覚醒
深い、深い闇の底から、意識がゆっくりと浮上していく。
ぬるい粘性を帯びた液体が、全身を優しく包み込んでいた。
耳奥で掠れるように響くのは、規則的なポンプの脈動音と、電子基板が悲鳴を上げるような高周波のノイズ。
(……誰かに、呼ばれたような……)
脳裏に浮かぶのは、薄暗い病室の光景だ。会社に捧げ続けた疲れ切った身体ではあったが、それでも最後は温かい家族に見守られ、穏やかに息を引き取ったはずだった。人生をやりきった。その様な納得感がある。それは、優しい揺らぎを持った、ゆりかごのような……。
「うっ!?」
だが、肺が猛烈な拒絶反応を起こし、気道から液体を吐き出そうと暴れ出す。
「ッ……! ゲホッ……コホッ……!」
激しい咳嗽とともに、視界を塞いでいた濃緑色の培養液が濁った。
カチ、と気密ロックが解除される乾いた音が響き、ポッドのガラスハッチがゆっくりと上方へスライドしていく。
ゴボゴボと音を立てて液体が排水され、代わりに冷え切った空気が肌を刺した。
全身を襲うのは、激しい悪寒と、神経系が再接続される際の痺れるような痛み。
支えを失った身体が前傾し、ポッドの縁から落ちかける。
それを、寸前のところで何かが柔らかく受け止めた。
「……無理に動かれては困ります。まだ生体ナノマシンによる神経結合の生着率が、92パーセントに達しておりません」
耳に届いたのは、澄んだ鈴の音のような声だった。濡れて張り付く髪を払い、視界を拭う。そこに立っていたのは、一人の少女だった。
透き通るような白い肌。整いすぎた美しい顔立ち。緋色の瞳をかすかに潤ませ、彼女は両腕で僕の身体をしっかりと支えていた。
「キミ……は……?」
掠れた声で問いかけながら、僕は自分の手元を見つめた。
視界に入ったのは、しわの寄った老人の手でも、長年デスクワークで固まった自分の手でもない。火傷の痕が真新しい皮膚で上書きされた、引き締まった若い男の手だった。
同時に、脳裏へ滝のように流れ込んでくる『見知らぬ知識』。
高度な電子戦プロトコル、ドローンの個別識別ID、艦船の構造図面、そして——ドールマスター・ユーリーという気障な宇宙海賊としての膨大な記憶。同時に、側頭部を極太の杭で打ち抜かれたような激痛が走った。
「ッ……ぐ、あ…………っ!?」
滝だった知識の流れは、今や決壊したダムから押し寄せる怒涛の濁流となって僕を苛む。
視神経の裏側で、見たこともない文字列と三次元CADデータのような立体図が超高速でスクロールしていく。
軍用暗号の解読アルゴリズム。
数千機に及ぶドローンの操作知識と階層制御プロトコル。
艦載リアクターの出力バイパス経路。
そして——失ってしまった最愛の女性、リリーとの、穏やかな記憶。
処理容量を遥かに超えた情報量に、意識が焼き切れそうになる。
激しい目眩と嘔吐感が押し寄せ、僕は自分の頭を抱え込もうと手を伸ばしかけた。
——だが、その直後だった。
濁流のように溢れかえっていた混乱が、すっと潮が引くように収まっていく。
脳内に流れ込んできたユーリーの膨大な電子戦知識と処理能力が、皮肉にも、僕自身のパニックを秒単位で整理・類別・圧縮し始めたのだ。
まるで、高性能なCPUがバックグラウンドで不要なタスクを片端から強制終了していくかのように。
脈打ち、過熱していた脳内が、一転して冷ややかな静寂に包まれる。
(……なるほど。分かりたくないけど……、分かってしまう)
混乱の波が去ったあと残ったのは、気味が悪いほどの明晰さだった。
前世で人生を全うした、成熟した大人としての落ち着き。
そこにドールマスター・ユーリーの並外れた情報処理能力が合流したことで、僕は自分が置かれたこの常識外れの状況を、驚くほど客観的に理解してしまっていた。
僕は死に、そして何かに呼び戻された挙句、どういうわけか、この、悪名高き宇宙海賊の身体へと定着してしまったのだと。
僕を受け止めている彼女——ユーリーの記憶によれば、《アンドロイド》のリリー――は、僕の胸元に耳を当てるようにして身体を支えたまま、微動だにしなかった。
緋色の彼女の瞳の奥で、幾何学的な光の紋様が高速で明滅している。
「……解せません」
静かな呟きだった。
「肉体のDNA、網膜パターン、脳波の基本周波数……すべてユーリー様と一致しています。……ですが」
リリーの指先が、僕の手首を、脈拍を測るかの如く強く圧迫する。
「高次精神波形が、完全に別物です。……ユーリー様の魂は、もうこの身体の中には存在しません。……アナタは、誰ですか」
問い詰めるような言葉。だが、その声はかすかに震えていた。
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