泥濘の大博打・二
(Side 李信)
「田仲は血迷ったのか?」
眼前には、黄河を背に俺たちを待ち受ける斉軍。
「田仲は文官畑を歩んできたと聞いておりましたが、兵法の常識も知らぬとは。あの世で父の田単が泣いておりましょう」
側近の除勝が嘲るように言った。
「……李将軍。私はそうは思いません」
息を切らしながら意見するのは夏無且殿。秦王の侍医だ。
風邪気味の俺を気遣った大王様がわざわざ俺に同行させてくださった。大王様の厚遇には酷く感謝しているが……正直お荷物になっている。
彼を気遣って普段より進軍の速度を落とす羽目になってしまった。即断即決と神速の行軍こそが俺の持ち味だというのに。
「医者の私でさえ、川を背にすることの意味は知っております。田仲は理解したうえで、あそこに布陣しているのです」
俺は改めて斉軍を見る。
俺たちから見て右手には三日月湖によって生まれた沼地。左手には峻険な山。左右を障害物で挟まれ、包囲することができない。
「……ふむ。大体わかった」
「本当ですか? さすがです将軍!」
除勝が俺をよいしょする。こいつは恐れ知らずの猛将だが頭が空っぽだ。あるいは頭が空っぽだからこそ死地に嬉々として突っ込むのか。
「斉兵は戦いを知らない。言ってしまえば民間人だ。殺し合いの恐怖から逃れることを防ぐためにあのような場所に陣を敷いたのだろうよ」
「なんとも非人道的ですな……」
「侍医殿。そもそも戦争とはそういうものです。そして我らは、乱世を終わらせるための正義の兵なのです」
夏無且殿は俺の言葉を聞いて微妙な表情で俯いた。恐らく、先日大王が行われた、邯鄲での民間人の生き埋めを思い出しているのだろう。
……まぁ、戦争に多少の虐殺や略奪は付き物だろう。
「私は乱世が終わってほしくないですけどね。出世の機会が減ってしまいます」
「なら、今のうちに首を稼いでおけ、除勝。――全軍止まれぇ!!」
斉軍と矢が届かないギリギリの位置まで迫ったところで、声を張り上げ足を止めさせる。その瞬間、軍全体が一つの生き物のようにピタリと止まった。
大地を踏みしめる音が消え、風の音が妙に耳に残る。遠くで斉軍の陣太鼓が乱れたリズムで鳴り続けているのが、やけによく聞こえた。
この軍の練兵をしたのは俺ではない。けれど、この軍を率いていると、自分が強くなったように錯覚してしまう。
……戒めなければな。
「左手には山がある。敵がそこを通って側面攻撃を仕掛ける可能性がある。よって兵三千を左方に警戒部隊として配置!」
命令を受けた部隊が土埃を上げて隊列を割る。馬たちが興奮を隠せず、蹄で地面を掻いた。
「残りは全て目の前の斉軍に攻撃する部隊だ。各々、命令が下るまで待機!」
「医者が軍事に口出しをすべきではないと承知ですが、右方はいいのですか?」
「必要ありませぬ、侍医殿。右の沼は大軍が通れぬゆえ最初から警戒などしなくてよい。――斥候部隊は背後からの奇襲に備えて後方に広く展開しろ!」
俺の命令を全軍に貫徹させるために、銅鑼が重厚に響き旗が揺らめく。斉軍の陣からどよめきが上がるのが、この距離でも見て取れた。動揺している。
「将軍! 今すぐ攻撃しないのですか?」
除勝の愛馬が主の気持ちを代弁するように、いきり立って嘶いた。正直俺も除勝と同意見だ。
――獲物を侮るな。例え弱くとも、追い詰められた時に何をするかわからん。
大王からかけられた言葉を思い出す。面倒だが多少慎重に動いた方がいいだろう。
いくら斉兵が戦知らずの雑魚とはいえ、真正面から殴り合えばどうしても犠牲は多くなる。
「まずは軽騎兵を出せ」
田仲は自分から逃げ場をなくしてくれた。討ち取るなら今しかない。
土埃が薄く舞い上がり、乾いた風がそれを黄河の方へと運んでいく。
――――――(Side 顔聚)
土埃を、私は丘の上から見つめていた。
土を盛って作らせただけの丘だ。手汗が酷く、握っている矛が滑る。
昨年は何もできずに秦軍に敗れた。今回はどうだろうか。
少なくとも、この地形であれば何もできずに敗れることはないだろう。
あの小役人上がりの軍師殿からこの作戦を聞かされたときは「素人が何を語る」と思った。
だが、数ある博打の中では、これが一番ましだと思う。そもそも、秦と戦うこと自体が分の悪い賭けなのだから。
嫌になるほど澄んだ青空の下、百騎にも満たない秦の軽装騎兵が軽やかな馬蹄を響かせながらこちらに迫ってくる。
「……まずい」
あれは間違いなく挑発。
我々が応じれば秦軍は開けた場所まで引いて包囲してくるだろう。斉兵の多くは初陣で、恐怖に駆られている。
先頭の兵はがむしゃらに戦い初めて間違いなく挑発に乗り、それに後衛の兵が何も考えずに続き、軍全体が前に進むことになるだろう。
そうなればもはや止められない。
軍師殿も、決して深追いするなと兵士たちに言い聞かせているが……正直甘い。命のやり取りの場で、素人がそんな命令を覚えているはずがないのだ。
「安平君。ここはお任せします」
「……わ、分かり申した」
私は安平君を見ることなく馬を駆ける。
弓兵が私の部下の指示で弓を射かけ始めている。何騎かの秦の騎兵が負傷し、落馬して土に肉をぶつける音が微かに聞こえる。
「う、うぉぉぉ!!!」
「やってやる! やってやるんだ! 俺は生きるぞぉ!」
「せ、斉のために!!!」
まだ秦の騎馬隊が五十歩ほど離れているところで、先頭の兵士たちが恐怖にこらえきれず勝手に突撃を始めた。
それを見た後衛の兵士たちが互いに顔を見合わせる。
――俺たちも続くべきなのか、と。
深く息を吸い、苦しくなるまで肺を膨らませる。
「動くなぁ!!!!」
私の声に驚いた兵士たちが動きを止める。
「死に物狂いで迎撃しろ! 襲い来る暴秦どもが尽きるまで迎撃だ!!」
叫びながら順番に兵士たちの目を見る。目を見て話すというのは思っている以上に大切なのだ。
兵士たちは静かに頷き、秦の騎兵へと視線を戻した。
……まずはともかく、軍の暴発は防げたか。




