泥濘の大博打・五
(Side 李信)
「まだ、崩れないのか……」
無意識に、俺はそう呟いていた。
前線は膠着していた。いや、膠着というのは生ぬるい。押しても押しても、斉兵は死体を積み上げながら踏みとどまり続けている。
弱兵と侮っていた。けれど、あの斉兵たちは……。
精強な秦兵でさえ、恐怖を感じている者が出ていた。
「追加で歩兵三千を投入しろ。今度こそ、押し切る」
「はっ!」
銅鑼が新たに打ち鳴らされ、後方に控えていた部隊が土煙を上げて前進を始めた。犠牲は覚悟の上だ。田仲の首さえ取れれば、斉は滅んだも同然だ。
そこへ、一人の斥候が馬を飛ばして駆けてきた。
「将軍! 黄河を遡上して、多数の旗を立てた斉の船団が接近しております!」
「船団……? 数は」
「旗の数から判断するに、五千規模かと!」
俺は思わず眉をひそめた。
五千。
……確か、主戦派に与する斉の封君が近くにいたはずだ。名は忘れたが、私財を投じて兵を蓄えていると聞いたことがある。あれか。
だが、すぐに違和感が首をもたげる。
斉には、我が国の間諜が幾重にも入り込んでいる。もしどこぞの封君が本当に五千もの兵を集めていたなら、必ず俺の耳に入っているはずだ。
そんな報告は、一度もなかった。
「……なるほどな」
俺は口の端を持ち上げた。
「積み荷で船足を重くして、旗だけを大量に立てている。船足の重さで大軍が乗っているように見せる、古典的な疑兵の計だ」
「では、無視してよろしいので?」
「無視どころか、目もくれるな。伝令、前線に伝えろ。攻勢の手を緩めるな、とな」
斥候が復唱し、馬を返す。
俺は改めて前線を見た。予備の三千が押し込んでいる。今度こそ、崩れ……。
その時だった。
「将軍! 後方の森より出火!」
声が上がると同時に、俺は背後を振り返った。
黒煙が、恐ろしい速さで空へ立ち上っていく。
もとより強い風だ。乾いた木々に燃え移った炎は、まるで生き物のように枝から枝へと這い上がり、たちまち森全体を紅蓮に染め上げていった。
パチパチと爆ぜる音が、この距離でもはっきりと聞こえる。
「な、なんだあれは……!」
「森が……森が燃えている……!」
前線で戦っていたはずの兵たちの間から、動揺のさざめきが広がっていく。剣を打ち合う音の合間に、ちらちらと後方を振り返る顔が増えた。
――数時間にわたる激戦で、体力も気力も限界に近い。そこへ、背後からの予期せぬ火。
「背後に斉軍がいるんじゃないのか……!?」
誰かが叫んだ言葉が、瞬く間に伝播していく。
俺は舌打ちをした。
「落ち着け! 後方には斥候部隊を広く展開させている! 敵影ありとの報告は一切ない!」
事実だ。抜かりはなかったはずだ。
「あれは小勢による撹乱に過ぎん! 火の一つに動揺してどうする!」
俺は声を張り上げた。喉が痛む。風邪のせいで、いつもより声の通りが悪い気がした。
夏無且殿が心配げにこちらを見ているのが視界の端に映る。
――大丈夫だ。まだ、崩れてはいない。
そう思った矢先だった。
「左手より敵襲!!」
山間の茂みから、無数の人影が雪崩れるように飛び出してきた。
「最初から三千の警戒部隊を置いてある。問題ない」
俺は即座に応じた。動揺する必要はない。想定の範囲内だ。むしろ、待ち構えていた獲物が向こうから飛び込んできたようなものだ。
「やはり山に伏兵を隠していたか……。悪くない手だが、読み筋の内だ」
だが、周囲の兵の顔を見て、俺は言葉を失いかけた。
百戦錬磨のはずの秦兵たちが、明らかに顔を強張らせている。誰もが背後の炎と、横合いから湧いた敵兵を交互に見やり、槍を握る手に、余計な力がこもっていた。
形だけ見れば包囲されている。
「案ずるな! 見たところ千人ほどだ。あの数なら三千の警戒部隊で十分に――」
俺の声を遮るように、一人の兵が声を上げた。
「将軍! 黄河に、さっきの船団が……!」
視線をやると、確かにあの船団が、もう肉眼ではっきりと見える距離まで近づいてきていた。何十という旗が、強風にあおられて激しくはためいている。
「あれは偽装だと言っただろう! あの船には人がいない!」
俺は声を張り上げた。だが、我ながら分かった。声に、いつもの張りがない。
風邪のせいか。それとも……。
兵士たちの目が、俺を見ている。
これまでの兵士たちには、視線に迷いなど宿っていなかった。李将軍がそう言うなら、そうなのだと、誰もが疑わず前を向いていた。
だが、今、俺を見る目には、明らかな迷いの色があった。
――本当に、そうなのか?
そう問いかけてくる目だった。
俺は、この感覚を知らない。生まれてこの方、味わったことがなかった。
自分の言葉が、自分の兵に届いていない。
「将軍」
夏無且殿が静かに馬を寄せてきた。その声は、驚くほど落ち着いていた。
「僭越ながら、今の状況を整理させていただきます。今、我々が実際に目にしているのは、黄河を背にした斉の本隊と、山間から襲撃を仕掛けてきた斉軍。この二つのみです」
「……分かっている」
「あの船と、後方の森に本当に兵が潜んでいるかどうか、私には分かりません」
夏無且殿は言葉を切り、俺をまっすぐに見た。
「ですが、もしいた場合は――惨事です」
その一言が、妙な重さで俺の腹に落ちた。
正しいかどうかではない。分かるかどうかでもない。
――もし。
たった二文字が、これほどまでに重いとは思わなかった。
俺は改めて、周囲の兵たちの顔を見渡した。
「なぁ……将軍はああ言ってるけど、本当に斉軍がいたらどうするんだよ」
「なんだよこの戦。楽に首を稼げるって聞いてたのに、全然違うじゃねぇか」
「森が燃えて、横から敵が出てきて、船で敵の援軍まで来てるんだぞ……」
囁きが、伝染していく。誰も彼もが疲れ切った顔で、俺を見ながら、俺以外の何かに救いを求めるように目を泳がせていた。
――ああ。
俺はようやく理解した。
正しい答えを持っていることと、兵がそれを信じることは、別物なのだ。
俺はこれまで、迷ったことがなかった。即断即決こそが俺の武器だと思っていた。だが、その武器は、俺自身が疑われた瞬間に、意味を失う。
――獲物を侮るな。例え弱くとも、追い詰められた時に何をするかわからん。
大王の言葉が、今さらのように耳の奥で反響した。
俺は、侮っていたわけではない。地形も、兵力も、正しく読んでいたはずだ。
だが、それでも足りなかった。
頑強に抵抗する正面の斉本軍、背後の森での火災、左手の山からの斉の伏兵、黄河を遡上してくる不気味な斉の船団。
――そのどれもが、単体では俺の軍を揺るがすには至らない。
だが、全てが重なった時、揺らいだのは陣形でも兵力でもなく、俺という将軍への信頼、そのものだった。
「……退却だ」
掠れた声で、俺はそう呟いた。
誰かに向けてというより、自分自身に言い聞かせるような声だった。
俺は、もう一度、今度ははっきりと声を上げた。
「全軍、退却する! 田仲の首は、また今度だ!」
命令が伝令によって広がっていくたび、兵たちの顔に、露骨な安堵の色が浮かぶのが分かった。
その表情を見て、俺は妙な虚しさを覚えた。
――ああ、こいつらは、俺の采配ではなく、俺の命令が自分たちを死地から遠ざけてくれることに安堵しているのか。
風が、また一段と強く吹いた。




