泥濘の大博打・三
(Side 田仲)
「よし……よし。今のところは、なんとか持ちこたえている……!」
止めどなく流れる冷や汗が、服を肌に貼りつかせる。手のひらの汗が滴り、愛馬の首筋にかかった。
指揮官とは、戦場のすべてを見渡せる者だと思っていた。だが実際は、絶え間なく舞い上がる土煙のせいで何が起きているのかほとんど分からない。
今日は風が強い分、なおさらだった。土煙の向こうから、馬蹄の震動が地面を伝って足元まで響いてくる。
それに混じって、金属がぶつかり合う音、悲鳴、そして時折、愛馬が落ち着かなげに鼻を鳴らす音。
目に頼れない分、耳と、鞍の上で伝わる振動だけが戦況を教えてくれた。
開戦から一時間。秦軍はいまだ大規模な攻勢に出ない。
軽装騎兵だけでの挑発には乗らないと見切った李信が、その騎兵に軽装歩兵千人を加え、さらなる挑発を仕掛けている最中だった。
土煙の切れ間からかろうじて見えたのは、前線で斉の歩兵が秦の歩兵と睨み合う姿。意外にも、前線は拮抗していた。
先に槍を突き出すのは秦兵だ。恐怖に足がすくんだ斉兵は槍を構えたまま動けず、その体に敵の刃が突き立つ。何人かはそれで息絶える。
だが致命傷を免れた者は、怒りに任せて反撃に転じた。
後衛の斉兵たちは、それを見て左右や背後をうかがう。この地獄から逃れる道はないかと。
右手には峻険な山、背後には黄河が控える。ならば左の沼地からと走り出す兵もいたが、そこは多量の水分を孕んだ泥沼。
着鎧したままではとても歩けず、一人の兵士が転び、起き上がらなくなる。
ある者は涙をこぼし、ある者は叫び声を上げた。そして最後には、覚悟を決めたように武器を構え直し、迫り来る秦兵へと静かに顔を向けていく。
――いっそ、無抵抗のまま滅ぼされるのも悪くないかもしれませんね。
不意に、この戦の策を立てた子安先生の言葉が脳裏をよぎった。
「……それでも」
私は小さく呟いた。
「言葉も文化も違う異国の民に、斉の地を渡してなるものか」
――――――(Side 除勝)
轟轟とはためく大将旗の下、李信将軍が静かに口を開いた。
「除勝」
「はっ」
「意外にも斉の兵士たちは統率が取れている。こちらの挑発に全く乗らない」
「……ということは?」
腹の底から歓喜の感情が沸き上がってくる。一瞬にして体が温まり、自然と口角が上がった。
「挑発はもう無駄だ。これより本格的に攻勢に出る。お前が先鋒を率いろ」
「ありがとうございます、将軍! たくさん首級を上げて将軍よりも出世してやります!」
「……お前より位が下とか、絶対に嫌なのだが。まぁいい、行ってこい」
将軍が渋い顔で呟いた。
「安心してくださいよ将軍。私は部下に優しいので」
そう言って馬を駆けようとした、その時だった。夏無且殿が冷や水を浴びせてくる。
「兵糧攻めにしなくともいいのですか? 李将軍」
「この戦いの目的は田仲の首です。夜闇に紛れて奴に逃げられれば元も子もない。それに、数も少ない斉の弱兵ごときに弱腰な態度をとるなど、この李信の矜持が許さないのです」
「そうですよ、侍医殿。医者が軍事に口出ししないでください」
私がそう言うと、夏無且殿は申し訳なさそうに頭を下げた。……少し言い過ぎただろうか。
将軍たちに一言告げると、私は軽やかに馬を進ませる。
視界が酷く広い。風を切る感覚が気持ちいい。絶え間なく響く銅鑼の音も、斉の兵士の叫び声も、全てが心地良い音楽のように聞こえた。
「よしっ……。突撃だ! 土地も爵位も、美食も邸宅も、全てこの先で手に入る! 私についてこいっ!」
「「「おう!」」」
秦兵の雄たけびが一つに重なり、足並みを揃えて動き出す。私は彼らの先頭に立って大地を駆けた。
前方から斉の弓兵が放った矢が雨のように降ってくる。
「さて、今日の私の運勢は……ぐぅっ」
左肩と右脇腹にそれぞれ一本ずつ矢が刺さった。焼けるような痛みが走るが、それすらも心地良い痺れに変わっていく。
「上々! この程度で済むとは今日は運が良い!」
どうしようもないくらい口角が上がる。もう敵は目の前だ。
意外にも、目の前の斉兵どもは覚悟を決めたように私のことを静かに見つめていた。
私は矛を振るい、一人の斉兵の肩口を斬る。矛を抜いた瞬間、彼の傷口から血が噴き出し、頬に生温かい飛沫がかかった。周囲では剣戟の音に混じって、誰かの短い悲鳴が上がる。
別の斉兵が私の側面から槍を突いてくるが、それは秦の兵士が防いでくれた。
「さて……。生きるか死ぬか。楽しもう……!」




