泥濘の大博打・一
「ふぅ……」
地平線の彼方に、土煙が立ち上がっていた。
屈強な秦軍が大地を揺らしている。無数の黒い影が、刻一刻と輪郭を濃くしながら迫ってくる。
これから、大勢の人間が殺し合う。
なのに、空は嘘みたいに澄んでいた。
こういうのを見ると、神様っていないんだなと思う。いや――現代日本から古代中国に転生している時点で、案外いたりするのか。
だとしたら、殴ってやりたい。
「……生。子安先生」
「ん」
喉の奥が強張った。隣の安平君が僕を呼んでいる。
ゆっくりと顔を向ける。彼は蒼白な面持ちで僕を見つめていた。眉間に深く皺が刻まれ、着物の袖からのぞく手は、はっきりとわかるほど震えている。
強く握りしめすぎたのか、指の関節が白くなっていた。
「申し訳ありません。先生を巻き込んでしまって」
震える声。搾り出すような謝罪だった。風が吹き抜け、彼の乱れた前髪が額に張りついている。
「私は……私は戦争を甘く見ていた。怖くてたまらない! 父も、このような気分だったのだろうか!?」
周囲の兵に聞こえぬよう、声を殺しながら、それでいて叫ぶように。安平君の言葉には、矛盾した圧があった。
「そうですよね。僕も、怖いです」
喉が渇いて、うまく声が出ない。遠くで馬が一頭、落ち着きなく嘶いた。誰かが手綱を強く引く音が続く。
安平君が掠れた声で話す。
「秦は楚との国境に続々と軍を駐屯させています。斉には少数の兵しか割けない。だからこそ、斉の兵に実戦を積ませるなら今しかないと。私は、そう判断しました」
「……なるほど」
破裂しそうなほど五月蠅い心臓の音に、意識を持っていかれそうになる。それを押し戻すように、僕は言葉を吐き出した。
「この恐怖を、初めて味わうのか。二度目なのか。それだけで、大きく変わるでしょうね」
地鳴りが、また一段大きくなった。一糸乱れぬ行軍を続ける秦軍との距離が、目に見えて縮まっていく。
……すごいな。僕たちなんて、この場に布陣するまでに何度もトラブルがあったのに。向こうには、乱れが一つもない。
隊列の中から、若い兵士のすすり泣くような息遣いが漏れ聞こえた。誰も咎めない。咎める余裕がないのだ。
「大丈夫ですよ、安平君」
聞かれてもいないのに、僕は言葉を吐き出す。震える安平君の肩に、そっと視線をやりながら。
「右手には山、左手には沼があります。狭い路地で一対一が成り立つように、秦軍の数的有利は潰しています。包囲もされません」
「包囲されない点において、ここは最高の地です。それは認めます。ですが、何ですかこの地は!?」
安平君が勢いよく背後を振り向く。つられて僕も視線を追った。
視界の果てから果てまでを埋め尽くす、濁った大河。流速は重厚で、巨大な獣の脈動のようにゆっくりと、しかし抗いようのない質量をもって大地を刻みつけている。
暴れ龍、黄河だ。
目の前には屈強な秦軍が、左右には山と沼が、そして背後には黄河。もうどこにも逃げ場はない。
いわゆる背水の陣だ。もっとも、この戦術を採った韓信が登場するのは二十年ほど後だが。
戦ったことのない斉の兵士だ。複雑なことはできない。シンプルに目の前の敵を討つことに集中させるのが一番だろう。
「私は、子安殿の采配に賛成します」
低く落ち着いた声。馬蹄の音が近づいてくる。
「……顔将軍」
馬蹄を響かせ、この軍の総大将である顔聚将軍が僕たちの隣へと馬を並べる。手綱を握る所作には、微塵の迷いもなかった。
「何をおっしゃるか顔将軍! 川を背にするは禁! 文官の私でも知っていることですぞ!?」
これまで何とか平静を保っていた安平君が唾を飛ばして叫ぶ。馬が驚いて一歩後ずさった。
「ここに集まった兵は、斉を守るという強い意志を持った勇者たちです」
顔将軍は兵士たちを見渡した。その勇者たちの持つ槍は、酷く震えていた。将軍は視線をゆっくりと戻し、静かに続ける。
「ですが、所詮は戦を知らない素人。いざ戦いが始まれば逃げ出す者も多いでしょう。それを防ぐのに、ここより相応しい場所はありません」
「それで全滅したらどうするのです!? 逃げ場がないのですぞ!?」
安平君の抗議に、顔聚将軍が悲しそうな顔をする。手綱を握る手に、わずかに力がこもった。
「お言葉ですが……秦軍と戦って負けた場合、全滅するのが必至です。彼らは敵の首を貪欲に求め、どこまでも追ってくる」
「だからもっとましな場所で――」
「開けた平原で、百戦錬磨の秦軍に勝てましょうか? 包囲もされない。背後にも回られない。これ以上ましな場所があるでしょうか?」
顔聚将軍がぴしゃりと言い切り、さらに続ける。
「李信は若く勇猛。また、その目的は安平君の首。秦軍二万に対し斉軍一万。李信の性格上、我らを無視することもなく、必ず攻撃を仕掛けてくるでしょう」
僕は顔聚将軍の言葉を引き継いだ。乾いた唇を舐め、声を絞り出す。
「そして、秦の兵士は手柄に貪欲で、降伏しても首を斬られるだけ。生き残りたければ、死力を尽くし目の前の敵を殺すしかない」
もちろん、精神論だけでどうにかなるとは思っていない。勝つための策は、すでに用意している。
右手の山間に千人の兵士を隠し、頃合いを見て秦軍の側面を攻撃するのもその一つだ。
僕は安平君に笑いかけた。震えを見せないよう、腹に力を込めて。
「今日は秦軍を破ってから、皆で一緒に会食をしましょう」




