滑稽な軍議・三
「逃げましょう、安平君」
安平君と二人きりになった瞬間、僕はそう切り出した。遠くの大広間からは、まだ居残っている五十人ほどの食客たちのざわめきがかすかに届いてくる。
安平君がきょとんとした顔になる。
「先生は、秦軍を撃退する策を授けてくださるのではなかったのですか」
「無理です」
僕は迷いなく答えた。
「孫子は『小敵の堅は大敵の擒なり』と言っています。寡兵で無理に強敵と戦おうとすれば、大軍の餌食になって捕らえられるだけです」
「……先生。それは本心での進言ですか。それとも、斉は無抵抗のまま滅ぼされるべきだという考えからですか」
安平君が鋭い視線を僕に向ける。
「本心です。戦を知らぬ斉軍一万に対し、百戦錬磨の秦軍二万。指揮官も、戦場慣れした李信に対し、文官の安平君。これで勝てというほうが無理な話です」
「しかし、ここで戦わずに退けば、斉の降伏派に嘲笑われ、朝廷の主戦派は追われる立場になりましょう」
安平君の懸念はわかる。だが――
「戦えば、確実に負けます。一万の兵を丸ごと失うだけです。ならば軍を保全したまま国に戻り、まずは兵を鍛え直すべきです。趙の亡命将校を金で雇い入れ、彼らに指導させればいい。秦とやり合うのは、それからでも遅くはありません」
「……先生。残念ながら、私に退くつもりはありませんぞ」
僕の必死の説得も虚しく、安平君の意志は揺るがない。
「そもそも、一万の兵を率いてこの鎮西城に入った時点で、秦との戦は覚悟の上でした。それに、この一万も、斉を守り抜くという固い決意を胸に集った者たちです」
安平君はそこで言葉を区切り、意味ありげに僕の目をじっと見つめた。
「戦わずして退く、などと言い出せば……彼らは怒り狂って、私を、そしてそれを勧めた子安先生を殺すでしょうな」
「……」
「覚悟を決めなされ、先生。すでに乗りかかった舟です。……強引な手段であることは心から詫びましょう。ですが、私は本気なのです」
そう言って、安平君は深々と、まるで許しを乞うように頭を下げた。
「ここに来ると決めたのが、そもそもの間違いだったか……はあ……」
逃げることを諦めた僕に、安平君が笑いかける。
「それに、先生は一つ、勘違いをなさっている」
「勘違い、ですか」
「斉の軍を率いるのは、実戦知らずの私ではありません。軍歴の長い将軍です」
「……将軍?」
首を傾げた瞬間、背後で足音がした。
振り返ると、いかにも武人然とした、無骨な大男が立っていた。
「顔聚と申します。以後、お見知りおきを」
――顔聚。去年、趙がまだ滅びる前、斉から派遣されて趙軍を率い、秦と戦った将軍だ。一戦で秦軍に敗れ、斉へ逃げ帰ったと聞いている。
……頼りになるのか?
いや――まあ、顔聚将軍からしても、一介の小役人でしかない僕のほうこそ頼りになるのか、疑わしいだろうけど。
「言われなくても分かっております。私が役に立つのか、疑わしいのでしょう」
「……え、まあ、はい。正直に申しますと」
顔聚将軍が、バツが悪そうに苦笑した。
「私は凡将です。ですが、軍を指揮してきた経験の長さだけは、斉人の中でも抜きん出ております。兵たちからの信望も厚い。ですから、それなりに役には立つはずです」
「先生。顔将軍は、昨年秦軍に敗れた際にも、自ら殿を引き受け最後まで戦い抜きました。また、私財を割いて兵たちに分け与えてもいます」
安平君が言い添える。
将軍が私財を兵に分け与えるなど許されるものなのか、と一瞬思いはしたが、兵からの信頼というのはそれだけ重いものなのだろう。
「なるほど。つまり、兵からの信頼厚い顔将軍が、この鎮西城の籠城戦を指揮なさる、と」
「その……それが、違うのです。鎮西城は長らく修理もされておらず、とても籠城に耐えられる城ではありません」
顔聚将軍が申し訳なさそうに否定する。
「は? 最前線の城ですよね、ここ」
「そう……なのです……」
僕は顔聚将軍から安平君へと視線を移す。
安平君は、目を合わせようとしない。
――おい。さっきまで恋でもしているのかというくらい僕を見つめていたじゃないですか。
「やっぱり、僕だけ逃げます」
踵を返し、部屋からダッシュで逃走を図る僕。だが、すぐさま腕を掴まれた。
「離してください、顔将軍! 僕は死にしたくないんです!」
「子安殿は智謀の士と聞いております。あなたが策を立てれば、きっと生き残れますよ」
「無理ですよ! だいたい、あなたたちは僕に何を期待しているんです! 戦略なんて一度も立てたことのない、ただの小役人ですよ、僕は!!」




