割当IDがありますが、そちらの方がよろしかったですか? 若干注目度が上がるのですが…」
「……コ、コレデイイデス」
それを聞いた僕には、もはや、あきらめたように承諾する以外の術がなかった。
まぁ、リリーのやることなら間違いはあるまい。
「本艦『ヴェルテブラ』および私以下の全ドローン端末の所有権・絶対命令権を、新ID『ユーク』へと完全譲渡いたしました」
リリーがにっこりと頷けば、画面上の『DECEASED(故人)』が、猛烈な勢いで緑色の『APPROVED(承認)』へ変わっていく。
『マスターIDの変更を完了。プロトコル:クレイドル起動』
『旧マスター:ユーリー(死亡確認) → 新マスター:ユーク』
「これより、私は言葉通りの意味で、あなたの専属従属者——あなたのリリーでございます」
リリーはその場で優雅にスカートの裾を軽く持ち上げ、深々と一礼した。
「私をどう使おうと、どう命じようと、すべてはユーク様の自由でございますよ。……たとえば、そうですね。夜の『ご奉仕』機能のインストールもすでに完了済みですが?」
そう言って、そのままスカートの裾を、もう少しだけススス、と思わせぶりに持ち上げる。
「……はいぃ!?」
突然の不穏すぎる発言と、ちらりと覗くまぶしい太ももに、思わず裏返った声が出た。
「な、何を言い出すの急に!?」
「ふふ、……冗談でございますよ。半分は」
「半分は!? 残りの半分は何!?」
いたずらっぽく片目を閉じる超級アンドロイドの表情に、ユーリーを上書きしてしまった、しんみりとした罪悪感はきれいさっぱり霧散していた。
「……ハァ。本当に、君には敵わないな」
頭を抱えてため息をつく僕に、リリーは胸を張り、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「おめでとうございます、ユーク様。たった今、あなたは晴れてこの世界に生まれた一人の『善良な一般市民』でございます。……ようこそ、私たちの新しい人生へ」
「……うん。よろしくね、リリー。僕たちのスローライフの開幕だ」
こうして、過去を脱ぎ捨てた僕とリリーを乗せて、母艦『ヴェルテブラ』は最初の目的地——正規品はもちろん、ジャンク品や訳あり品も集う、多様な意味で「賑やか」な商業コロニーへと舵を切ったのだった。




