戦後の凪・一
「……はぁ」
鎮西城の廊下を歩きながら、僕は小さく息を吐いた。
身体が重い。
泥濘地を歩き続けたせいだろうか。緊張が解けた今になって、全身の疲労が一気に押し寄せてきていた。
それでも、休む気にはなれなかった。
城内の一角に設けられた治療所から、負傷兵たちの呻き声が聞こえてくる。今回の戦いで、斉軍は戦死者千二百、負傷者千七百人を出した。
秦軍も戦死者は八百六十人。負傷者は正確には分からないが、おそらく千から二千人程度。
たった一日の戦いで、二千人以上が死んだ。そして、三千人近くが傷を負った。……いや、まだ終わっていない。
この時代では、傷を負ったからといって助かるわけではない。現代なら治療すれば助かるような傷でも、感染症などで簡単に命を落とす。
おそらく、この三千人の中からも、多くの死者が出るだろう。
「軍師殿……」
不意に、横たわっていた兵士が僕を呼んだ。腹に巻かれた布は、すでに赤黒く染まっている。
「大丈夫ですか?」
「ええ……まあ」
どう見ても大丈夫ではなかった。
けれど兵士は、なぜか笑っていた。
「勝ちましたな」
「……はい」
「秦の奴らに、斉人の気概を見せてやりました」
そう言って、彼はゆっくりと目を閉じた。
「後悔は……ありません」
少し歩くと、別の兵士が仲間と話していた。
「これで、秦に俺たちの生活を奪われずに済むな」
「俺たちが守ったんだ」
「……ああ。郷土を守れてよかった」
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
彼らにとって、この戦いは故郷を守る戦いだったのだ。秦軍を退けたことで、自分たちの生活が守られたと信じている。
……もちろん、僕は知っている。
秦はまた来る。
そして、いずれ天下を統一する。
今回の勝利だけで、何かが終わったわけではない。
「帰りたい……」
ふと、小さな声が聞こえた。
まだ若い兵士だった。
「父上と母上に……会いたい」
僕は足を止めた。
兵士は天井を見つめたまま、何度も同じ言葉を繰り返していた。
帰りたい、と。
結局、彼らは皆、英雄になりたかったわけではない。
ただ、生きて故郷に帰りたかっただけなのだ。
「……」
僕は何も言えず、その場を離れた。軽傷の兵士たちが集まっている場所では、まったく違う光景が広がっていた。
「見たか、秦の奴らを!」
「暴秦を退けてやったわ!」
「これで領主様にも恩を返せた!」
彼らは興奮した様子で、戦いのことを語っている。
一方で、その輪から離れた場所では、一人の兵士が俯いていた。
「俺はもう二度と戦いたくない」
誰に向けるでもなく、彼は呟いた。
「目の前で仲間が死んだ。昨日まで一緒に飯を食っていた奴が……」
戦争に勝ったからといって、皆が喜んでいるわけではないらしい。誇りを感じる者もいる。二度と戦いたくないと思う者もいる。
当たり前だ。
一万人も人間がいれば、一万人それぞれの戦争がある。
「……そういえば」
ふと、思い出す。
今回の戦いは歴史書には載っていなかった。だから、記録する価値のない局地戦だったはずだ。
当たり前のように秦軍が勝利した戦い。
けれど、斉が勝ってしまった。
歴史を、変えてしまった。
「……」
思考が凍りつく。
僕は――。
そこで、考えるのをやめた。
「弱いな、僕は」
「何がですか?」
「……顔将軍」
振り返ると、甲冑を脱いだ顔聚将軍が立っていた。戦場で見るよりも、ずいぶんと穏やかな表情をしている。
「さあ、一緒に会食をしましょう」
「会食?」
「何をとぼけているんです。子安殿が約束したのでしょう」
……そういえば。
生き残ったら会食をしよう、という話をした気がする。
「さあ、行きましょう」
顔聚将軍に促され、僕は治療所を離れた。そして、その時になって初めて気がついた。肉を焼く匂いがする。酒の香りも。
さっきまで、まったく気づかなかった。
広場にはすでに多くの兵士が集まっていて、酒や肉が振る舞われ、あちこちで笑い声が上がっている。
つい先ほどまで、死にかけた仲間を見ていた兵士たちとは思えないほど明るい。
……いや。
だからこそ、笑っているのかもしれない。
「領主様!」
誰かが叫んだ。
兵士たちが一斉に声を上げる。
「領主様!」
「安平君!」
小高い建物の上に、安平君が立っていた。
ここにいる兵士たちは、皆、安平君の封地で暮らす領民だ。
「静まれ!」
安平君の声で、広場が静かになった。
「此度の戦い、お前たちは実によく戦った。ここにいる者の多くは初陣だった。恐ろしかった者もいるだろう。逃げ出したくなった者もいるだろう。それでも、お前たちは逃げなかった。秦軍は強かったが、それでも陣を維持した。だからこそ、我らは勝つことができたのだ!」
歓声が広場に響き渡る。
「そこで、新たな軍功の定めに従い、今回の戦いに参加した兵すべてに、来年の租税半減と労役の免除を与える!」
一瞬の静寂の後、広場が揺れるほどの歓声が上がった。全員に、とは大盤振る舞いだ。
「さらに、敵兵を討った者、危険を冒して味方を救出した者、その他、軍の勝利に貢献した者には、その功績に応じて銭を与える!」
秦のように、首級のみを評価基準にはしない。それが僕の提案した軍功制度だった。
「敵の首を取った者だけが功労者ではない。この勝利は、敵と戦った者だけではなく、仲間を救った者、恐怖に耐えて持ち場を守った者、そのすべてによって得られたものだ。ゆえに、この勝利に貢献した者すべてを、我らは評価する!」
今回の戦いで、秦兵を討ちとることができなかった兵士たちの目が輝いた。
「そして、此度の戦で特に大きな功を立てた者を紹介する。前へ出よ!」
呼ばれて前に出たのは、斉軍の最前列に立っていた兵士たちだった。
どこにも逃げることができず、秦軍の猛攻を真正面から受けた者たち。
「お前たちは此度の戦いで、最も苛烈な場所に立っていた。秦軍の精鋭を最初に受け止め、踏みとどまり続けた。お前たちが恐怖に駆られて退けば、我らは黄河に呑まれていただろう。その功績を称え、ここにいる者全員に免税三年と銭三千を与える!」
歓声が上がる。
兵士たちは、信じられないという顔をしていた。
「次に、顔将軍!」
「はっ」
顔聚将軍が前へ出る。
「敵の挑発によって我が軍が暴発しかけた時、貴君はこれを制止し、軍の統制を守った。もしあの時、我が軍が動いていれば、この勝利はなかった。その功績により、銭三千を与える!」
「ありがたき幸せ」
顔聚将軍が頭を下げた。
「また、泥濘地を突破して秦軍の背後へ回り、森を焼いた十人には五年間の免税を与える。さらに、戦死者の遺族には三年間の免税を与え、妻子がいる場合は領主府が可能な限り扶助する。負傷者にも、その怪我の程度に応じて金銭や免税を与える。後遺症が残った者も、我らが見捨てることはない!」
負傷兵たちの間から、嗚咽が聞こえた。
「俺たち……戦ってよかったな」
「斉人の気概を見せられたし!」
「領主様ぁ!」
再び歓声が上がる。
安平君は、それをしばらく見つめていた。
そして、最後に手を上げた。
「さらに、今回の戦に参加した者だけではない。我が領民すべてに、この勝利を分かち与える!」
役人たちが、大量の木簡を運んでくる。
「これはこの田仲が領民に貸し付けた銭穀、そのすべての借用証文である。本日をもって、これらをすべて焼却する!」
木簡が火の中へ投げ込まれた。
一瞬、広場が静まり返る。
「……え?」
誰かが呟いた。
そして。
「うおおおおおおおおおおお!」
今日一番の歓声が上がった。
兵士たちは叫び、抱き合い、酒を飲んでいる。
……これで。
この兵士たちは故郷に帰れば、誰もが英雄だ。秦軍を退けただけじゃない。領民全員の借金を帳消しにした。
今回、斉が得たものは何もない。領土を奪ったわけでもない。賠償金を得たわけでもない。ただ秦軍を退けただけだ。
それなのに、この大盤振る舞い。
兵士たちを見渡すと、皆、嬉しそうに笑っていた。「もう二度と戦いたくない」と言っていた兵士ですら笑っていた。
「次も戦えるぞ!」
「今度は俺も軍功を立てる!」
そんな声が方々から聞こえてくる。
その瞬間、僕は気づいてしまった。
……僕は何をしている?
斉を強くしたかったわけじゃない。秦に勝たせたかったわけでもない。乱世が長引いて、多くの人が死ぬのが嫌だった。
だから、史実通り斉には無抵抗で降伏してほしいと思っていた。秦が天下を統一すれば、戦乱は終わる。
それが一番、多くの人が死なずに済む。
なのに、僕は死にたくない一心で秦軍を退けてしまった。斉人に、秦は倒せると思わせてしまった。
僕のせいで軍功制度が作られ、戦えば報われ、英雄になれる社会が生まれようとしている。
……これでは。
斉人が戦争をしたがるようになる。今回参加しなかった者も、次は自分が戦おうと思うかもしれない。
僕は酒杯を見つめた。周囲では、兵士たちが朗らかに笑っている。その笑顔を見ていると、なぜだか少し恐ろしくなった。
「……歴史を変えるつもりなんてなかったのに」
勝者たちの宴の真っ只中で、僕はひとり、果てしない未来の血の海に怯えていた。




