序章
警報音が、狭いコックピットの内部に甲高く鳴り響いていた。視界を覆うメインモニターには、ノイズ混じりの赤と黄色の警告表示が波打っている。
シートから背骨へと伝わる激しい振動。胸の奥を押し潰すような強烈な過重加速度に、ナインベルは歯を食いしばった。
噛み締めすぎた奥歯の隙間から、舌の奥に鉄の味が広がる。
「くっ……! なんだ、この機動は……っ!」
スロットルレバーを握りしめる指先は、滲み出た嫌な汗のせいで滑りかけていた。
グリップを力任せに握り直し、操縦桿を限界まで倒し込む。
姿勢制御スラスターが悲鳴を上げ、機体が強引に軌道を修正する。直後、さっきまでナインベルの機体が存在していた空間を、青白い高エネルギーのレーザー光線が寸分の狂いもなく貫いていった。
すれ違いざま、視界の端を駆け抜ける一筋の影。
漆黒の装甲を纏った機体——宇宙海賊、ドールマスター・ユーリーの愛機だ。
(おかしい……っ!)
額から垂れた冷や汗が、まつ毛を濡らす。
脳裏をよぎるのは、この戦いに至るまでの惨めな経緯だった。
大手民間軍事会社のエースで《5つ星傭兵》あった自分が、背負わされた身に覚えのない冤罪事件。突きつけられたのは、個人の生涯どころか何代かけても返済不可能な膨大な損害賠償額だった。
追いつめられた末に、賞金首を狩る傭兵へと身を落とした。
今回受領したのは、治安維持機構のデータベースの隅に転がっていた、データ上は何の変哲もない「小規模海賊団の駆除」という掃討任務。
提示されていた報酬額は、彼女の背負う莫大な負債からすればまさに雀の涙。それでも、少しでも借金を減らすため、泥をすするような思いで食らいついた雑用ミッションだったはずなのだ。
だというのに——なぜ、ドール・マスターがいる!? 新進気鋭の大海賊にして超級ハッカー。被害者に「彼に狙われないテック企業は2流である」とまで言わしめた大物である。
そして――なぜ、
「ユーリーっ!? お前はハッカーじゃなかったのか!? なんだこの神がかった操船技術は!?」
こちらの射撃タイミング、回避パターン、果てはG限界に達して一瞬操作が遅れる癖まで。そのすべてをあらかじめ『知っている』かのような、無駄のない立ち回り。
攻め込まれ、追い詰められ、だが紙一重のところで致命傷だけは回避させられている。
まるで彼女——ナインベルの実力の限界を完璧に把握し、そのギリギリの閾値の上で踊らされているような、恐ろしいほどの精密さ。
「舐めるな……ッ! 私は、ここで折れるわけにはいかないんだ!!」
ナインベルはサブパネルを叩き、緊急用のアフターバーナーを直結させた。
爆発的な推進力が弾け、猛烈なGが全身体をシートへ叩きつける。視界が瞬時に狭まるブラックアウト寸前の限界領域。
相手機が、こちらの予想外の加速に反応してわずかに姿勢を崩した。
ほんの一瞬。コンマ数秒の隙。
「捕まえた……!!」
ロックオンサイトが深紅に染まると同時に、主砲のトリガーを全力で引き抜いた。
高出力のビームが宙を切り裂き、漆黒の機体のコックピットブロックをダイレクトに貫通する。 内部からの誘爆。光の粒子が宇宙空間に散らばり、相手の機体がゆっくりと崩壊を始めた。
「ハァ……ハァ……っ、やった……?」
操縦桿を握る手がガタガタと震えていた。
胸を撫で下ろそうとした、その瞬間だった。
《警告:外部ポートからの未承認アクセス。セキュリティ・プロトコルバイパス——》
コンソールの画面が一面、鮮やかなノイズで埋め尽くされた。
「な……ッ!? ハッキング……!? バカな、敵機はもう——」
慌ててシステムをリセットしようと手を伸ばすが、パネルは一切の操作を受け付けない。
漆黒の海賊機はすでに鉄くずだ。何の電波も発していないはずだった。
ならば、考えられることはただ一つ。
あのドッグファイトの最中に、相手はすでにこちらへ『遅延型の電子潜入』を仕掛けていたのだ。
機体のスピーカーから、ざざ……とノイズ混じりの男の声が拾い上げられる。
『やあ、ナインベル。初めまして。そしてお疲れ様』
それは軽薄で、どこか諦観を孕んだ、穏やかな男の声だった。
***
『……ハックについては心配しなくていい。君の機体のデータを盗む気はないさ。ただ、プレゼントを届けるための通路が欲しかっただけだ』
「プレゼント……? ユーリー、貴様、何を——」
『ああ、言っておくがこれは録音だ。君がその疑問を口にする頃には、俺はこの世にいない。死人に口なし、ってね。追及は諦めてくれ』
あらかじめセットされていた時限メッセージ。
こちらの反応すら完璧に読み切った冷たさに、ナインベルの口がピタリと固まる。
『ただね、俺の動機を知らせておこうかな、という気になったんだ。……あまりにも面白い偶然が重なったんでね』
スピーカーの向こうで、男が小さく喉を鳴らして笑う気配がした。
『君が受けていたあの雑用依頼——何の変哲もない海賊退治のミッションだがね。あれは俺がギルドのデータベースに直接割り込んで流したダミーだ』
「ダミー……?」
『そうさ。君が巨大企業の罠に嵌められ、背負わされた絶望的な借金額。そして……巷を賑わせるお騒がせハッカーたる、この俺の首に掛けられた賞金額』
ふっと、男の声から軽薄さが抜け、どこか遠い目をするような静けさが混じる。
『最後の一桁まで、完全に一致していたんだよ。笑えるだろう?』
「一致……? 私の借金と、お前の賞金が……?」
ナインベルは息を飲んだ。
『ずっと、虚しかったのさ』
ユーリーの呟きは、宇宙の闇に溶けていくほど淡々としていた。
『俺の最高傑作は……もう完成した。この宇宙で俺が成すべきことは、もう何一つ残っていない。だから、ずっと出口を探していたんだ』
熱気の残るコックピットの中で、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
『どうせ捨てる命だ。くだらない企業の陰謀に潰されかけている君の借金と、俺の首代。あまりに綺麗なパズルが組み上がってしまったなら……乗らない手はないじゃないか』
サブモニターにポップアップ表示されたのは、公的金融機関からの「全額返済完了」を通知するホログラムだった。
『君の口座に受取認証を転送しておいた。これで……君を縛り付けていたくだらない鎖は、綺麗さっぱり砕けて消えた』
画面に躍る『残高:0』の青い文字。
だが、ナインベルの脳裏に湧き上がったのは、安堵などでは断じてなかった。
血の気が引き、続いてドス黒い激怒が頭頂部へ跳ね上がる。
「は……? パズル……? 鎖……?」
意味が、わからない。
最高傑作? 出口? 自分の命を捨てるためのパズル……!?
汗でベタつくスロットルレバーを握りしめたまま、ナインベルは引きつった怒声を張り上げた。
「お前、何を言っているんだ……ッ!? 勝手なことばかり並べ立てるな! 私は……私はな、そんなわけの分からない自己満足のために、お前を撃ち落としたんじゃない……っ!」
命を懸けて操縦桿を握っていた己の感情すら、すべて手の平の上で弄ばれていたというのか。
怒りで身体が打ち震える。
しかし、スピーカーの向こうの録音音声は、ナインベルの叫びなど端から届いていないかのように、ただ静かに最後の言葉を告げた。
『じゃあな。俺はリリーに、お前が救われたことを報告してくるとしよう』
ブツン、と通信が切れた。
メインモニターのノイズが晴れ、視界に飛び込んできたのは、完全に沈黙し、星屑のように宇宙の闇へと霧散していく海賊機の残骸だけだった。
静寂が、狭い空間を押し潰すように包み込んでいく。
聞こえるのは、自分の激しい呼吸音と、機械の発熱を逃す微かなファンノイズだけ。
「り……り……?」
吐き捨てようとした罵倒が、喉の奥で氷ついた。 今、この男は、なんと言った——?
リリー?
かつて同じ軍事学校で競い合い、過酷な訓練をともに乗り越え、そして数年前に戦死したと通知を受けた、たった一人の大切な親友。
「……なんで……?」
思考が、真っ白に染まっていく。
なぜ、顔も知らぬ宇宙海賊の口から、死んだはずの親友の名前が出てくる?
あの男とリリーに、どんな接点があったというのか。
「なんなんだよ……それ……っ!」
助かったのだ。
地獄のような負債からは解放され、自由になれたはずなのだ。
なのに。
胸を塞ぐのは、不気味なほどの困惑と、顔も知らぬ男の「死に場所」として引き金を引かされてしまったという、重く冷たい罪悪感だけだった。
「答えろ……! 答えてくれよ、ユーリー……ッ!!」
ナインベルが震える拳をコンソールへ叩きつける音だけが、冷たい宇宙の静寂の中に、虚しく響き渡っていた。
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