泥濘の大博打・四
「はぁ……はぁ……何やってるんでしょう、僕……」
足を一歩踏み出すたび、ぬかるみが「ずぬぅ」と底知れぬ力で靴を締め上げてくる。
戦場の左翼にどこまでも広がる泥濘地。いま僕が這い進んでいるのは、酷いところだと膝はおろか腰まで沈み込む泥の海だ。
粘土のように重く絡みつく場所があるかと思えば、急に「じゅぷ」と軽い音を立てて沼のように緩む場所もある。
どちらにせよ、腐った葉のような饐えた臭いが鼻の奥にこびりついて離れない。
足の感覚は、もうとっくに消えていた。
引き抜こうとするたび、吸盤のようにまとわりつく泥の強力な吸引力が太ももの筋肉を狂おしく絞り上げる。
「う……っ!」
不意に泥の底で小石を踏み、ぐにゃりと足首があらぬ方向へ折れた。だが、泥の重量が幸いしたのか、ギリギリのところで捻挫は免れた。
思わず体が傾く。必死で手に握った長柄の棒を泥の底へ突き立て、なんとか倒れ込むのを踏み止まった。荒い息が白く弾ける。
一度でも転べば終わりだ。十月末の凍りつくような泥水が全身を包み込み、あっという間に体温を奪い去るだろう。
ズボンの裾を縄で鬱血するほど硬く縛り、体には吐き気がするほど生臭い獣脂を塗りたくって凍傷を防いでいた。
僕の後ろには、十人の兵。敵の哨戒を掠めるための最低限の人数。その先頭を、悲鳴を上げる足を強引に動かして僕が引っ張っていた。
「軍師殿まで……泥濘を渡る必要は……ないというのに……」
後ろを歩く兵士が、泥を掻き分ける音に混じって、途切れ途切れに声を絞り出す。
「では聞きますが……この作戦を聞いたとき……あなたはどう思いました……っ?」
「……正気の沙汰じゃないと……。そうですね……確かに言い出しっぺの軍師殿が……いなきゃ、やってられません……」
兵士は一人で納得したように小さく鼻を鳴らした。
「本当なら途中で逃げるつもりでした……。けどっ……俺より細い軍師殿が泥まみれで先頭を歩いてるんだ……逃げたら男が廃る……」
冷たい泥の海を何時間も進むなんて、誰だって突っぱねたくなる。だからこそ、言い出しっぺの僕が先頭を歩く必要があった。
「……幸いなのは」
かじかんで感覚のない唇をなんとか動かす。
「強風が……左に向かって吹いていることです」
ゴオッと音を立てて吹き荒れる猛烈な風が、戦場の土煙を運んで僕たちの頭上を通っていた。この天然の目眩ましのおかげで、遠回りをせずに済んでいる。
もう何時間経っただろうか。
背後から馬蹄や叫び声、鉄がぶつかる音が微かに聞こえ続けているから、まだ、斉軍は崩壊していない。
「……もう、少しです。泥を抜けた先の草むらに真水とか色々隠してますから……もうちょっとで体を洗えますよ」
そう言いながらも、足を止めそうになってしまう。膝が笑い、視界の端がふっと暗くなる。頭の中で警鐘が鳴っているのが分かる。
唇を噛み締め、必死に己に発破をかける。
――人間は生存のためにまだ余力があるうちに限界を感じるようにできている。だとすれば、いま感じているこの「もう無理だ」は、本当の限界ではない。
ならば――
「まだっ……いけるっ!」
泥が口の中に入る。慌てて吐き出すが、余りのまずさに思わず泣き出しそうになってしまう。
こんな時なのに感染症が、と考えるのが面白い。
ふと笑みがこぼれ、狭まっていた視界が緩まる。すると、僕が待ち望んでいた光景が目に入った。
「――みなさん! もうあと五十歩ほどです!」
途端に、後方から歓喜の声が上がる。
僕は気力百倍と足を必死に動かす。だが五十歩は、思っていたより長かった。腕はとうに感覚を失い、棒を握っているのかどうかさえ怪しい。
それでも、一歩、また一歩。
ズルリ、と最後の泥から這い上がろうとして、腕に力が入らず一度滑り落ちる。歯を食いしばり、指先の感覚のない手を泥に突き立て、最後の力を振り絞って体を引き上げた。
倒れ込むように固い草むらへ倒れ込む。
途端に、運動を止めた身体から急速に熱が奪われていく。歯の根がガチガチと激しく鳴り、抑えようとしても止まらない。
「ぐ……っ、軍師殿……」
追いついた兵が、声を出さぬよう胸を激しく上下させながら目配せを送ってくる。全員、膝から下が感覚を失い、青紫色の唇を震わせていた。
「……ここです」
この数年で捉えた秦の斥候から剝ぎ取った装備、真水、『火種』と数壺の油。草むらの中に隠しておいた宝の山。
それを見た瞬間、死に体だった兵士たちの瞳に、ぬらりと強い光が戻った。
「――皆さん。急いで体を清めて着替えてください」
秦軍の背後に回ることができた。
後は、秦軍の後方の森に火を点けるだけだ。




